当たり屋夫婦事件

1966年9月3日、日本各地で当たり屋を続けていた高知出身の男(当時44歳)らが逮捕された。

男は自分の子供を車にぶつけさせ、示談と称して金を手にしていた。

事件の経緯と詳細

1966年6月、佐賀市内で金物店員が軽四輪に乗っていたところ、道路の左側に少年、右側に幼子を抱いた女がいるのを目にした。店員はその間を通り抜けようとしたところ、少年の左ヒジがぶつかった。

少年は「両親と妹と4人で行商をしている」と話しており、そこに現れた少年の父親が「行商で急いでいる」などと言い出したため、店員は示談金として、この父親に2万5000円を渡した。

実はこれは当たり屋による犯行であった。当たり屋とは車にわざとぶつかり、痛がったりして治療費や慰謝料を騙し取る犯罪である。当然ながら自動車があって初めて完成する犯罪で、マイカーの増加にともない目立ち始めた。1962年に流行語となっており、日活映画「当たりや大将」も制作された。

男と女、それから子供までをも使った親子4人組による当たり屋。この頃、全国各地で同じグループによると見られる事件が相次いでいた。男は行商人を装って「先を急いでいる」と言ったり、「子供の修学旅行について来ている」などと言って、事故を起こしたと思って動転している人に警察を呼ぶ時間を与えず、巧みな話術で示談へとたたみかけていた。

そして同年8月31日、当たり屋グループの主犯として、高知県香美郡吉川村(現・香南市)出身のN(当時44歳)という男が群馬、高知両県警に指名手配された。

Nの顔写真が公開されると、この男から被害にあったと見られる人からの届け出が続いた。それによるとまず4月4日に高知市内で起こり、四国の他県、九州、中国地方、北関東、東北、北海道へと続き、最後の当たり屋事件は8月13日に小樽市で起こっていた。

一部で未遂に終わったものもあるが、多くの場合は高額ではあるが払えなくはない金額が示談金として男に手渡されていた。そして犯行メンバーは同じ所で犯行を続けると捕まる恐れがあると見たのか、移動して場所を変えながら犯行を重ねているという見方が強まったのである。

犯行一覧

日付場所被害金額
4月4日高知市中島町7000円
4月6日同県南国市20000円
4月20日徳島県池田町7000円
4月25日香川県善通寺市25000円
5月8日高松市常盤町15000円
5月19日広島市松原町34500円
5月31日長崎市恵美須町19000円
6月2日佐賀市東町25000円
6月16日兵庫県豊岡市38000円
6月16日鳥取市35000円
6月17日米子市40000円
6月18日松江市55000円
6月29日宇都宮市50000円
6月29日前橋市30000円
6月30日甲府市中央80000円
7月1日長野市50000円
7月18日青森県弘前市40000円
7月19日秋田県能代市75000円
7月24日群馬県高崎市60000円
7月26日宇都宮市不明
7月31日秋田市15000円
8月2日函館市若松町4000円
8月4日岩見沢市30000円
8月7日稚内市50000円
8月9日網走市100000円
8月10日釧路市不明
8月11日苫小牧市5000円
8月12日室蘭市35000円
8月13日小樽市稲木町80000円

親をかばう子供

9月2日、親子4人のうち母親と見られた、「中沢栄子」と名乗るNの内妻が大阪出身の住所不定H子(当時27歳)と判明する。2、3年前に万引きで2度の逮捕歴があった。

さらにこの日、警察庁はこの当たり屋事件を「準広域重要事件」に指定した。

9月3日、テレビを見た人の通報により、Nら一家4人が西成区の文化住宅に灯りを消してひそんでいるところを発見される。Nはその際激しく抵抗したが、取り押さえられるとおとなしくなった。H子は新しいアパートの契約書を持っており、高飛び寸前であったらしい。長男A君(当時10歳)と次男B君(当時3歳)も保護された。

翌日、4人は南国署に護送された。A君は診断の結果、左膝に外傷性関節炎を起こしており、何度も強く打った痕が斑点となっていて全治3か月の重傷。

9月6日夜、A君は児童相談所へ。H子も入院した。

一家の主にして主犯のNは戦時中に中国で左肩と手首に銃創を負い、左手が不自由だった。このため定職はなく、傷痍軍人手当も年に17万円ほどであったため、母親に援助をしてもらって生活していた。1955年頃に地元の高知で結婚し、A君をもうけていたが、妻に暴力をふるったり、他に女を作ったりして、妻はA君を残したまま家を出て行った。その後妻は結核のため療養していたが、A君のことをいつまでも気にかけていた。Nが逮捕された時も「子供を返して」と訴えていた。

やがてNは大阪・ミナミのキャバレーに勤めていたH子を内縁の妻とし、2人のあいだにはB君が生まれた。Nは連れ子であるA君について、「病気の先妻の元にやっても幸せにならない」と手元に置いていた。

Nが当たり屋を始めるのは1966年春のことで、当初はH子が車に当たる役目だったのだが、その役をA君にまわした。4月16日には高知市内の旅館でA君に車にぶつかる練習をさせたうえで、4件目の犯行からはA君が実際に車に当たった。A君は痛くて本当に泣いたことがあった。ある時にはA君の胸やスネににビタミン剤を数本注射し、青くなった注射痕を運転手に見せるということもしたという。

一連の当たり屋事件は、まずA君が車にひかれ、続いてH子がそこに駆けつけ泣き喚く、最後にNが現れ示談にあたるという芝居を打っていた。これはNの考える最高のキャスティングだった。

一家4人は全国各地を放浪し、犯行場所は36道府県に及ぶ。69件の犯行で238万円を手にしていた。

事件直後、Nは「子供を使うのはかわいそうだと思ったが、いやと言わなかった」「H子がやらせていた」、H子の方は「私は(連れ子のA君を)いじめていない。子供の方からすすんでやるようになった」などとそれぞれ自分勝手な責任逃れの発言をしていた。

A君は家族の名前や年齢をハキハキ答えていたが、当たり屋の犯行についてとなると「自動車にひかれたことなんかない!」と言って泣きだし、後は何もしゃべらず父母をかばっていたという。

この事件は大島渚監督の映画「少年」(1969年)のモデルとなった。