広島タクシー運転手連続殺人事件

事件概要

広島タクシー運転手連続殺人事件は、1996年(平成8年)4月18日から9月14日に広島県内(広島市およびその近郊)において女性4人が相次いで殺害された連続殺人事件であり、4つの事件からなる。

犯行の経緯や動機

Aさんの事件

1996年4月18日22時50分ごろ、町内の美容院で働きながら、広高校定時制に通っていた少女A(事件当時16歳、女子高生・広島県賀茂郡黒瀬町切田在住)が、4月17日(事件前日)に広島県安芸郡音戸町(現:呉市)内から
自宅に電話した以降消息を絶った。

1996年4月18日午後8時ごろ、加害者の男・日高広明(逮捕当時34歳・タクシー運転手)は広島市の繁華街での営業中、呉市の定時制高校1年のAさんに声をかけた。

意気投合した2人はすぐにラブホテルに入ったが、Aさんの涙ながらに語った身の上話に同情し、日高はなにもせず金だけ渡した。

しかし、その後、その話が嘘だとわかり、殺害を決意した。

日高は「家まで送る」と言ってAさんを車に乗せると、人気のない道に乗り入れて殺害現場の空き地でタクシーを停車し、タクシーのエンストを装った。そして、後部座席にいたAさんに対して修理を口実に「エンジンの調子が悪い。配線をチェックしたいから足元のシートをめくってくれ」と声を掛けた。

22時50分、Aが身をかがめて後部座席に回ったとき、日高はネクタイを緩めて運転席を降り、背後からAさんに忍び寄り、ネクタイをAさんの首に巻きつけて絞めあげ、窒息死させて絞殺した。

日高は殺害した直後Aさんの所持品を物色したが、Aさんが所持していた現金5万円(渡した金を含む)を奪った上で、23時ごろにはタクシーにAさんの遺体を乗せ殺害現場を立ち去った。

そして約25 km離れた広島市安佐南区内まで戻り、翌日未明にAさんの遺体から衣服を剥がして全裸にした上で遺棄した。

その後、すぐに広島県広島市安佐南区沼田町大塚・林道脇側溝においてAさんの遺体が発見された。

しかし、Aさんの交際関係は広範囲にわたったため、捜査は難航した。

Bさんの事件

借金の返済と性的欲望を同時に満たすことができることに味をしめた日高は、第2の犯行に及んだ。

日高は天地公園で見つけたスナックバーで勤務する女性B(事件当時23歳・広島市安佐南区)に声をかけ乗車させ、車中にて現金3万円を渡して安心させた上でラブホテルに入った。

Bは「自分の父親は暴力団組員だ。怒ると何をするかわからない」と話していたが、日高は「それは怖いね」と返しつつさんBと性行為をした。

翌日に広島県広島市安佐北区白木町にて絞殺して所持金を奪い、遺体を遺棄した。

Cさん・Dさんの事件

9月7日午後11時ごろ、日高は広島市南区の路上で客待ちをしていたコールガールの女性Cさんを殺害し、遺体を遺棄した。手口はBさんの事件とほぼ同様である。

また、9月14日深夜には、同じくコールガールの女性Dさんを殺害。

このDさんの事件後、警察は本格的に捜査を開始し、Dさんが日高のタクシーでホテルを出ていたとの証言を得たことから、9月21日、潜伏先の山口県防府市内で日高を逮捕した。

供述から、Bさん、Cさんの遺体がすぐに発見された。

日高の生い立ち

1962年、日高は宮崎県で地元有数の資産家の家庭に生まれた。

中学・高校を通して成績は優秀で、スポーツ万能であったが、大学受験に失敗したことをきっかけにして、そのトラウマから逃げるように、酒や女、ギャンブルに没頭するようになった。

その後、大学を中退し、地元市役所の臨時職員となったが荒んだ生活は改善することができず、1986年には会社員宅に強盗に入り、懲役2年の実刑判決を受けている。

また、1989年4月には、叔父を頼って広島でタクシー運転手となるが、サラ金通いで遊び倒すという生活を続けたため、犯行時には病弱であった妻の入院費用も滞納するほど生活に困窮した状態だった。

判決とその後

2000年2月9日、広島地裁で死刑判決が言い渡された。その後、日高は控訴せず、2000年2月25日に死刑判決が確定。

その直後、収監先・広島拘置所において拘置所職員から「未決者処遇」より「死刑確定者処遇」に移行すると
告げられると、直立不動の姿勢から一礼し「今後とも、よろしくお願いします」などと述べた。

2000年3月3日に拘置所長との所長面接において、日高は終始冷静に以下のように述べた。

「自殺などで拘置所職員の皆さんに迷惑をかけるようなことは絶対にしません。本音を言うと、死刑執行の時で今のような冷静な気持ちでいられるか心配です。『ぐでんぐでんになるのではないか』とも思いますがよろしくお願いします」
「残された娘のためにも下手なことはできません。きっぱりと逝くのが娘のためとも思っています。1999年の中頃までは“むすめ”の“む”の字を言われただけでも涙が出ていたが、今ではそんなことはありません。娘は『少し大人になったのかも』と思います。娘のことを考えると、気が狂いそうになったこともありましたが…。娘は小学校1年生になりますが、将来、父親を意識し出した時、誰かが『父はきっぱりと立派に旅立った』と言ってもらえるのではないかと思ってます」「民間人との新たな人間関係は持ちたくありません。自分は頑固なところがあります」「判決の時、キンタマが縮み上がりました」

死刑執行6日前の12月19日において広島拘置所処遇部上席統括矯正処遇官(第二担当)の刑務官(「第二統括」)が日高の心情を把握する目的で面接を実施した。このとき、日高は以下のように述べた。

(2006年10月16日に「何もやる気がしない」などと悩みを吐露したことについて)「現在はずいぶんよくなりましたが、自分でいったんは『頑張ります』と公言した以上、弱音は言いません。」

(2005年8月に『親族以外からの親書受け取りを拒否する』旨の願箋を提出した後、気持ちに変わりはないか?との質問に対して)「その後も自分の気持ちに変化はありません。たとえ弁護士が面会に訪れても一切会いませんし、弁護士から手紙が来ても受け取りを辞退します。弁護士からの再審請求および恩赦に関することについての問い合わせも拒否します」

弁護士の足立との接見拒否から11日後の2006年12月25日に法務省(法務大臣:長勢甚遠)により死刑執行命令が下され、収監先・広島拘置所において日高の死刑が執行された。(享年44歳)