阿部定事件

独占欲からの殺人、後世に伝わる大事件

1936年5月18日、東京市荒川区尾久の待合で、仲居であった阿部定(あべ さだ)が愛人の男性を性交中に扼殺した。

その後局部を切り取って持ち歩く、現場に血文字を残すなどした。

犯行の経緯や動機

阿部定は東京市神田区新銀町出身であり、芸者や娼婦などをしながら各地を転々としていた。

名古屋にいた頃より交際していた中京商業学校の校長で名古屋市会議員の大宮五郎の紹介で東京の中野にある鰻料理店「吉田屋」の女中として田中加代という偽名で働き始める。

その店の主人である石田吉蔵に惹かれ、二人は関係を持つようになり、駆け落ちして待合を転々としながら、尾久の待合旅館「満佐喜」に滞在した。

性行為の最中に定は吉蔵の首を締めるが、石田は快感を増すため続けるように言った。

1936年5月16日の夕方から吉蔵の首を強く絞める性交を繰り返した。

その後吉蔵の首の痛みを和らげるため銀座の資生堂薬局へ行き、気休めによく眠れるようカルモチンを購入して旅館に戻る。

その後、定は石田にカルモチンを何度かに分けて、合計30錠飲ませた。

定に対し吉蔵は、 自分が眠っている間に首を腰紐で絞め、止めてはいけないと話す。

後に定は、当時は吉蔵が冗談を言ったのではと疑問に思ったと供述している。

5月18日午前2時、吉蔵が眠っている間に定は首を絞めた殺害。包丁で吉蔵の性器を切断し、雑誌の表紙に包んで持ち歩いた。

定は傷口から流れ出た血でシーツや左太ももに「定吉二人キリ」「定吉二人」等と書き、包丁で吉蔵の左腕に「定」と刻んだ。

定は宿の人間に、吉蔵は具合が悪くて寝ているから午後まで起こさないように伝え午前8時頃に宿を出た。

定はのちに警察で、吉蔵を殺した後は重荷が降りたように楽になったと供述している。

5月19日、新聞が阿部定事件を報じる。

同日、定は買い物をして映画を見た。

5月20日、品川の宿で偽名を使い宿泊、大阪へ逃亡する予定であった。そこで、マッサージを受け、ビールを飲んだ。定は大宮五郎、友人、石田に別れの手紙を書く。

午後4時、高輪署の刑事が偽名で逗留している定の部屋に訪れると、自分が阿部定だと話し、すぐに逮捕された。

定ば犯行の動機を、自分たちは正式な夫婦ではなかったので、他の女性が二度と吉蔵に触ることができないように殺したと述べた。性器を切断した理由については、いつも彼のそばにいるためと供述している。

判決とその後

裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、定は懲役6年の判決となった。

1941年に「皇紀紀元二千六百年」を理由に恩赦を受け出所している。

吉蔵の性器は東京医科大学の病理学博物館へ送られ、第二次世界大戦後まもなく、一般に公開していた。