バー「メッカ」殺人事件

2020年08月

愛欲と浪費の末、証券ブローカーを殺害し現金を奪ったインテリ青年

1953年7月27日午後9時前、新橋のバー「メッカ」で、株ブローカーの男・博多周(当時39歳)がメッタ打ちにされ殺害されているのが見つかった。

同店ではボーイの近藤清(当時19歳)が事件後行方をくらませており、目撃証言から、このボーイと、正田昭(当時24歳)ら3人が指名手配された。

10月12日、京都に潜伏していた正田が逮捕された。本事件は、アプレゲール犯罪(アプレ犯罪)のひとつと言われている。

日本で省略形の「アプレ」という言葉が流行したのは、第二次世界大戦後である。戦前の価値観・権威が完全に崩壊した時期であり既存の道徳観を欠いた無軌道な若者による犯罪が頻発し、彼らが起こした犯罪は「アプレゲール犯罪」と呼ばれた。また徒党を組んで愚連隊を作り、治安を悪化させた。このような暗黒面も含めて、「アプレ」と呼ばれるようになった。
一方で、彼らの様な思想の持ち主に対して古来からの価値観を守ろうと主張する勢力をアヴァンゲールと呼んだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/アプレゲール

事件の経緯と動機

東京・新橋はサラリーマンの街として知られており、TV番組のクイズやアンケート・インタビューなどに、酒に酔ったサラリーマンが答える場所と言えば、大抵この街である。

新橋駅周辺には1953年当時でも安く飲める酒場がいくつもあった。こじんまりしながらも、バンド席や踊り場のあるバー「メッカ」もそのひとつで、7月27日、ここを舞台に殺人事件が起こった。

午後9時前、カウンター席でビールを飲んでいた男性客の肩口に、血がポトリポトリと落ちてきた。天井を見ると、どす黒い血のシミができていた。

「メッカ」の裏に住んでいた職人が頼まれて中3階の押し入れを調べてみると、そこには血まみれの死体があった。死体は両足を電気コードで縛られており、鈍器で全身30ヶ所をメッタ打ちにされていた。また、他にも刃物による刺し傷、紐で首を絞められた後などがあり、無惨な状況だった。

店員によると、この男は店に時々訪れていた客だということがわかった。

被害者は横浜市に住む証券会社のブローカー・博多周(39歳)であり、事件当日、証券を担保にして銀行から40万円を引き出していたが、この金は紛失していたことが判明した。

事件後、メッカに住みこみで働いていたボーイ・近藤清(当時19歳)が、行方をくらませていた。また、近藤が昼間に同店で、常連客だった正田昭(当時24歳)という若い男と一緒にいるのを見たという証言もあった。さらに、被害者の勤め先の、見習いで働いていた男が事件後に欠勤しており、この男の名前は「正田」と言った。

そうして間もなく、近藤と正田、正田のマージャン仲間の3人が指名手配された。

29日、神奈川県藤沢市にある正田の下宿先付近で、博多の腕時計をしていた男が逮捕された。この男は正田のマージャン友達の相川貞次郎(当時22歳)であることがわかった。彼は犯行に加わらず、口止め料として腕時計と現金2万円を受け取っていた。

8月3日、近藤が静岡市警に自首。近藤は「新聞で見ると、正田はあんなにたくさんの金を手に入れたのに、俺には3万円しかよこさなかった」と愚痴を言ったという。その後も警察は引き続き、主犯格の正田を追った。

10月1日、京都にある旅館で、1人の男の服毒自殺をした。顔が正田と似ており、警察が正田の実兄を呼んで確認してもらったところ、どうやら間違いがないらしかった。主犯の死亡により、事件解明は困難なものになると見られたが、この自殺者は別人と判明。しかし、この報道が正田逮捕につながる。

10月12日、麻雀仲間の通報により、京都・銀閣寺近くのアパートに潜伏していた正田が逮捕された。これだけ大々的に報道されたのにも関わらず、正田が70日間も逃げ続けられた理由はメガネにあった。正田は近視で、普段はメガネをかけており、手配写真もメガネをかけたものだった。

しかし正田はこの頃、当時としては珍しいコンタクトレンズを入れていたのである。ちなみに、当時のコンタクトレンズは今の物ほど精巧ではなく、目に涙がたまって、水中で目をあけているような感じだったという。

正田は京都から東海道線「明星」で東京に護送されたのだが、マスコミが徹夜の布陣を組み、豊橋駅から同乗取材した。まるでスターを取り扱うかのようにして、バー「メッカ」殺人事件の報道は過熱していった。

こうして正田の取り調べが始められたが、当初は「ただナット・ギルティ(無実)を主張するだけです」と英語交じりに語っていた正田だったが、最終的には犯行を自供。

犯行の動機は「義理のある人(恋人の母親)から預かった株券を無断で売却処分してしまった。その金を返したい一心でやった」というものだった。被害者の博多とは、以前務めていた証券会社の仕事で知り合ったといい、事件当日は「借金がしたい」と「メッカ」に博多を呼び出し、正田が首を電気コードで絞め、近藤が角棒でメッタ打ちにして殺害した。

正田昭について

1929年、正田昭は大阪の弁護士の家庭に四男二女の末っ子として生まれた。しかし、正田がまだ生後5ヶ月の時に父親が亡くなり、日本女子大卒の母親が女学校などで体操教師をして、6人の子どもを育て上げた。

長兄は他人と協調できない性格で、家族に対して暴力を振るった。まだ幼かった正田はそれを目の辺りにして、心に「脅え」のようなものを背負うようになったという。自殺や家出も考えたこともあり、「大人は信用ならない」と思うようになったという。

正田の兄3人は皆一流大学に進んでいる。また、正田も例外ではなく、一浪してはいるものの、1948年に慶應大学経済学部に進学。1949年には次兄の購入した辻堂(藤沢市)の家に母と姉と共に移り、正田の学費も次兄が出していた。

正田はスラっとしていて、顔立ちも整っていたため「どこかジェームス・ディーンを思わせる」として周囲の評判はよかったという。捜査の過程で、刑事たちが水商売の女性たちに彼について尋ねた際にも、評判はとても良かったという。実際、正田は女に不自由していなかったが、1949年7月に藤沢のダンスホールで出会った体操教師のA子(当時19歳)には、ことさら夢中になった。

「体操の先生」は母親と同じ職業である。この美男美女カップルはやがて肉体関係を持ち、結婚を約束する仲になっていった。しかし、この出会いにより、それまで地味だった彼の学生生活は乱れ始めた。正田の母親はA子に「あなたが昭を堕落させた」と言い、結婚に反対した。

A子は魅力的な女性だったが、奔放な性格だったのか、10月頃、正田は「あいつは誰とでも寝る女だ」と友人から聞かされた。その友人自身もA子と関係を持ったという。これに正田はひどくショックを受けた。部屋に塞ぎこみ、自殺も考えたという。

A子とは11月頃にヨリを戻したのだが、彼女への疑いは残った。大学4年時にはA子が3度妊娠したが、自分の子だと確信が持てなかったため堕ろさせた。

1953年春、慶大を卒業して、三栄証券に入社。しかし、ここは元々第1志望ではなかった。大手自動車会社から内定をもらっていたのだが、卒業間際に肺浸潤が見つかり取り消されていたため、仕方なく決めたことであった。

不本意だったこの証券会社では、学生時代に覚えた賭け麻雀の癖が抜けず、入社2ヶ月で人の株券・預り金を使いこんで解雇されている。

裁判とその後

1956年12月15日、東京地裁で、正田に死刑判決が下された。共犯の近藤は懲役10年、相川は同5年の判決を受けた。

判決を受け、当時、イタリアに留学していた正田の兄は、親交のあったパリ宣教会のカンドウ神父(東京大神学校長)に手紙を書いた。

「弟が殺人の罪をおかしました。極刑は覚悟せねばなりません。弟の魂をなんとか救っていただきたい」

これを受け、カンドウ神父はさっそく正田に面会に行き、正田はそれからカトリックと出会い、松沢病院でカンドウ神父から洗礼を受けた。

その後の正田は模範囚だったと言われており、拘置所ではカービン銃ギャング事件の大津健一と親しくし、また「小松川女子校生殺人事件」の李珍宇に対しては、所内では年少者ながら何かと他人を見下しがちだったので、態度を戒めるなどしたという。

裁判については、正木亮弁護士を全面的に信頼し、自らは小説や絵画などの創作活動に励んだ。1963年には「サハラの水」という小説を書いて、雑誌「群像」の新人文学賞に応募し、最終選考まで残っている。

60年12月21日、東京高裁にて控訴棄却。

63年1月25日、最高裁は上告を棄却し、正田の死刑が確定。

1969年12月19日、死刑執行(享年40)。その前夜、正田は正木弁護士宛てに次のような手紙を書いていた。

先生、さようなら。いよいよお別れの時が参りました。つい先日、慈父のごとき愛にみちた御手紙をいただいたばかりですのに、もう先生のお言葉に接することができないとは、本当に悲しいですし、明日の死を前に、最後の面会に来てくれました母の心を思うと、ふかい悲しみにみたされ、今更のように親不孝なわが身が責められてなりません。

しかし、今は母もゆるしてくれているでしょう。母は「天国に行って待っていてね。そしてお母さんがゆくときは迎えに来てね」と云いました。カンドウ神父さまをはじめ、多くの人を迎え入れた<かの国>へ私も明日参ります。

先生、ながい間、本当にありがとうございました。御恩はあちらへ行っても忘れません。どうぞ母と私のためにお祈りください。

これから、最後の夜を母のためにすごすつもりです。では先生、もういちど、さようなら。 正田昭

正田昭による正木弁護士宛ての書簡より

また、生前の正田と親交のあった作家・加賀乙彦は彼を題材にした「宣告」という小説を書いている。