60年安保闘争

2020年08月

1957年、岸信介首相が安保改定に乗り出し、米側と話し合いがもたれ、新安保も現実味をおびた。

だがやがて反対デモが活発化し、60年5月19日には新安保条約が強行採決される。

請願デモは岸内閣退陣を要求する抗議デモへと変わり、6月15日には国会での衝突のなか、東大生・樺美智子(22歳)が死亡した。

安保条約とは

正式には「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」。1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約とともに結ばれた。

これは米軍の日本国内およびその付近への駐留・配備を認め、条約の失効は日米双方の認定を必要とするが、米駐留軍は日本防衛の義務を負わないという形式で、その内容は、駐留米軍は極東における平和と安全の維持、日本政府の要請に応じて国内の騒擾や内乱の鎮圧、日本に対する外部からの武力攻撃の阻止に使用することができるというものだった。

当時の吉田茂首相は「アメリカに防衛をまかせて、日本は経済復興に集中しようという考えで調印した」と語っている。

当時は米ソ2カ国による冷戦体制、吉田内閣は防衛力の増強こそ不可欠として、54年7月、日米の合意の元に防衛庁と自衛隊を発足させた。このことにより安保を見直す動きが出てきた。

57年1月、群馬県の訓練場で、米兵が主婦を射殺するというジラード事件が起こった。反米感情高まる。

また同年6月、岸信介首相が「日米新時代」の声明を発表。日本の経済成長を背景に、日米安保条約改定の意思を表明した。

さっそくアイゼンハワー大統領と会談し、安保改定の準備を進めようとしたが米側は「時期尚早」として乗り気ではなかった。

ところがこの年の10月、ソ連が世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功、11月にはライカ犬を乗せたスプートニク2号の打ち上げにも成功した。先を越されたアメリカは、12月に人工衛星バンガードを打ち上げたが失敗、翌年1月にエクスプローラー1号でようやく成功した。これはロケット技術による大陸間弾道弾(ICBM)開発にアメリカが遅れをとったことを意味し、極東戦略の変更、ひいては日本の前線基地化、核武装化させるべく方針を転換することを余儀なくされ、日米安保条約の改定に乗り出すことになった。

58年9月11日、藤山愛一郎外相がワシントンでダレス米国務長官と会談。日本側の要望として、「日本の片務性の解消」「駐留米軍の移動についての事前協議」「駐留米軍の配備についての事前協議」「内乱条項の削除」「条約期限の明示」を挙げた。

10月4日、藤山外相とマッカーサー駐日大使のあいだで安保改定の第1回日米会談が開かれ、この席でアメリカ側は西太平洋全域を日米共同防衛区域にするように要求。これには国内世論が反発し、岸首相も拒否した。

12月16日の第3回交渉では、警察官職務執行法開成安をめぐる国会の混乱や安保条約の適用区域をめぐる自民党内の意見の食い違いなどを原因に、交渉は中断された。

59年5月2日、再開第3回会談。改定の際の主要問題点について大筋で双方の意見が一致。

7月6日、岸首相の外遊出発を前に、政府・与党首脳が安保改定問題の取扱を協議。「安保改定は急がない」という旨で意見一致となった。この結果日米交渉はしばし中断した。

8月22日、日米交渉が再開された。だが自民党・河野一郎氏が、新条約の期間10年固定や行政協定の内容に異論を表明。9月に岸首相と話し合いの席が持たれ、河野氏は首相の意見に賛成し、協力を約束した。

全日本学生自治会総連合

全学連が誕生したきっかけは、GHQの打ち出した国立大学の地方自治体委譲案、また反対を受けての代案である大学理事会法案、国立大学の授業料3倍値上げ間に対する抵抗運動だった。

48年6月1日、こうした案に反対する5000人が日比谷音楽堂に集まり、「教育復興学生決起大会」を開き、デモを行った。また全国官公立大学高等自治会連盟が結成され、一斉ストライキを決議、私学系もこれを支援し、全国で114校でストが行われた。抗議活動はその後も続き、同年9月、全学連(全日本学生自治会総連合)は結成された国公私立145校、30万人が参加。本部は東大内に置かれ、初代委員長には東大自治会委員長・武井昭夫が就任している。他の中心的なメンバーには安東仁兵衛、力石定一、沖浦和光、不破哲三、上田耕一らがいた。

56年10月、ハンガリー首都ブダペストでの反政府(反共産党政権)デモが起こり、ソ連が軍事介入(ハンガリー闘争)。日本共産党がこれを支持したことで、全学連や学生党員らが反発。離反の要因のひとつとなる。

57年1月、元・日共党員らが「日本トロツキスト連盟」結成。10月には「革共同(日本革命的共産主義者同盟)」(後に革マル派、中核派に分派)に改称する。

58年12月、日本共産党を除名された全学連主流派の学生党員を中心に「共産主義者同盟(第1次ブント)」結成。

全学連幹部がはじめ日共党員で占められていたが、活動家は共産党の方針にあきたらず、60年の大会で事実上離別した。

59年6月、全学連第14回大会で、ブント執行部・唐牛健太郎が主導権を奪う。唐牛委員長―北小路敏書記長ラインで主流派構成し、安保問題にとりくみはじめた。

安保反対闘争では、たびたび警官隊と衝突、国会に乱入、羽田空港座りこみなどの行動を続け、「ゼンガクレン」の名は世界的に知られることとなった。

国会座りこみ事件

小出しに発表される改定案について、国内では憲法第九条の解釈の仕方や、米軍移動の際の事前協議などが問題となった。「日本の平和」のためだけではなく、「極東における国際の平和および安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍および海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」というものであり、労組などからの「再び戦争にまきこまれる」といった反対ビラも見られるようになった。

59年3月28日、社会党と総評は、共産党をオブザーバーとして138の団体が結集した「安保改定阻止国民会議」を形成。この組織は全学連とともにデモ隊の主役となった。

6月25日、安保改定阻止第三次統一行動。39都道府県で160万人が参加。

同年7月の世論調査で、「安保条約の改定が問題となっているが」の問いかけに、「知らない」と答えた人が50%、もう50%は「知っている」と答えたのだが、「どういう点を変えようとしているのか」に答えられたのは、わずか11%に過ぎなかった。

11月9日、文化人・芸術家が安保批判の会を結成。

11月27日には2万7千人(警視庁調べ)が国会周辺に集結した。デモ隊は国会三方の道路を埋め尽くし、他にも国会前のチャペルセンターあたりには全学連、日教組が、人事院ビルには国労、全通などが、特許庁前には全学連、全金属などがのデモ隊がそれぞれ数千の規模で集まった。
 全学連のデモ隊は国会周辺に配置されていた警官隊の制止を破って、2度に渡って国会構内になだれこんだ。約2万人が1時間余りにわたって構内正面玄関に座りこみ、社会党・浅沼書記長らの解散呼びかけも聞かず、6時を過ぎてようやく引き上げていった。結局この騒ぎで警官・デモ隊双方で300人を越す負傷者を出した。

事態にあわてた浅沼稲次郎社会党書記長、岩井章総評事務局長は宣伝カーの上から「事態を収拾するために解散」を命じ、共産党の神山茂夫も「我々共産党は、社会党・総評の方針を支持する」と演説、自分たちの行動を否定された学生・労働者たちは呆然として帰り始めた。
 夜になって、政府は緊急閣議で「国会の権威を汚す有史依頼の暴挙」という声明で全学連を非難、これを助長したとする社共も責めた。

国会にデモ隊が乱入する事件はこれが初めてではない。1950年3月9日、第7回国会で25年度予算案が可決された日に、予算案に反対した約1万人のデモ隊が、夜間デモを行ない、構内の建物の屋根でタキ火をしたり、議事堂内に入ろうとした。2つめの事件は51年11月1日、第9回国会で、吉田内閣打倒のために、デモ隊4,000人がチョウチンデモを行ない、その一部が柵を乗り越えたというものだった。それらの事件と比べてみても、大規模な事件だった。

翌28日、警視庁は全学連、ブント事務所を家宅捜査、全学連・清水書記長、糠谷秀剛副委員長、加藤昇副委員長ら4人に逮捕状をとり、3人を逮捕した。
 

デモ隊と声なき声

12月30日、外務省は「1月19日にワシントンのホワイトハウスで新安保条約に調印する」と正式に発表。

60年1月2日、岸首相は年頭記者会見で「安保改定は岸内閣のゴールではなくスタートだ」と語る。

1月15日。安保条約調印のために渡米する岸首相を阻止しようと、全学連約500名が羽田空港ロビーに座りこんだ。ここでも学生たちは警官隊と衝突。空港食堂は破壊されるなどのひどい乱闘となったが、1時間半後に唐牛全学連委員長が捕まり、他76名も逮捕されて一旦は収束した。

しかし16日早朝、またしても全学連デモ隊第2陣800名が羽田への道で阻止しようとした。しかし、彼らも3,000名の警官隊に防止され、全権団は別の道から空港に到着した。(「第11次統一行動」)

1月18日、公安調査庁、全学連・社会主義学生同盟・共産主義者同盟を破防法にふれる破壊活動容疑団体と認定。

1月19日午後2時54分、日米新安全保障条約はホワイトハウスで調印された。、アイゼンハワー米大統領立ち合いのもと、日本側から岸首相を首席全権として、藤山外相、石井光次郎自民党総務会長、足立正日本商工会議所会頭、朝海浩一郎駐米大使の五全権、米側からハーター国務長官、マッカーサー駐日大使、パーソンズ国務次官補の三全権が署名した。

1月27日、ソ連は新安保条約を非難し、「日本に外国軍が駐留する限り歯舞、色丹島は返還しない」と表明。

2月8日、衆院予算委員会、安保条約の極東の範囲問題で紛糾、岸首相は「中国沿岸と沿海州は含まない」と答弁。

2月11日、衆院は安保条約審議のため、日米安全補償条約等特別委員会設置を決定。19日にこの委員会は審議を開始したが、国会の条約修正権をめぐって混乱となり、26日まで条約審議に入れない状態が続く。

3月6日、東京・日比谷での社会党総決起大会に労組員を含む2000人余が集まり、安保批准反対や岸内閣打倒などを決議。

3月16日、全学連臨時大会初日、主流派と反主流派二派が開会前から衝突し、反主流派二派が退場。

3月19日、安保改定阻止国民会議第一三次統一行動で、各県代表約500人が持参の「一千万署名簿」を国会に提出。

3月25日、社会党の臨時党大会で、浅沼稲次郎が河上丈太郎を破り委員長に就任。書記長には江田三郎。

同日、衆院安保特別委は極東の範囲の問題で紛糾、野党側が「答弁に誠意がない」と退場し、自民党単独審議になる。

4月11日、京大教官有志が安保反対の国会請願署名運動を起こす。20日には東大教官353人が安保反対声明発表。

4月20日、安保改定阻止国民会議と総評は「統一行動をとらず独自のデモをおこなう全学連に反省を求める」と発表。

4月22日、衆院安保特別委で、審議を急ぐ自民党が参考人の意見聴取を強行しようとして混乱、乱闘騒ぎとなる。

4月23日、全学連による国会デモのため、地下鉄丸ノ内線国会議事堂前駅が閉鎖され、電車は同駅を通過した。

4月26日、安保改定阻止国民会議第一五次統一行動に全国で21万4000人が参加。国会付近では全学連主流派約8,000人がチャペルセンター前に座りこむ。唐牛委員長が警察車両のボンネットに飛び乗り、演説を始めた。
「自民党の背後には、一握りの資本家階級がいるにすぎない。われわれの背後には安保改定に反対する数百万の労働者、学生がいる」

この日のデモでは唐牛ら13名が逮捕された。当時、岸首相から部隊の出動を打診された赤城宗徳防衛庁長官は、ずっと後のテレビ番組のなかで次のように回顧している。

「仕方なく辞表を懐にして行ったよ。部隊を出す以上勝たなければならないが、それには銃を使用しなければならない。しかし全学連といえども国の若者である。国軍に国民を撃てとは私には命じられない。だから出動を命じられれば、辞表を出す他なかった。だって、軍人たちに聞いたら、素手で出したのでは勝てる自信がないって云うんだもの」

4月27日、全国タクシー運転者共済組合連合会が約300台で道路運送法改悪反対・安保反対の請願行進を行う。

5月7日、全学連は前月20日に「反省を求める」とされた安保改定阻止国民会議に対し、「統一行動に協力する」と回答。

5月9日、北京で「日米軍事同盟に反対する日本国民を支援する大集会」が開催され、約100万人が参加。同日、大本教徒(人類愛善会)が安保批判の会に加入。

5月12日、群馬商工団体連合会加入商店600軒、安保阻止統一行動に参加し、1~24時間の閉店スト。

5月13日朝までに衆参両院が受理した安保反対請願書は15万7千余通、署名は255万8千人分。

5月14日、「安保改定阻止国民会議」10万人の請願デモ。

5月18日、東京地検は前月26日の国会デモで警官隊と衝突した全学連・唐牛委員長ら6名を起訴。

5月19日、政府・与党は衆院での委員会審議を中断し、野党議員・自民党反主流派議員欠席のなかで、「新安保条約」を強行採決。この採決は1ヶ月後に訪日するアイゼンハウアー米大統領の日程に合わせたものであると見られ、少なからずの反発を生むことになった。

安保特別委員会で、小沢佐重喜委員長(小沢一郎氏の父)により条約承認が強行採決。午後11時過ぎ清瀬一郎衆議院議長は、警官隊を国会内に入れ、座り込んでいた社会党議員を排除、深夜に本会議を開いて50日間の会期の延長を議決した。この時、社会党、民社党議員はもちろんのこと、自民党議員の一部も欠席・途退場した。そうしたなかで、条約は可決された。

自民党内で批判的だったのは中国と近い関係の三木武夫、松村謙三、石橋湛山。強行採決の後、社会党は国会審議を一切拒否し、自民党内でも岸批判がおこった。

社会党でも、西尾末広ら一部右派は改定を容認していたが、党内では少数派だった。西尾氏は譴責処分となり、このため西尾派、河上丈太郎派の一部の計33人が59年10月に脱党、翌年に「社会クラブ」(民主社会党)を結成した。社会党では新たに浅沼稲次郎が委員長に選ばれたが、本来右派の彼も、党の主導権は左派がとっていたため、左よりの言動をとるようになった。

いずれにせよ、世論が動き出したのは、この5月20日からであった。請願デモは怒りの抗議デモに変わり、岸内閣退陣要求に発展した。同日、ソ連は安保条約による米軍への基地提供を非難する対日覚書を門脇駐ソ大使に手交。

5月下旬からデモが頻発化。学生だけではなく、大学教授団初のデモもあった。移民船「ブラジル丸」でも反対集会が開かれた。岸首相邸のある渋谷区南平台ではデモ隊に備えて自宅をバリケードで守る人もいた。

5月26日安保改定阻止国民会議第一六次統一行動が全国で実施され、国会請願デモに約17万5000人が参加。また国会・請願受付所で、「治安確立同志会」坂本勇(当時26歳)ら4名が、社会党・浅沼委員長にアンモニア入りのビンを投げつける。浅沼委員長は全治3日の結膜炎。同日、参院本会議、社会党と民社党などが欠席のまま会期50日延長を議決。翌日には自民党単独で審議を再開した。 

5月28日、岸首相は「新聞だけが世論ではない」「新聞報道には現れない声なき声にも耳を傾けなければいけない」と記者会見で語り、潜在する安保支持派の存在を指摘した。

6月3日、第17次統一行動。

6月4日、総評は時限ゼネストを指令、全国で460万人以上の労働者がストに参加。

6月8日、自民党、衆院安保特別委を単独で開き、安保条約の審議を開始。

6月10日午後3時29分、米大統領訪日の打ち合わせのためハガチー米大統領新聞係秘書が羽田空港に到着。ハガチー氏を乗せた車は空港周辺でデモ隊に包囲され立ち往生し、海兵隊のヘリコプターで脱出。(ハガチー事件)ハガチー氏は同夜、記者会見で「これによりアイゼンハワー大統領の訪日の方針が変わることはない」と話した。

13日、警視庁はこの事件に関し日本鋼管労組事務所と東京教育大、法政大学内を捜査、4人を逮捕した。さらに7月までに共産党員・労組幹部ら26人が暴力行為などの容疑で逮捕された。

6月14日、総評指導部、米大統領来日時のデモ中止の方針を固め、社共両党と協議。

安保反対の動きは、それまで共産党や労働組合とは距離を置いていた人々にも広がった。今では聞こえの悪くなった”市民”によるものである。この闘争が、その後の学生運動と違う点は、市民らが一体となって参加していた点にある。年端もゆかぬ子どもですらも「アンポハンタイ!」と真似するようになった。

東大生・樺美智子について

60年6月15日。この日のストには580万人が参加したと言われる。全商連では全国3万店で閉店ストを行なった。

東京では11万人が国会議事堂を包囲。「第18次統一行動」として、「国民会議」「都労連」「新安保反対キリスト者会議」「安保改定阻止新劇人会議」などが参加した。さらにこれに同調した全学連反主流派も抗議デモを敢行。

また全学連主流派も各地の大学へ呼びかけ、「国会正門前に7500人を動員する」と主張し、気勢をあげていた。これに対して、衆参両院議長は警察に派出要請、約1万人の警官が警備にあたった。議事堂周辺を守るのは3400人ほどの機動隊、方面警察隊である。

午後1時半頃から、主張していた通りに全学連主流派の東大、中大、明大を中心とした約6000人の学生が集まり始め、午後3時半頃には約7,300人に膨れ上がり、抗議集会を行なった。

国会はデモ隊に包囲される形となり、参院側から、衆院南通用門の方へ行進した。デモ隊が衆院第2通用門交差点にさしかかった頃、平河町方面から歩いてきた右翼約120人と遭遇し、大乱闘となった。双方の関係者26人が検挙された。

全学連主流派はスクラムを組んで通用門に体当たり、有刺鉄線などをペンチで切断し始めた。

午後5時40分、学生らは「ワッショイ、ワッショイ」と門扉にロープを巻いて引き倒し、門内の阻止の車両にも火を放った。

これに対して警官隊は放水して押し戻そうとしたが、抑えきれずに学生らはどんどんと構内へ乱入し、規制しようとした警官隊と衝突、そのなかで午後7時過ぎに東大生・樺美智子(22歳)が転倒したところ、人雪崩的に転倒した学生らの下敷きとなって圧死した。

樺美智子は1937年東京で生まれた。父親は社会学者である。芦屋市立山手中学校、県立神戸高校を経て東大文学部に入学。2人の兄達は父親の後を継ぐ気はなかったので、父親は美智子の大学入学を喜び、期待していたという。東大に入学した樺美智子は学生運動家として活動し始めた。6月15日、この日スカートで出かけた樺美智子はズボンにはき替えデモに参加、自治会副委員として先頭に立って国会突入をはかった。家の勉強部屋は卒業論文用の「明治維新史研究講座 第4巻」が開かれたままだったという。多磨墓地には彼女の墓と碑がある。

樺美智子の遺体は慶応病院法医学教室で解剖され、「内臓器圧迫による出血のための急死。致命傷となる外傷はない」という結果が出た。ところが、解剖に立ち会った社会党参議院議員と代々木病院副院長は「扼殺の疑いが強い」と異なる発表をした。さらに社会党弾圧対策委員会は殺人罪で告発。「樺美智子さんは警棒で殴られたうえ、踏まれて死亡したのではないか」という報道も加勢した。しかし後日、東京地検は現場写真や参加者の証言などからその説を否定している。

一方、国会構内ではその後も一進一退の衝突が続き、午後8時半頃に3,500人ほどの学生が中庭で、シュプレヒコールや阻止車両破壊を始めた。警官隊が学生を門外へ排除できたのは午後10時11分のことだった。

学生らの多くはおりからの降雨のため帰っていったが、それでも1,500人ほどの学生らは国会周辺でデモ行進を行ない、それは3,000人にもなった。正門前の車両を横転させ、次々と放火、計18台が全半焼した。

この暴動に対して、警視庁は機動隊を投入して排除する方針を決定。投石などで抵抗し続けていた学生らを力づくで排除した。ラジオ関東の島アナウンサーは車中で実況中継中、首をつかまれて殴られ、泣きながら臨場感溢れる放送をした。

結局この日、学生193人含む232人が検挙された。警察側の負傷者は721人。それまでの闘争警備において、最大の被害を出した。

その後、岸上大作について

衝突事件翌日の16日、政府はアイゼンハウアー大統領の訪日招待延期を発表。

17日、樺美智子の死に抗議した約7,000人が、再び国会前に集まった。新聞社7社は、「暴力を排し、議会政治を守れ」との「7社共同宣言」を発表。同日、国会では社会党・河上丈太郎代議士刺傷事件が起こる。

18日午前11時、東京・日比谷で樺美智子を慎む全学連総決起大会開催。午後には東大で合同慰霊祭が開催される。

強行採決からちょうど1ヶ月後の19日午前0時、前夜からでも隊33万人が国会を取り巻くなか、新安保条約が自然承認される。新条約は内乱鎮圧条約や、第三国への軍事的便益提供禁止などは削除され、条約存続期間は10年とされた。

23日午前10時20分、新安保条約は東京・白金の外相公邸で批准書の交換が行なわれ、すべての手続きを終えた。そして岸内閣は「人心一新」「政局転換」を理由に、この政治的混乱の責任をとって総辞職を発表。

この後、デモは驚くほど終息する。

7月14日に池田勇人が党総裁に選出され、19日に池田政権が発足。そして7月の3つの県知事選では、社会党系候補は全敗、自民党系候補が当選した。自民党は11月の総選挙でも前回より9議席増やした。

国会乱入事件以来、力づくのデモを続けていた全学連は、たびたび批判されることになったが、全学連の方は安保改定阻止国民会議の平和的な国会請願を「お焼香デモ」と呼んで軽蔑したり、互いの厚い信頼関係はなかったようだ。

全学連自体ももともと一枚岩ではなく、共産党系と非共産党系がたびたび対立、また非共産党系のなかでも革共同とブントなど意見の違いが見られた。

しかも6月19日の「樺智子全学連追悼集会」を、日本共産党が「犠牲者を出した責任はトロツキスト指導部にある」とボイコットしたことで、決定的となる。

「安保闘争は、中途半端な『奇妙な勝利』でしかなかった。ブルジョアジーの死以外に、真の勝利はありえない。プロレタリアートの立場からすれば、それは勝利でなく、勝利の道の挫折以外のものではなかった」

ブントは7月4日、この闘争の総括をめぐる内部対立から「戦旗派」「プロレタリア通信派」「革命の通達派」の3つに分裂。後の赤軍派が生まれる。

60年安保闘争では連日万単位を動員し、デモを繰り広げた。こうした点が「革新運動の頂点」であり、「戦後の分岐点となった」と言われる所以だろう。10月には日本の左傾化を危惧した右翼少年が社会党・浅沼委員長を刺殺、翌年にはやはり左傾化を危機を覚えたメンバーによるクーデター計画・三無事件も起こっている。

10年後には70年安保があるが、この頃は学生主体で、国民全体が関心を持つというほどではなかった。

岸上大作について

辞任直後の7月14日、岸信介は右翼の男に太腿を刺されるという事件が起こり、全治2ヶ月の重傷を負った。

中小企業の育成、所得倍増計画への着手、保守合同、安保改定など戦後政治で大きな働きをした岸首相だったが、首相の地位を降りた後は再び政界の表舞台に現れることはなかった。79年に政界から引退し、御殿場の別邸で晩年を過ごした。87年8月7日死去。90歳だった。

唐牛健太郎は全国を放浪、ヨットクラブや飲食店の経営、漁師など職を転々とした。点滴を受けながら、深酒をするという無理がたたって、84年3月4日に東京の国立がんセンターで直腸ガンのため死去。46歳という若さだった。

「樺美智子の死」は60年安保闘争、言いかえるならこの時代のひとつのシンボルとなった。遺稿集「人知れず微笑まん」はベストセラーとなった。

24日に日比谷公会堂と野外音楽堂で国民葬が行われた。北京でも大規模な「樺美智子追悼法要大会」が開かれ、中国は彼女を「民族の英雄」とした。

60年安保闘争を象徴するもう1人の若者に、学生歌人・岸上大作がいる。

岸上は兵庫県神崎郡福崎町生まれ。運送業を営んでいた父親が戦後に戦病死し、一家の暮らしは貧しいものだった。県立神崎高校入学直後から岸上は歌作を始めている。

1958年4月、岸上は奨学金の援助を受けて、国学院大学文学部に進学した。すぐに短歌研究会に入った岸上は、アルバイトをしながら歌作に励む日々を過ごし、「短歌」(角川書店)などに作品を発表、その歌は仲間内でも評判となり、60年9月には「短歌研究」の新人賞候補にもなった。

岸上が政治闘争の輪に加わり始めるのは60年5月1日のメーデーからで、共産党系の全学連反主流派のデモに加わった。あの「6・15」では警棒で頭を殴られ、1週間のけがを負う。そして同じ日の樺美智子の死についても

「1人1人の血であがなった教訓を、いまのわれわれはもっと大切にすべきではなかろうか」

と日記に記していた。

それから半年後の12月4日、岸上は「ぼくのためのノート」という長い遺書を書き始めた。

自分の犬死に社会主義の大義名分をかかげるのはよそう。これは気のよわい、陰険な男の、かたおもい、失恋のはての自殺にすぎないのだ。

天折を美しいものとするセンチメンタリズムはよそう。死ぬことは何んとしてもぶざまだ。首をくくってのび切った身体、そして一部一部分、あるいは吐しゃ物。これが美しいと言えるか。問題は生きることがぼくにとってそれ以上ぶざまだということだ。

現在、2時37分、顔はレインコートでかくす。電気を消して真暗闇の中で書いている。デタラメダ! 

そしてその翌未明、ブロバリン150錠を飲み、首を吊った。わずか21歳の生涯だった。61年、作品集「意思表示」が出版された。それらは読み継がれ、死後10年には「岸上大作全集」も刊行された。