大米龍雲連続殺人事件(連続尼僧殺し事件)

大正の初め頃から、各地で尼僧が殺されたり、強姦される事件が相次いだ。

犯人もやはり僧侶であった。1916年、死刑が執行された。

事件の経緯と詳細

1914年(大正3年)11月1日、東京府多摩郡戸塚町(現・新宿区)の尼寺「諏訪の森地蔵堂」で、老尼僧(72歳)が絞殺体となって見つかる。凌辱されたうえ、細紐で首を絞められていた。

翌1915年1月27日、鎌倉の尼寺「感応寺」で美人尼僧(21歳)が犯され殺害される。

7月18日、杉並村阿佐ヶ谷の尼寺「法仙庵」でも尼僧(当時69歳)が犯され、現金5円と衣類19点が奪われた。一命をとりとめた尼僧の証言によると、犯人は「年齢40歳前後、五尺二寸(157cm)ぐらいの色白の男で、鼻筋が欠けている」という特徴を持っていた。

5月頃に富山出身の前科二犯S(当時46歳)という男が尼僧殺しについて自供したという報道がされたが、これは拷問による嘘の自白で、Sは鼻が欠けているというわけではないし、面通しでも「こんなにいい男じゃない」との証言があり、尼寺で1、2度窃盗行為をしたことはあるが、殺しまではやっていない男だとされた。これはまったくの誤報だったのである。

神奈川県警と警視庁が競い合うように捜査を進めていくうちに、法仙庵で奪われた衣類が芝露月街(麻布辺)の古着屋で発見された。売主はやはり鼻筋の欠けた男で、「松本四郎」と名乗っていた。

その他にも、被害にあった全国の寺の住職やその関係者たちの証言から、鼻が欠けた男の情報が次々と出てきて、ついにはある男の存在が浮き上がり、人相写真をつけて全国に指名手配された。鼻筋が欠けた僧侶。これはかなりの特徴で、そうはいない。その後も手配書を見た人たちからの情報は次々と警視庁に入ってきた。

8月8日、パナマ帽をかぶった松本四郎と見られる男が女と一緒に新橋駅から九州方面へ高飛びしたという駅員からの情報があり、福岡警察署員数名は博多駅前で待ち構えた。

午後3時10分、署員は荷車に荷物を積んでいた松本夫妻に「あんた、松本さん?」と声をかけ、「そうだが…」と答え身構えたところを2人の刑事が飛びかかって取り押さえた。

松本四郎というのは偽名で、名を浅草区千束の大米龍雲(当時44歳)と言った。一緒にいた内縁の妻T子(当時40歳)も逮捕されたが、T子には石工の夫がおり、福岡市寿町でうどん屋をしていたころ、大米に強姦され、その後は脅されながら連れ回された被害者の1人とわかった。大米も「T子は事件には無関係なので放免してやって下さい」と何度も係官に頼んでいた。ただ強姦して逃げるだけだった大米がT子を連れていたのは、特別な感情があったのか、何か利用するためだったのかは定かではない。

8月15日、警視庁に移送された大米は取り調べに対し、法仙庵での窃盗については認めたが、他2人の尼僧殺しについては否認。しかしこれらの証拠品を突きつけられると、大米は居直ってこう言った。

「こうなったら仕方ない。悪事は全部白状する。しかし、そこら辺の小泥棒とは訳が違う。殺人と強盗だけでも200はある。忍び込みと空巣もその位はあるだろう。俺はそれほどの大泥棒だ。それを白状するのだから、警視庁の一番上役を連れて来てくれ」

大米の自白するところ、彼の犯行は殺人1件、強盗殺人5件、強盗138件、窃盗その他100件余に及び、これらはすべて裏付捜査により事実が立証された。これ以外にも30件を超える強姦があり、年齢などは関係なく、被害者にはには最高齢で73歳の老尼僧もいた。尼僧だけではなく神社の巫女(当時51歳)、ドイツ人の愛人(当時24歳)といった女性も被害に遭っている。

破戒僧・大米龍雲について

大米は1871年(明治4年)に浅草の質屋に生まれた。幼くして両親が亡くなり、本籍が定かでなく、本名もよくわかっていない。

7歳の頃、親類に財産を横領された挙句、大分市の禅寺曹洞宗「龍昌寺」に売り飛ばされた。龍雲の名はこの時にもらった。学問も出来、字がうまく、弁舌も良かったという。

だが養父である龍元は大米が18の時に病死。大米は寺を出て、熊本の柔道道場の内弟子となった。柔道は強く、三段をとった。

その後、日清戦争の志願兵として出征した時、地雷に触れ負傷、鼻柱を失う(親の病気のせいで、地雷の話は偽りであるという記述もある)。鼻を失ったことについて、彼は予審尋問調書で次のように答えている。

「わたしはご覧の通り醜い容貌でありますので、これまで女に好かれたことがなく、こちらで好いたらしく思いましても振り向きもされず、惚れた気持ちを打ち明けようものなら笑われるのが落ちであり、とうとう独り身で四十を過ぎてしまったわけであります」

戦地から負傷送還された大米は、その後静岡県福仙寺で職を見つけた。だが22歳の時に、寺の仕事に見切りをつけ、詐欺や窃盗を重ねながら各地の寺を転々とする。墨染の衣を着た大米は、どこから見ても行脚僧にしか見えず、どこの寺も疑うことなく宿を提供した。

1905年(明治38年)、兵庫県尼崎市の尼寺「真如庵」に押し入り、老尼僧(72歳)を殺害し、24円を奪う。最初の殺人であった。

千手院住職を騙して金をまきあげようとするが、住職に見破られて逮捕される。だが偽名などを使い、先の殺人などはバレなかった。大米はその年の6月から半年間松江監獄で服役した。

1908年(明治41年)12月25日、窃盗罪10件などで三重の安濃津地裁で懲役4年判決。やはり偽名を使って服役した。

1913年(大正2年)1月4日、安濃津監獄を出獄。これ以後、その手口は凶悪化する。

その年の2月、願修寺の尼僧(66歳)が寺の改修寄付金を集めていることを知った大米は、5円を寄付して信用させ、泊めてもらった晩に強姦した。翌日、「資産家を紹介してやる」と言って尼僧を小田原の海岸に連れ出し、突き落として殺害した。この犯行で得た現金20円、総額200円ほどの預金はすべて神戸・福原遊廓で使い果たした。

夏頃には神戸川崎波止場で25、6歳の男性と喧嘩となり、この男性を殺害し、福岡へ高飛びした。この頃にうどん屋を経営していたT子と知り合い、彼女を連れて上京。2人は京橋の家に間借りして暮らしていたが、夜は尼寺を探して犯行に及んでいた。

1914年9月5日、京都・西七条の正覚寺という尼寺で、悲鳴をあげた庵主の舌を引き抜いて、金品を奪い逃走。庵主は出血が止まらず1週間後に死亡した。

同年10月29日、冒頭で挙げた戸塚町諏訪の事件。大米は中山金吾と名乗り、尼の姉の紹介と偽って地蔵堂へ入り込み、強姦したうえ殺害。米3升とふとん1枚を奪っていった。

同年11月11日午前1時ごろ、鎌倉の尼寺「二伝寺」の風呂場の戸をはずして忍び込み、庵主を殴りつけ、現金20円と衣類数点を奪って逃げる。

1915年1月、鎌倉の感応寺の事件。大米は犯し殺害した美人僧について、「以前から情交関係にあった」と言っていたが、明らかでない。

同年5月8日、兵庫県伊丹町(現・伊丹市)の寺「菩提庵」で男性住職を軍刀で脅し、縛り付けたうえで現金2円と衣類数点を奪う。大米は住職に「ご家内はどうした」と尋ねると、「銭湯へ行っている」と答えた。大米は「それでは帰るまで待とう」と言って煙草を吸った。住職の妻が帰ってくると、大米はやはり軍刀で脅し、金の有りかを尋ね、強姦して逃げた。

同年5月29日、大阪府三島郡の「慈願寺」も押し入り、番僧を殺害して金品を強奪。7月に上京し、芝愛宕の荒物屋に間借りし、都下や川崎で強窃盗を繰り返した。

判決とその後

同年11月9日、死刑判決。判決後、裁判長の「最後に何か言うことはないか」という問いに対し、大米は次のように答えている。

「面倒くせえから、さっぱりやって貰いましょうぜ。なあに、早く死刑になった方が、さっぱりしてようがさあ」

1916年6月26日、東京監獄で死刑が執行される。死刑確定から1か月のスピード執行だった。

大米は供え物の饅頭を食べ、茶を飲み、タバコをねだって吸った。執行の時は、「よせやいッ、くたばっちまえば、どうせ何も見えねえんだ」と目隠しを拒み、そのまま執行された。

私は従来数ヶ所にて強窃盗強姦など致した理由は、ただ個人の欲望を満たすのみで行ったのではありません。被害者は何れも従来多少の遺恨のある者であります。その遺恨と申すのは、私の通仏布教につき、私に反対を為し、私に損害恥辱を与えた男僧女僧ばかりであります(大正4年9月3日付上申書)