「暁に祈る」事件

2020年07月

酷寒の地で起きた「吉村隊」による地獄のリンチ、本人は最後まで冤罪を主張

1949年3月、敗戦直後の45年から外蒙ウランバートルの日本兵捕虜収容所で、捕虜となっていた憲兵・池田重善(当時30歳)が、部下たちに過酷な労働を強い、ある時は極寒の野外に半裸で縛りつけるなどのリンチを加えたとして、当時の隊員から告発された。

事件の経緯と詳細

1945年、中立条約を無視してソ連が参戦した当時、日本兵と一部民間人86万人がシベリアへ送られ、抑留された。抑留者は1200ヶ所の収容所に分けられ、厳しい重労働を強いられていた。

その中のひとつ、モンゴル・ウランバートルの日本兵収容所。ここには敗戦当時、中国東北部(満州)にいた日本軍、つまり関東軍が約1000名が収容されていた。

この収容所はラマ教寺を利用した、15000㎡の広大な施設だった。当時、シベリアなどの捕虜収容所では、共産主義教育が行なわれるということがあったが、この施設での指導はそれほどでもなかった。

12月13日、捕虜収容所長に任命されたのは宮崎県出身の憲兵・池田重善(当時30歳)だった。池田は妻の旧姓から「吉村久佳」を名乗り、少尉候補生と自称していた。これは戦犯になることを恐れてのことだった。

吉村隊にはレンガ焼きの作業が課せられた。同時に石切りや、羊毛つむぎ、材木運搬の仕事もあった。これらは首都建設のための労働である。

隊員達は午前4時に起きて、往復1km半の材木運びをし、8時間レンガを焼き、その後、さらに採石運搬、羊毛つむぎ、イカダ作りをこなした。

これはソビエト側が与えたノルマ以上のものだった。池田はノルマから、さらに20%増しの労働を命じていた。そもそも各作業は分担でこなせるように分けられたのだが、池田は全員にその作業を行わせた。能率を上げるためである。池田は隊長なので、指揮をとるだけで、そうした労働を手伝うことはなかった。

貧しい食生活での重労働だから、当然倒れる者が続出したが、池田は仕事をこなせない者には食事を与えなかった。

池田が非情にもそういう厳しい指示を出していたのは、ノルマが達成できないと、死に至るかもしれないと考えていたからである。当初、この収容所ではもう1つグループがあり、H大尉という人物がまとめていたが、そちらは「捕虜たちに甘すぎる」という理由で更迭され、そのグループは吉村隊の中に入れられたことがあった。

また、池田はソビエト兵やモンゴル人には腕時計が貴重品だと知ると、隊員たちから没収して、それを渡し、彼らにできるだけ好意を持たれるように務めていた。

命令

池田は周囲の不穏な空気にも敏感だった。

隊員たちが結束して池田のやり方に反発しようとすると、事前にその芽をつむぎ取った。「首謀者を密告すれば、食事の量を増やす」というスパイ網を敷いていたのである。無論、首謀者は食事抜きなどの罰を受けることになった。

そしてそれでも能率が上がらないようになると、隊員たちの1日の働きを総点検し、仕事の能率が悪い者には屋外の木などに半裸姿で一晩中縛りつけるようになった。外は夜になると、零下40~50度にもなる。縛られ、仮死状態となった隊員たちが、朝になると首をうなだれ、祈るような格好になっていたことから、軍歌からとって「暁に祈る事件」と後に呼ばれるようになった。

「暁に祈る」は1940年(昭和15年)5月に発売された軍国歌謡のタイトル。野村俊夫作詞、古関裕而作曲。歌詞の1節「ああ、あの顔で あの声で」は流行語にもなった。

このあたりは連合赤軍リンチ事件と似たところがあるが、異なる点は池田自身は決して手を出さなかったことだった。あくまで部下に暴行を指示していたのだった。

2年間の捕虜生活の末、帰国が決まった。結局、吉村隊1000名のうち、28人が死亡、40人が入院することになった。

南港都市ナホトカに集結した隊員たちからは池田を罵倒する声が相次いだ。そして、別の収容所にいた民主化グループによって人民裁判が開かれたが、その時、池田は土下座をして、「命ばかりは…」と謝罪したという。

裁判とその後

1949年3月27日、池田、元隊員らから収容所での出来事を告発される。

同年4月、参議院在外同胞引揚特別委員会は池田らに証言を求めた。

公判では、旧吉村隊員と対峙する場面もあり、「あの時はそうする以外になかった」と言い続けた。証言はくい違い、それらは与野党両陣営の論戦にもなった。

1952年4月、最高裁で不法逮捕監禁、遺棄致死罪のみの懲役3年の刑が言い渡された。

一方で、当時プレスキャンペーンをはっていた朝日新聞の誤報という説もある。いくつかの証言に、つじつまが合わない点があったというのである。

ソビエト兵に目をつけられる怖さから、厳しい罰を下し続けていた池田と、作業中に事故死した隊員の姿が合わさり、あたかもすべての死者・負傷者が池田1人の責任だった思いこんだ証言もいくつかはあったのではないかと言われた。

池田も出所後、行商、生地加工の出稼ぎなどを転々としながら冤罪を主張し続け、再審を請求していたが、1988年9月11日に長崎市三景台病院でひっそりとその生涯を閉じた。(享年73歳)

在京の弁護士やジャーナリストらが「暁に祈る」事件調査団を結成し、無実を主張する調査結果をまとめたばかりだった。

吉村隊員出身で、後に作家となった人物に清水正二郎がいる。彼はその経験を小説にして、胡桃沢耕史として「黒パン俘虜記」を書き、直木賞を受賞した。小説といっても、憲兵曹長の名は本名で出ている。

『ここでは元満州国内で凶悪ともいっていい力で、現地人の締めつけをやっていた、池田という憲兵曹長が全員を掌握していた。帝王であり、絶対者であり、処罰の命令の決定者であった。池田曹長が吉村少佐である』

池田は入院先から「黒パン俘虜記」で胡桃沢を名誉棄損で告発。清水正二郎という人物が吉村隊に在籍したことはない、また作業日程と死亡者が出た日時が実際と違う、というのが池田の主張だった。