福岡事件

1947年5月、福岡市で2人の闇ブローカーが殺害された。

警察は西武雄、石井健治郎ら復員軍人8人を逮捕。

この事件では西と石井の死刑が確定したが、石井は射殺したことは認めるがあくまで正当防衛を主張していた。

事件の経緯と動機

1947年5月21日午前6時頃、福岡市東堅粕(現・堅粕1丁目)の国鉄鹿児島本線沿いの県立工業試験場門前で、2人の男の射殺体が見つかった。

男は中国人の翁祖金(40歳)と、日本人の熊本文造(41歳)。2人とも闇ブローカーだった。ともにピストルで胸などを貫かれていたが、翁には首に刺し傷、熊本は背中を日本刀で突かれた痕があった。熊本の腕時計は9時14分で止まっており、午後9時前後に襲われたものと推定された。

現場は人通りの少ないところで、前夜は福岡署が盗難予防のために30m離れたあたりに潜伏夜警員を配置していたが、遺体には気づかなかった。20日夕方にこのあたりで銃声があり、そばから薬きょう2個が発見された。
 
まだ翁の身元がわかっていなかった頃、彼の仲間である中国人3人(いずれもヤミ商人)が福岡署を訪れ、「翁が昨夜から帰ってこない」と届け出ていた。

3人の話のよると、熊本の知人である「西」という男が、軍服千着のヤミ取引の話を5月10日頃翁らに持ちこんだ。軍服の値は一着700円ということでまとまり、翁ら中国人5人は現金70万円を用意し、取引も20日夜に決まっていた。

20日午後7時過ぎ、殺害現場近くの食堂に、翁・熊本ら5人が集合、売り手の西らも来ていた。西は「現物を見せるから、内金の10万円だけを持って来てくれ」と言い、3人で出かけていった。他の3人の中国人もついて行こうとしたが、熊本から「ここで待ってていい」と言われたので店に残った。

その10分後、西が1人で戻ってきて、「今、現物をトラックに積みこんでいる。あの2人(翁、熊本)は2、30分くらい遅れる」と言い、40分ほど経って22、3歳くらいの海軍服の男(以下、X)が食堂にやって来た。西の仲間らしいこの男が言うには、もう積みこみは終わり、2人はトラックで待っているらしい。西は中国人たちに残りの60万円を要求したが、3人は「現物を見るまで払えない」と拒んだ。

結局、中国人の1人とXが様子を見に行くことになったが、Xは途中で「現物はこの先にあるので、先に行っててくれ」と姿を消した。その頃、食堂にいた西も男に呼び出され、姿を消した。

やがて現物を見に行った中国人が戻ってきて、初めて騙されたということに気づいた。一晩中、行方がわからなくなった翁、熊本を探して、朝になって署に届けに来た。

警察はこの証言から、事件を計画的な強盗殺人事件として、西なる人物とその仲間の行方を追った。

聞きこみの結果、「西」とは西武雄(当時31歳)のことで、福岡市内で劇団芸能社を組織し、九州各地を巡業し、県知事選にも首を突っ込んだことがある人物とわかった。

西と仲間は事件2日前の19日まで九大医学部前の福岡旅館に連泊していた。また19日夜には中州の飲み屋に姿を見せており、その帰り際、店の娘に「あと2、3日したら新聞に載るようなことをするから見ておいてくれ」と話していたこともわかった。

福岡署は27日までに西、石井健治郎(30歳)を含む復員軍人7人を逮捕した。

聞きこみによると、西が仲間に拳銃の入手を依頼したが入手できなかったので、知人から拳銃を売りたがっているという石井を紹介してもらい、借用を依頼していた。

逮捕された西は「私は犯行には参加していない。あの事件は石井とその子分だけでやった」と犯行を否認、「石井は拳銃の名手で、多量の弾を所持している」と供述した。

GHQ占領下の時代だったため、7名は千代田ビル内にあるアメリカ側の軍事法廷で尋問を受けた後、日本の裁判にまわされた。この時、アメリカ側から「速やかに裁判し、判決を報告すべし」という要望書がつけられたという。

石井は2人の男を撃ったことは認めたが、翁と熊本の喧嘩の現場に行き合わせ、相手がピストルを出そうとしたので、身の危険を感じて撃ったという。

西の方は内金10万のうち2万円の取引手数料を残し、残金の8万円を持って帰っていたことは認めたが、殺人現場には訪れておらず、7人で謀議したこともないと主張した。

判決とその後

1948年2月27日、福岡地裁、石井・西の主張を認めず死刑判決。他の仲間は1人が無罪となったが、4人には懲役3年6ヶ月~15年が言い渡された。

判決後、傍聴席の中国人が「7名全部を死刑にしろ!」と怒鳴ると、裁判長は「今回はこれで了承してください。第二審もありますから…」と頭を下げている。当時の占領下の日本において、中国人の勢いは凄まじく、各方面は腫れ物に触るように気を使ったらしい。

西と石井への激しい拷問の取り調べや、無理やり押韻させた自白調書などは、そうした事情も少なからず考えられる。

1951年4月30日、福岡高裁、控訴棄却。4人は下獄、西と石井のみ上告した。

1956年4月、最高裁は上告を棄却。死刑が確定した。

その後、5回の再審請求がされたが、いずれも棄却されている。

再審というと、真犯人が別にいる冤罪事件を思い浮べがちだが、この福岡事件の特殊なところは、石井自身が2人を射殺したことを認めており、それが強盗殺人ではなく、正当防衛での誤殺と訴えていたことだった。

古川泰龍と西口彰事件解決

2人の死刑が確定して数年が経った頃、強殺と誤殺で揺れるこの事件の再審請求運動が始まった。その中心人物は教誨師である真言宗僧侶の古川泰龍氏だった。

古川氏はもともと佐賀県塩田町の常在寺住職であった。ある日福岡刑務所内で印刷されていた自身の刊行する布教のための機関紙「コスモス」を、1人の受刑者が感銘を受け破って房に持ち帰り、反則として罰されるという出来事があった。

そこで所長は古川氏に教戒を頼んだのである。古川氏は死刑囚に対して、「自分が解決できない死をどう説けばいいのか」と悩んだが、「死刑囚に学ぼう」と考え、52年頃これを引き受けた。西と石井と出会うのもこの頃である。
 
やがて古川氏は死刑囚の助命運動も始めた。1961年頃のことである。真相究明書「白と黒のあいだ」(河出書房)を刷り、その資金集めのために托鉢、講演会、辻説法をした。

 古川氏と言えば、福岡事件支援者というより、西口彰事件の方で有名な人物かもしれない。

1964年1月3日、熊本県玉名市の立願寺(当時の古川方)に「東京・文京区の川村角治弁護士」と名乗る男がやってきて、運動への協力を申し出た。しかし、古川氏の三女るり子さん(当時11歳)が、この男は逃亡中の連続殺人犯・西口彰だと見破り、詐欺と殺人を重ねてきた彼はついに逮捕された。古川家の人々は東京の自治大臣室で大臣表彰を受けた。

古川氏はその後、1973年に「生命山シュバイツァー寺」を発足。これは神戸シュバイツァー会から贈られたシュバイツァー博士の遺髪を祭る、これまでの既成宗教とは関係のない宗教法人だった。

明暗

1969年7月8日、西郷法相は再審特例法に代わるものとして、「恩赦を積極的に運用する」との見解を出した。

1975年6月17日、「他の共犯者に比べ刑が重すぎ、しかも改悛の情が明らか」として石井に個別恩赦決定、無期懲役とされた。

しかし同じ日、西の死刑が執行された。西には改悛の情が「ない」とされたのである。

「遺骨も遺品も古川先生に渡して下さい」

西は朝に執行を知らされると、取り乱すことなく「そうでしたか」と言い、煙草をうまそうに1本吸って 刑場に向かって行った。享年60。

叫びたし寒満月の割れるほど

われのごとく愚鈍よかなし冬の蠅
(西の句)

この執行について、古川氏は「2人とも恩赦にすると、検察庁当局が納得しない。そこで1人は生贄にした。多分に政治的な配慮からきたものだ」という見方をした。

死刑執行は中央更生保護審査会が恩赦を却下した直後に行なわれ、これは西の再審請求を阻止するためという説もある。この問題は1975年11月20日の参院法務委員会で、社会党・佐々木静子議員によって取り上げられた。

1989年12月8日、石井が仮釈放を認められ熊本刑務所を出所。この仮釈放は石井が1級の模範囚であったことや、高齢が考慮されたと見られる。石井この時72歳。拘禁期間42年で、これは帝銀事件・平沢貞通の38年を抜いて史上最長となる。仮出所の時、出迎えに来た人は誰もいなかった。父親は72年に亡くなっており、刑務所の前にアパートを借りていた母親も77年に他界していたからだ。

その後、石井は玉名市の古川さんの寺に預けられた。91年に得度(出家)し、「光龍」という戒名を授けられた。現在は老人ホームで療養中で、花を育てることを楽しみにし、そして西の再審運動に余生をかけているという。

2000年8月25日、古川氏はガン性胸膜炎のため死去。享年80。

 人間は完全ではない
 だから、その営みも往々にして過失を繰り返す
 いかに名裁判長といえども、誤判の絶無は期しがたいだろう
 (古川泰龍の言葉 「白と黒のあいだ」より)