浅沼社会党委員長暗殺事件

聴衆の面前で、演説会の壇上に立つ社会党委員長を襲った右翼少年。鑑別所で自殺。

1960年10月12日、東京の日々谷公会堂で行なわれていた「三党首立会演説会」で、浅沼稲次郎社会党委員長(61歳)が演説をしていたところ、学ラン姿の少年が突如壇上に上がり、持っていた短刀で浅沼委員長を刺殺した。少年は山口二矢(17歳・死亡)という元大日本愛国党の党員だった。

山口はその場で取り押さえられたが、11月2日に東京少年鑑別所で、シーツを裂いたひもで首つり自殺した。

事件の経緯と動機

1960年10月12日午後2時、東京の日比谷公会堂では、都選管・公明選挙連盟・日本放送教会の共催で、自民・社会・民社による「三党首立会演説会」が開かれ、会場は1000人を超える聴衆で膨れ上がった。

冒頭、都選管委員長のあいさつに対して、一角を陣取った右翼のグループから「やめろ、きさまなんかの出る幕じゃないぞ」という野次があり、それに対抗して革新系らしい集団からも「うるさい!黙って聞け!」という怒声がとぶ。この演説会は最初から荒れ模様だった。

演題は「総選挙に臨む我が党の態度」だった。演説のトップは民社党の西尾末広委員長。西尾氏が社会党を前年10月に離脱していたため、野次は右翼のものより社会党系の野次が多くなった。

午後2時45分頃、西尾氏に続いて、社会党委員長・浅沼稲次郎(61歳)が壇上で演説を始めた。この頃には野次も一層激しくなっていた。正面西側にいた丸の内警察署長がたまりかねて1人の男を場外にひきずり出している。

「池田総理は、税の自然増収が増えたことがさも自分の手柄のように誇っている。しかしこの自然増収はどうして生じたのか、国民が血と汗で稼ぎ出したものではないか。自然増収とはすなわち、国民から血税をとり過ぎているということではないか」

演説に拍手が起こり、それを抑えようとして右翼団体の人間が2階からビラを撒き、警官に取り押さえられる。正面壇上にのぼってビラを撒く男もいた。ビラには「中共、ソ連の手先、容共社会党を粉砕せよ!」と書かれていた。そうしたビラがヒラヒラ舞うなかでも、浅沼委員長は演説を続けた。

「赤旗社会党を追放せよ!」
「演説を止めろ!」
「浅沼、売国奴!」
「中共の犬!」
「ブタ野郎!」

演説に対する野次の方はおさまらなかったが、浅沼委員長は「こんなことは慣れている」とばかりに、構わず話を続けた。やがて演説も終わりに近づいていた。

午後3時過ぎ、野次により演説が聞き取りづらくなったため、司会席のNHK・小林利光アナウンサーはマイクに向かって、「静粛にして欲しい。せっかくのお話が聞けなくなる」と呼びかけ、場内は一瞬静まった。「お待たせしました。どうぞどうぞ」と係員に促され、浅沼委員長はふたたび演説をは始めようとした。

「選挙の際は国民に評判の悪いものは全部捨てておいて、選挙で多数を占めると、…」

浅沼委員長の演説はそれ以上続かなかった、その時、学生服の上にカーキのジャンパーを着た少年が植木鉢の陰から現れ、壇上に駆けあがってきたからだ。

少年は何かをつぶやきながら、ぶつかるようにして持っていた短刀で委員長の胸を2度刺した。浅沼委員長は後方へよろめき、次の出番に控えていた池田勇人の前に倒れこんだが、出血は少なかった。少年は池田首相を護衛するボディーガードに取り押さえられた。

一瞬の出来事だった。

この場面を撮影した毎日新聞社の長尾靖カメラマンは日本人初のピューリッツァー賞を受賞している。他にも前列に陣取っていた報道関係者がいっせいに舞台にかけより、フラッシュを炊いた。客席からは「司会者、何をやっているんだ」「収拾しろ!」という野次がとんだ。

この一部始終はNHKテレビで生放送されていた。当日はプロ野球日本シリーズの第2戦が中継されており、大洋が優勝本命の大毎を打ち込んでいた。その時、「浅沼委員長殺される」の臨時ニュースが伝えられた。

浅沼委員長はすぐさま警備員に抱えられ、パトカーで近くの日比谷病院に運ばれたが死亡が確認された。社会党葬は10月20日に事件の起こった日比谷公会堂で行われ、「同士は倒れぬ」の合唱が流れた。

刺した少年の名は元大日本愛国党員・全アジア反共青年連盟員の山口ニ矢(17歳)。山口は次のように自供した。

「自分は去年5月、愛国党にはいって直接行動を始める前から社会党は国家のためにはならないものだ、と信じていた。社会党は結局、ロシア革命のときに政権を共産化に渡す役をやったクレンスキー内閣の日本版になると考えたからだ。安保闘争でこの考えに確信を持ち、浅沼氏のほかにも野坂日共幹部会議長、小林日教組委員長もやらねばならないと思い、狙っていた。1週間ほど前、自宅で白サヤの脇差を見つけた。その時、三党首演説会に出る浅沼委員長をこれで殺そうと決意した」

浅沼稲次郎について

浅沼稲次郎は”社会党の看板男”だった。「ヌマは演説百姓よ」と親しみをこめて謳われ、ガラガラ声で全国を歩く姿から「人間機関車」というニックネームで呼ばれていた他、他にも「万年書記長」「沼さん」「マアマア居士」とも呼ばれた。

理論家ではなかったが、演説内容がわかりやすく、人気があった。スポーツ新聞のコラムを担当し、プロレスや相撲に庶民的な時評を寄せた。またディズニー作品「わんわん物語(ラジオ版)」にブルドッグ役で出演。その声を聞いて、誰もが「浅沼だ」と言い当てるほど特徴的な声質だった。

自民党の福永代議士から犬「ジロー」を贈られた時、はじめ室内で飼おうとしたが、妻に追い出されて、外で飼う事になった。「政治家が、玄関に猛犬を飼って、番犬にするとは何事か」という投書がきたことがあり、浅沼もこれに心を痛めたのだが、実子のいない(当時、大学生の養女がいた)浅沼にとって、愛犬はかけがえのないものだった。

浅沼は1898年(明治31年)2月27日、東京・三宅島で生まれた。父親は母親の入籍を認めず、「庶子」(旧民法上でいう、父の認知した私生児)とされた。

浅沼は早稲田大学に進学し、学生の頃から「演説百姓」と呼ばれ、よく1人で砂浜に出かけて演説の練習をした。在学中、早大生による社会運動体「民人同盟会」「建設者同盟」を組織、ロシア飢餓救済運動や軍事研究会反対運動を指導した。

1922年(大正11年)、「日本社会主義同盟」が結成される。荒畑寒村、山川均、大杉栄らとともに浅沼ら建設者同盟のメンバーも発起人として参画した。

その翌年「職業軍人救済」を名目に、学内で軍事訓練を行おうとした軍部と右翼学生によって「軍事研究団」結成の動きがあった。学生大会は軍研反対を決議、その席上、開会の辞を述べた戸叶武と、反対の宣言文を読み上げた浅沼が、右翼学生らによって監禁された。浅沼は「謝罪文を書け」と要求されたが、最後まで応じず、翌日解放された時には全身アザだらけになっていたという。この軍研事件は、浅沼の名を世間に知らしめることとなった。

軍研事件を契機にして、浅沼は無産運動家の道を歩くことになる。

1925年(大正14年)、農民労働党書記長。
1928年(昭和3年)、享子夫人と結婚。その翌年、深川に移り、初めて市会議員に立候補。
1932年(昭和7年)、社会大衆党結成に参加。その翌年には東京市議、1936~7年に衆議院議員に当選。そして戦後に日本社会党創立に参加、組織部長を務めた。

1948年に書記長就任。講和条約と安保条約への対応をめぐって分裂していた左右両派社会党がようやく統一にこぎつけたのは1955年10月13日のことだった。神田共立講堂で開かれた統一大会では、中央執行委員長に左社委員長・鈴木茂三、書記長に右社書記長の浅沼が選ばれた。

そんな中、大衆的な人気を得ており、また皇室などにも敬愛を表明していた浅沼が、右翼陣営からにらまれることになった一件があった。1959年3月4日、浅沼氏は社会党訪中使節団の団長として北京を訪れ、13日の会合で「アメリカ帝国主義は中日共通の敵」と発言し、「安保条約打破」を公約したことである。この発言は新聞各紙に大々的に報じられたが、浅沼委員長自身がそれを否定せず、羽田空港に人民帽をかぶって降り立ったことで、さらに怒りを買うことになった。

同月14日の読売新聞には次のような評が載っている。

「東西会議によって世界は微妙な転回点にさしかからんとしている。その時にレッキとした共産党員ならいざ知らず、社会党の右派のマアマア居士にこの言ありとは、中共のフリマイ酒に逆上した結果としか思えない」

ただこの演説は次のようなものだった。

「台湾は中国の一部であります。沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらず、それぞれ本土から分離されているのは、アメリカの帝国主義のためであります。アメリカ帝国主義について、お互いは共同の敵として闘わなければならないと思います」

この原稿を書いたのは浅沼氏ではなく、左派の社会党員だったが、日中国交回復を目指した浅沼氏はこれを採用した。だが「日中共同の敵」という箇所だけをピックアップされ、浅沼氏は睨まれることとなった。

1960年3月には、第17回大開で河上丈太郎を破って党委員長に就任。当時は60年安保闘争の最中、岸内閣は日米安保条約の改定を強行採決した。これに反発した全学連が連日「安保反対」を叫ぶデモを実施。6月15日には東大生・樺美智子さんが警官隊との衝突のなかで死亡している。

そして、10月12日の三党首立会演説会を迎える。それまで前例のない大規模な演説会であったから、浅沼はいつも以上に気をひきしめて臨んだにちがいない。

朝、深川のアパートを出た浅沼は車で永田町方面に向かい、馬場先門で秘書を下ろすと、社会党本部に行き、書記局会議に出席した。浅沼はこの日の演説の草稿を読み、党員の意見を聞いた。

午後、浅沼が秘書2人とともに日比谷公会堂に着いた時、民社党・西尾末広の演説が始まる直前だった。西尾の演説が終わると、すでに激しいヤジのなか、浅沼は演壇中央に歩いていった。そして17歳の凶刃に倒れることとなった。

盟友でもあり、当時浅沼とは袂を分かっていた西尾末広は次のような悼文を寄せている。

「わたしたち政治家はこの際、改めてぜひとも政治への反省を行わなくてはなるまい。それが浅沼君の血を無駄にしないたった一つの道だ。浅沼君はそれによって、これからもわたしたちのなかに生き続けることだろう」

 浅沼のお通夜にはたくさんの人が詰めかけた。その様子を報じた記事がある。

「粗末なブラウスを着たおかみさん、セーター姿の娘さん、タバコを耳にはさんだ老人、白衣を着たままの医者(中略)大衆政治家の浅沼さんらしく、飾り気のない人達の列の続く風変わりなお通夜風景だった」

事件後、社会党は江田三郎書記長の委員長事務代行を決定。「ファシズム暴力根絶決議案」を採択した。11月には、倒れた浅沼氏の未亡人・享子さんが東京一区から出馬、2位で当選した。

今なお火山活動の続く浅沼のふるさと三宅島。ここに大きく手をふる浅沼稲次郎の銅像がある。

山口二矢について

山口二矢は1943年2月22日に台東区で生まれた。次男であり、「二の字に縁が多い」と二矢という名がつけられた。父親は防衛庁職員、大衆作家・村上浪六の三女である母親、1歳上がに兄がいる。

父親は根っから軍人ではなく、東北帝国大学卒業後、戦後は国税庁勤務など職業をいくつかかえ、警察予備隊ができるとともに入隊。事件当時は一等陸佐の地位についており、幕僚本部の親睦雑誌「修親」の編集業務に携わっていた。

兄は早くから右翼思想を持ち、大日本愛国党に入党した。大日本愛国党は赤尾敏が総裁 山口も兄の影響を受けて、そうした思想に共鳴するようになった。

中学から高校の初めまでは父親の仕事の関係で、札幌で過ごした。しかし、父親の東京転属で、中野坂上に移り、札幌の光星学園から私立玉川学園高等部に編入した。

この頃「右翼野郎」というあだ名をつけられた。体は小さく、普段はおとなしいのだが、政治の話題になると激しくなることがあった。

自宅から高校までは、都電で新宿まで出て、小田急に乗り換えて通っていたのだが、1959年5月、帰宅途中に山口は新宿駅前である光景を目にした。「大日本愛国党」ののぼりや、日の丸を何本もかかげたトラックの上で、初老の男性が熱弁をふるっていた。この男性は愛国党総裁の赤尾敏である。赤尾の「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」という言葉に山口は感動し、赤尾が次の場所に移動しようとした時、山口はトラックに飛び乗り、「連れて行って欲しい」と頼み込んだ。

結局、山口は玉川学園を中退し、大日本愛国党に入党。「せめて高校を卒業してからにしては…」と両親も赤尾も説得したが、それも押しのけた。以降、山口は赤尾の演説を野次る者がいると、殴りかかっていくこともまれではなかった。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともあった。入党後半年で、実に10回余りも検挙された。

1959年12月に保護観察4年の処分を受けた山口だったが、おとなしくはしていなかった。街を行進する反安保デモの中に、たった一人で殴りこんでいった。浅沼、野坂、小林の三氏を狙うようになったのもこの頃だった。

だが山口は、大勢の民衆に対して、自分たちの行動があまり成果をあげられないことに不満をつのらせはじめた。

8月、「一人一殺」の考えをかためた山口は党員2人とともに脱党。「全アジア反共青年連盟」に加盟し、活動を開始した。以下に山口の供述を記しておく。

「左翼指導者を倒せば左翼勢力をすぐ阻止できるとは考えないが、彼らが現在までやってきた罪悪は許すことはできないし、1人を倒すことで、今後左翼指導者の行動が制限され、扇動者の甘言に付和雷同している一般の国民が、1人でも多く覚醒してくれればよいと思った。できれば信頼できる同志と決行したいと考えたが、自分の決意を打ち明けられる人はいず、赤尾先生に言えば阻止されるのは明らかであり、私がやれば党に迷惑がかかる。私は脱党して武器を手に入れ決行しようと思いました」

6月17日、社会党顧問・河上丈太郎が工員に襲撃されるという事件が起こった時、山口は「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。私がやる時には殺害するという徹底した方法でやらなくてはならぬ」と思ったという。

10月4日、自宅でアコーディオンを探していたところ偶然脇差をみつけた。鍔はなく、白木の鞘に収められているもので、山口は「この脇差で殺そう」と決意。その日、明治神宮を参拝し、小林日教組委員長、野坂議長宅に電話、「大学の学生委員だが教えてもらいたいことがある」と面会を申し込む計画だったが、小林委員長は転居、野坂議長は旅行中だったので、失敗に終わった。

事件当日朝、山口は新聞記事で三党首立会演説会開催を知った。午前中は新宿のデパートで時間をつぶし(この時に背後関係者と会ったかどうかは不明)、昼ごろ自宅に戻って「学校の講義に出る」と言って再び家を出た。彼は日比谷へ向かい、東京駅中央口から歩いて午後2時50分頃に会場入りした。この頃すでに浅沼委員長の演説は始まっていた。入場券は持っていなかったが、受付の男性が「知らなかった」という山口に同情して提供してくれた。

山口は通路に立って場内の様子をしばらくさぐっていたが、後ろから「邪魔だ!」と怒鳴られ、正面右の前から6、7列目の通路に座り込んだ。この時の山口に注目した人間はほとんどいなかった。多くの視線は浅沼および、正面左側に陣取って野次をとばす大日本愛国党の赤尾党首らに向けられていたからだ。

山口は騒ぎのなか最前列まで歩いていった。演説が中断し、アナウンサーが「どうぞ」と演説の再開をうながすと、それが合図だったかのように山口は壇上にあがろうとした。舞台右側の階段には人がいたため、その左側に置いてあった大きな箱に乗って壇上に上がった。そして走って体ごとぶつかるように浅沼委員長を刺した。2度目に浅沼委員長の左胸を刺した時、取り押さえようとした刑事が刃の部分を握った。山口はその刑事の指が切断されたら今後困るのではないかと思い、手の力を抜いた。そして壇上右側の方に引きずられるようにして取り押さえられた。

事件直後、警察は「背後関係を徹底的に洗う」としたが、山口はあくまで単独犯行だと供述。背後からの指示、教唆は立証できなかった。

判決とその後

家庭裁判所に送致された山口は「刑事処分相当」として11月2日、練馬の東京少年鑑別所に移された。

その日じゅうに単独房に移されたのだが、午後8時31分、教官が巡回していると、天井から裂いたシーツで首を吊っている山口の姿を発見された。人工呼吸が行われ、医師でもある所長がカンフル注射を打ったが、山口は絶命した。独房の壁には歯磨き粉でこう書かれていた。

七生報国 天王陛下万歳

この言葉は湊川(兵庫)の戦いで足利軍に敗れた楠木正季が「7回生まれかわっても、朝敵を倒し、国に報いる」と言って、兄・正成と刺し違えたことに由来するものである。この他、山口のノートには二首の歌が引用されていた。

国ノ為神州男子晴レヤカニ ホホエミ行カン死出ノ旅
大君ニ仕エマツレル若人ハ 今モ昔モ心変ラジ

翌日、浅沼委員長の妻・享子さんは次のような談話を発表した。

「山口少年の自殺は、けさ新聞ではじめて知りました。山口少年が憎いというより、むしろ気の毒な気持ちです。17の少年にあのような思想を吹き込み、暗殺にかりたてた背後の力に対し、あらためて腹の底から憎しみが燃えあがってきます」

また山口の父親は事件について次のように語っている。

「親の職業を悪く言う人を子は憎む。二矢も”予備隊をつぶせ“という声に、子供心に反感を抱き右翼的な思想が養われたのではないか」

山口の母親は浅沼委員長の命日には墓参りを続けた。

また、純文芸雑誌「文学界(昭和36年1月号、2月号)」にある作品が掲載された。大江健三郎の小説「セブンティーン」である。

これは山口二矢をモデルに書かれたものだったが、右翼から抗議があり、「文学界」編集長が謝罪広告を出すということがあった。ただしこの作品は後に「性的人間」という作品のなかに収録され、同じ頃に騒がれた深沢七郎の「風流夢譚」とは違う運命をたどった。(嶋中事件

大日本愛国党・赤尾敏について

赤尾敏は1899年(明治32年)1月15日、名古屋市東区の金物商の長男として生まれた。父親は織物業を継がず、金物・木炭販売、漁業、牧場などを手広く経営する中小企業者で、自由主義者だった。

高等小学校に入学した頃、教師が郷土の英雄を持ち出して「君たちも勉強すれば秀吉のようになれる」と言うのに胸を打たれ、「俺だって勉強すれば総理大臣になれる」と夢を抱いた。

中学に入学すると、赤尾は学校をさぼるようになった。学校を休んでは、釣りや読書などをしていた。5年生に進級した時には、結核をわずらい、卒業を目の前にして中退。療養のため、父の経営する牧場や、三宅島に渡った。この頃はまだ社会の動きには関心がなく、武者小路実篤などの著書を読みふけった。

19歳になると、赤尾は武者小路が宮崎で試みた「新しき村」建設を三宅島で試みようと決意。父の赤尾商店の三宅島部門の経営を任された。だがこの構想も、金目当てで近づいてきた人物に騙され、頓挫してしまう。無一文になった赤尾は、大人のエゴイズムと社会体制に激しい怒りを感じるようになった。

この後、赤尾は社会改革の手段として社会主義思想を求めて上京。堺利彦や山川均の自宅をまわって話を聞いた。

1922年(大正11年)春、名古屋に戻った赤尾は、市内に事務所を構え、「名古屋借家人同盟」「東海農民組合連合会」の看板を掲げた。この事務所には社会主義者を自称する人物が出入りし、赤尾はその後3年間で公務執行妨害や不敬罪容疑で2度逮捕された。名古屋のメーデーでも、赤旗を振った。

1924年秋、予備役のため定期軍事教練に参加した赤尾は、指導将校の訓示が終わると、社会主義を賛美し、天皇を批判した。このため憲兵隊に身柄を拘束された。

釈放されてからも、仲間と革命歌を歌いながらねり歩くだけで、活動資金はすぐに底をついた。赤尾は父親に無心に行くのだが、それまで寛容だった父親もたまりかねてつっぱねた。家を出た赤尾は、真向かいのとある名古屋財界の有力者の家を見て、この人物にカンパを頼もうとしたが「うちはアカの運動に出す金などない。カンパは断る。さっさと帰りたまえ」と断られた。部屋の奥からはピアノの音が聞こえてきた。

赤尾は「あんたは大会社の社長だ。われわれ労働者が困っているのにピアノなどぜいたく品じゃないか。金がないとはおかしいじゃないか」と迫ったのだが、これが恐喝未遂となり、3度目の逮捕となった。

赤尾の事務所に出入りしていた人物のなかに、地元通信社のK記者がいて、赤尾も同志と思っていたのだが、逮捕されると、赤尾の悪口を新聞に書き立てていた。

これにショックを受けた赤尾は、怒りとともにはっきりと社会主義との訣別を決意。獄中で仏教、儒教、キリスト教に関する本を読み、「メーデーに対抗する大衆動員行事をやろう」と考えた。

転向を表明して釈放された赤尾は再度上京し、今度は面識のない大物軍人や政治家をひとりひとり訪ね歩いた。人の紹介などにより人脈をつくり、頭山満も赤尾の提唱する「建国祭」に発起人となった。

赤尾の働きにより、1926年(大正15年)2月11日に皇居前広場で開かれた第一回「建国祭」には約3万人が出席、全国でも10万人以上が参加し、大成功に終わった。右翼の組織的活動はこれが初めてで、「建国祭」は以後十数年間国家的行事として続いた。

赤尾は「建国祭」の常設機関「建国会」を結成、会長に憲法学者・上杉慎吉、理事長に国粋主義者・高畠素之などを招き、自分は書記長に就任した。

1943年(昭和18年)、英米との戦争に反対していた赤尾は、翼賛選挙に非推薦候補として東京六区から立候補した。六区はそれまで参議院同盟の大物・前田米蔵が毎回トップ当選していたのだが、赤尾はこれを破っている。得票は全国でも第4位だった。この選挙での非推薦候補の当選者には中野正剛、鳩山一郎、尾崎行雄らがいて、全員が一国一党の与党、翼賛政治会に所属した。

赤尾の特徴として、戦前・戦中から親米であった点がある。「日本はまず北進し。朝鮮、満州、シベリアで勢力圏を確保し、国力を充実させてから英米の列強と戦い、アジアを解放すべきだ」と主張していた。

東條英機に対しても、「政治のことを知らない軍人」と批判。東條の演説中も、その前に立ちはだかり東條批判の演説をするという行動に出た。赤尾はこの件で懲罰委員会にかけられ、翼賛政治会から除名された。

戦後、赤尾はGHQからなぜか公職追放処分を受け、一切の政治活動を禁止されることになる。だが1947年頃には「道徳教団」という看板を掲げ、宗教を装って反共、皇室中心主義の演説を行う。

追放解除となったのは1951年8月6日のことである。そしてその2ヵ月後、「大日本愛国党」を設立した。この党は、日本主義を理念とし、赤色勢力を粉砕するとともに、保守腐敗政治を粛清して愛国維新を達成するという目的で結成されたものだった。

「われらは親米・反ソの旗印を明確にし、自由世界の堅固な連帯を通じて、アジアの解放と日本の隆昌を実現する」

綱領より

1954年、それまで都内の各地で演説をしていたのだが、熱心なファンや同志から「場所を決めてやってほしい」と言われ、三大紙(朝日、毎日、読売)の本社があった有楽町(数寄屋橋)で行うようになった。この”辻説法”は90近くなった晩年も、雨の日と気が向かない日を除けば、ほぼ毎日行なった。親米を示すのに、日の丸と星条旗を掲げた。

また戦前からの知己、岸信介氏を介して知り合った佐藤栄作氏と共鳴し、月に一度は佐藤邸で話をする仲となった。1964年に第一次佐藤内閣が組閣されてからも、その関係は変わらなかった。佐藤氏から小遣いをもらっても、遠慮したりはせず、言いたいことを言い合う仲だったようだ。佐藤氏が日本で初めてノーベル平和賞を受賞した時も、赤尾は「何が非核三原則だ。そんなことで褒美をもらうなど恥ずかしいことだよ。僕は見たくもない」と言って、テーブルの上の賞状と盾を手で払い落とした。

1960年1月には、警視庁が赤尾宅から文化人へのいやがらせに使われた「かぎ十字ポスター」を押収した。

浅沼委員長刺殺事件当日、赤尾氏とメンバー十数人は日比谷公会堂の前から3、4番目の席に陣取った。入場券は確保していなかったが、会場前のダフ屋から購入した。

山口が浅沼委員長を襲った直後、出血が少ないことに気づいた赤尾氏は、隣の人間に「坊や(山口)、やりそこなったかな」と話しかけたという。10月29日、赤尾は威力業務妨害容疑で逮捕された。11月には大日本愛国党が破防法の調査対象団体に指定される。

山口の自殺から2日後、赤尾総裁は「直接の関係はなし」とされ釈放された。ただ嶋中事件が起こった後、初めて会場のビラ撒きと浅沼委員長の演説妨害について起訴された。

その後もロッキード事件で右翼の大物・児玉誉士夫の存在が浮上した時に、多くの右翼が沈黙を守るなか、「児玉君がああいうことをやるから、こそこそとまじめに運動を続けてきた日本中の右翼が白い目で見られ迷惑を受ける」と批判したりした。

1990年2月6日、心不全のため死去。(享年91歳)

独特のアジテーションで人気を得た赤尾敏だったが、自身の信念をあらわした次のような言葉を残している。

 人は昭和のピエロと呼ぶかも知れない。 
 聴衆のあるものは、嘲笑のまなざしを向けている。
 そんな視線を、私はイヤというほど肌で感じている。
 しかし、そんなことはどうでもいい。
 なんと呼ばれてもいい。
 68歳の老躯をひっさげて、ただひたすら我が道を歩くだけである。

『勝利』(1967年8月号)「わたしは右翼ではない」より引用