市川一家4人殺人事件

類を見ない凶悪犯罪として死刑判決が下された「未成年」による凶悪事件

1992年2月、暴力団組員から200万円を要求された少年・関光彦(当時19歳)が行きずりの少女を強姦して身分証明書を脅し取った。

その1か月後となる1992年3月、加害者少年はその少女が住むマンションの一室に強盗目的で押し入って住民一家(少女の家族)5人のうち少女を除く4人を次々に絞殺・刺殺した。その間に少年は金品を被害者宅・勤務先から奪いつつ少女を長時間監禁してさらに強姦した。

少年事件ながら、その残虐な犯行から死刑判決が出ている。

犯行の経緯や動機

暴力団から要求された200万円を工面するため…

1992年3月6日午前9時ごろ、千葉県市川市の写真スタジオ店役員Yさん(42歳)宅で、通報を受けた警官が駆けつけたところ、この家の4人が殺害されているのを発見、現場にいた長女X子さん(当時15歳)と船橋市内の無職・関光彦(当時19歳)に事情を聞き、翌日に関が殺害を認めたため逮捕した。

一家はYさん、妻(36歳)、母親(83歳)、X子さん(当時15歳)、次女(4歳)の5人暮らしだったが、X子さん以外は全員死亡、遺体はそれぞれ別々の部屋に置かれていた。またX子さんも数回にわたって強姦されたり、切りつけられたりして全治2週間の怪我を負っていた。

事件の発端は、前夜、関がX子さんと同伴して、Yさん夫妻の経営する編集プロダクションを訪れて、社員から預金通帳などを奪ったことだった。社員の通報で、警官がYさん宅に踏みこむことになった。

関は巨漢と言ってもいい体格の少年だった。犯行の動機について、関は「女性問題でやくざに200万円払えと脅されていたためお金が欲しかった」と供述。あまりの残虐な犯行に、一部報道機関は少年事件でありながら関を実名報道した。

関光彦の生い立ち

「いじめられっ子」だった小学生時代

関は千葉県松戸市のサラリーマン家庭に生まれた。まだ幼い頃、市内の公団住宅の団地に当たったので父親の実家からそこに移り住んだ。

歩けるようになってからはスイミングスクールに通い、運動神経は抜群だったという。

小学校2年の時、団地を出て東京・江東区越中島のマンションに引越し、学校も転校した。父親は会社を辞め、母方の祖父の店を任されていた。このマンション購入費用も祖父の援助によるものである。だが父親は高級品を買い漁るなど遊び惚け、任された店の売上は落ちていった。

この頃両親が不仲であり、父親が母親の頭を水の張った浴槽に浸けているのを度々目にしていた。この父親は子どもに対しても体罰、というより八つ当たりのようなかたちで暴力をふるった。

母親の方も子どもに軽く平手打ちするなどしており、「手を洗え」などと口うるさく言った。そうしたことから関は、週末は勉強道具を持って祖父の家に遊びに行った。祖父母はSを大変かわいがっていたという。

3年生の終わり頃、母親と関、その弟の3人は家を出て、母方の実家に戻った。しかし、すぐに葛飾区内にある風呂のない台所共用の質素なアパートに移っている。父親の借金により暴力団員などの取りたてに追われるようになったためであった。後に知り合いの区議の紹介で区内の別のアパートに移ったのだが、ここも銭湯通いだった。

結局、膨大な借金は祖父が清算した。まもなく両親の離婚が成立し、関は母方の姓に変わった。母子の生活ぶりは、勉強するのにも段ボール箱を机代わりにする状態だった。関は友人たちに引け目を感じ、父親を恨むようになっていった。

新しい小学校では、「汚い」「臭い」といじめられるようになっていた。連絡網をつくる時、「うちにはそんなもの(電話)はありません」と言って笑われた。貧乏をからかわれたのである。当時、関はいじめ自殺のニュースを見て、その子の気持ちがわかるような気がしたという。

「非行少年」となった中学時代

中学校に入る頃になると、関は体が大きくなり、いじめられてもやり返すようになった。

行動も積極的になり、野球、水泳、空手などを習った。ただ悪い方面への好奇心も旺盛で、同じような育ち方をした友人と付き合い、飲酒、煙草、シンナーを覚えた。しかしながらそういう行動は校外でしかせず、学校では目立つことを嫌い、普通に過ごしていた。3年の時には学級委員にも選ばれている。

家族との生活の方は、やっと風呂のあるアパートに引っ越し、別れた父親も訪ねてくるようになった。母親は「子どもの教育上、男親が必要だから」と元夫と付き合うのだが、関からしてみれば、とうてい父親を受け入れる気にはなれなかった。

中学3年の秋、関は自動車事故で負傷、入院して手術を受けた。そのあいだの学内テストが受けられず、「公立高校受験のための偏差値が出せない」と言われた。そのため、いくつかの私立高校を受験し、野球で有名な高校に入学した。

途中退学し「犯罪者」となった高校生時代以降

元々野球部のエースだっただけに、希望に満ち溢れた入学だったはずだが、硬式野球部には入れず、軟式野球部でも先輩のしごきにより怪我をすることがあった。それまで運動に関しては自信を持っていた関にとっては、かなりの挫折を味わったと想像に難くない。

関は次第に悪の道を踏み出し始める。日常的に喧嘩に明け暮れた。そして勝つと金が貰え、負けると取られるという習慣が身についた。

暴力は家族にも向かい始める。中学時代から母親に指図することが多かったSだが、高校生になって気に入らないことがあると母と弟を殴った。あまりに激しい暴力のため母親は何度も警察署に相談に出向いた。

高校2年の時、喫煙、恐喝などで学校から自宅謹慎を命じられる。しかし、学校からの連絡の時間に家にいなかったことをきっかけに、自主退学する形となった。

その夏、恋人の親が、関との仲を裂くために娘を田舎に預けたが、関は彼女を追って行き、その親を恐喝するという事件を起こした。関はナイフ所持の軽犯罪法違反で、書類を家庭裁判所に送られた。

退学後の関は、運送会社でアルバイトをしたり、ギターを習ったり、バイクの免許を取得したりして過ごした。その後、母方の祖父の店に勤め、雑用の後、料理の修業をした。昼間はその仕事で、夜にも水商売の店員をするなど精力的に働いていたという。

祖父は若くして亡くなった親の家業を引き継ぎ、一代で年商10億円の事業に発展させた。支店も数多くある。関のいた店には跡目を狙う親戚が働いていた。その親戚からすれば、祖父にかわいがられる関のことは当然よく思わなかった。

ある日、「関が出勤する日には金がなくなる」とある従業員が祖父に訴えた。身に覚えがなかった関は、誤解を晴らそうと祖父の家に怒鳴りこみ、寝ていた祖父の顔面を蹴った。祖父は片目の視力を失うという重傷を負った。この一件に関して、関は入院中の祖父を見舞い、謝罪している。

18歳になった関はローンで「クラウン」を購入。車で頻繁に出かけるようになった。また父親が出入りする実家を嫌い、マンションを借りて1人で住んだ。入居に必要な金は母親が出した。

その夏、フィリピンパブで知り合った女性と同棲、10月に帰国した女性を追って2度渡航、現地で結婚の手続きをし、日本でも婚姻届を出した。女性は翌年1月に再来日、4人殺害事件の後に子どもを出産している。

事件発生までの経緯と詳細

関は4人殺害事件の半年前から1週間前の間に、以下のような事件を起こしている。傷害、強姦致傷、窃盗罪にあたるもので、いずれも自動車で移動中の出来事である。うち1件の強姦以外は、相手の運転マナーに腹をたてたもので、関自身は「相手が悪いのだから、懲らしめなければならない」と思っていたという。

  • 自動車を運転中、前を走っていた車に「走り方が遅い」と文句を言いに行き、運転者を引きずり降ろして殴り、鉄製の棒で背中などを殴打した。
  • 深夜、運転中に見かけた通行中の女性(24歳)に、ナイフで脅したり、鼻骨が骨折するほど顔面を殴りつけ、自動車に乗せて自分のマンションまで連れていき強姦した。関は「レイプしたい」と思ったのではなく、「暴れたい」と思って家を出たという。
  • 自動車を運転中、後ろの車にパッシングされたことを怒り、運転者を引きずりおろして、鉄製の棒で数十回殴り、運転免許証を奪った。
  • 自動車を運転中、危険な割りこみ方をされたことに怒り、相手の車の運転席に乗りこみ、ナイフで数十回切りつけたり、刺すなどし、運転免許証を奪った。

前述の通り、フィリピン女性と結婚した関であったが、妻が帰国している間に別のフィリピン女性と関係を持った。彼女もフィリピンパブに勤めていた。Sはこの女性を店から無断で連れだし、2日間過ごした。

結局、女性は店に戻ったが、店が関係する外国人ホステス斡旋業者らは、この一件の落とし前をつけるために、関から金を取りたてるのに暴力団幹部に依頼した。

1992年2月10日、依頼を受けた暴力団員が、船橋市の関のマンションまで押しかけ、彼の自動車の窓ガラスを叩き割った。その翌日には、2名の暴力団員から激しいリンチを受け、「君がしたことで店の損害は200万ぐらいになる」と和解金を要求された。

2月12日午前2時過ぎ、車を運転していた関は、自転車に乗っていたX子さんと接触事故を起こした。これが関とX子さんの初対面である。関は以前強姦したときのことを思い出して「もう1度やろう」と車を走らせており、X子さんの方はシャープペンシルの芯を買おうとコンビニに向かっていた途中であった。

関はいったん病院に連れていって治療を受けさせたが、長いあいだ待たされたことに腹をたて、その帰り道に車内でナイフで脅し、頬や手首を切りつけたうえで、自分のマンションに連れこみ強姦した。その際、X子さんの生徒手帳から、住所氏名をメモしている。

犯行当日

3週間後の1992年3月5日午後4時半頃、高層マンションのX子さん宅に強盗目的で侵入した。その時、家の中では祖母が1人で寝ていた。

関は祖母を蹴り、現金8万円を奪って、「通帳はどこだ」と尋ねた。途中、関はトイレに入ったが、その隙に祖母は警察に通報しようとした。関はあわてて電話機を奪ったが、祖母が関の顔に唾を吐きかけたため、コードで首を絞めて殺害した。

関は一度エレベーターを降り、自分の車に戻ったり、ジュースを飲んだりしたが、再びX子さん宅に戻ると、再び金品を物色した。

午後7時頃、X子さんとその母親(36歳)が一緒に帰宅。関は包丁を突きつけて脅し、母親をうつ伏せにしたまま通帳の在り処を尋ねたが、知ることができなかったので背中に数回突き刺した。母親はX子さんに別の部屋に運ばれたが、まもなく失血死した。

さらにX子さんの妹が保育士に連れられて保育園から帰宅。関はX子さんに命じて、テレビを見させている。

関はさらに夕食の準備を用意させ、3人で食事。妹を別の部屋に移してから、X子さんを強姦した。

午後9時半頃、父親Yさんが帰宅。関はその時行為の最中であった。関は父親の肩に1度包丁を突き刺し、「俺はヤクザだ。おまえの書いた記事で迷惑している」「通帳でも現金でもよいから、300万円くらいを出せ」と脅し、現金16万円、郵便貯金通帳(額面258万円)、銀行預金通帳(額面103万円)を奪った。さらに母親名義で経営する会社の通帳があることを知り、X子さんと同伴して部屋を出た。

しかし、関は再び1人で部屋へ戻ると、父親の背中を刺し失血死させた。

その後、関とX子さんは、両親が経営する編集プロダクションへ赴き、X子さんが「ヤクザが、お父さんの書いた記事が悪いとお金をとりに来ている」と、残業中の男性社員から預金通帳7冊と印鑑7本を受け取った。その帰り道にはラブホテルに寄って、通帳の額面などを調べた。ここでも3度、X子さんを強姦している。

未明、X子さん宅に戻った関は、寝ていた次女の泣き声を耳にして、事件が近隣の住民に発覚するのではないかと恐れ、背中を包丁で刺したうえ、首を絞めて殺害した。そして、これを非難したX子さんの腕や背中も切りつけている。X子さんが抵抗らしい抵抗をしたのはこの時だけで、おそらくずっと恐怖に支配されていたものと思われる。

午前9時ごろ、通帳を取りに来た際のXさんの様子が不自然だったことから社員が通報したことで警察官がX子さん宅に駆けつけた。その際、関は血のついた包丁をX子さんに持たせ、「今、女友達の家を訪問したらみんな死んでいて、少女が包丁を持っていた」などと、罪をなすりつけて逃走しようとしたが逮捕された。

判決とその後

関は逮捕直後、「少年犯罪ならどんな犯罪でも少年法により処罰は軽くなる」と考えていたため、自分が死刑になる可能性は考えておらず「これでも俺も少年院行きか」程度にしか考えていなかった。

その考えの背景には当時、関自身が少年犯罪への刑罰ついてあまり知識を有していなかったことに加え、「死刑になる者は過去に殺人を犯しておきながら、刑期を終えてからか無期懲役の仮釈放中に再犯するような者ぐらいだ。前科のない自分に死刑は縁遠い」という考えや、1989年(昭和64年 / 平成元年)に発生・判明した女子高生コンクリート詰め殺人事件の加害者少年たちに死刑・無期懲役といった厳罰が課されていなかった事情もあった。

同事件の加害者少年たちと自身の犯行を比較して「自分の犯行はコンクリート事件ほど長期間ではなく、(事件前に)凶器を準備していない」とも考え、逮捕後には自身の出所後の生活設計のため、面会に訪れた母親に頼んで高校時代に使っていた教科書・参考書・辞書類を差し入れさせていた。

千葉地検は送検後の1992年3月25日、勾留期限満期(1992年3月27日)を前に精神鑑定のため、関を1992年3月26日から鑑定留置することを千葉地方裁判所に申請した。

この間に筑波大学教授(当時)・小田晋が半年間にわたり精神鑑定を行い、千葉地検は鑑定結果を踏まえて「関はカッとなると歯止めが効かなくなるが、完全な責任能力があった」と結論を出し、1992年10月1日に強盗殺人・傷害など5つの容疑で関を「刑事処分相当」の意見書付きで千葉家庭裁判所に送致した。その後、千葉家裁(宮平隆介裁判官)は4回にわたる少年審判を経て1992年10月27日に関を千葉地検に逆送致した。

千葉地検は1992年11月5日に関を強盗殺人・傷害など5つの各罪状で千葉地裁へ起訴した。

また、1991年10月19日に東京都江戸川区内で起こした別の傷害事件(前述)に関しても同日付で関を起訴したほか、公判開始後の翌1993年(平成5年)2月17日までに「一家殺害事件前の余罪3件(いずれも前述)」に関して傷害・恐喝・窃盗・強姦致傷の計4つの罪状で関を千葉地裁へ追起訴した。

起訴内容は以下の通り。

1992年2月11日4時30分ごろ、関が東京都内の路上での女性に折り畳みナイフを突き付け、殴るなどの暴行を加えた上、手を切り付けて脅迫し、自宅に連れ込み強姦した容疑(強姦致傷罪)。

1992年2月25日、関が市川市内で通りすがりの会社員男性に因縁をつけて鉄の棒で頭を殴り、自動車運転免許証を奪い金を要求した容疑(恐喝罪)。

1992年2月27日、関が埼玉県岩槻市(現:さいたま市岩槻区)内で通りすがりの大学生の顔を殴り、ナイフで全身数十箇所を刺すなどして全治6週間の怪我を負わせ、運転免許証や車検証などを奪った容疑(傷害・窃盗罪)

刑事裁判で関は強盗殺人・強盗強姦・恐喝・窃盗・傷害・強姦・強姦致傷と7つの罪に問われ「1991年10月から一家殺害事件直後に逮捕されるまでの約5か月間に計14の犯罪を繰り返した」と認定された。

「類い稀な凶悪犯罪」として死刑判決へ

1992年10月27日、千葉家裁は「刑事処分相当」と千葉地検に逆送致。

1994年8月8日、千葉地裁・神作良治裁判長は「犯行は残虐、冷酷。金目当てに何の落ち度もない4人もの命を理不尽にも奪うという身勝手な動機で、類い稀な凶悪犯罪」として求刑通り死刑を言い渡した。

事実認定に関しては主に被害者への殺意の有無・程度や強盗の犯意が争点となり、検察官側は「被害者4人全員に確定的殺意があり、全員に対し強盗殺人罪が成立する」と主張した一方、関は被害者4人のうち女性C(被害者少女の祖母)以外の3人については強盗殺人罪の成立を否認した。

また犯行当時の関の責任能力についても争点となり、上智大学教授・福島章による2度の精神鑑定結果を踏まえ「2度の鑑定でも精神病の兆候は認められず、自己の行為の是非・善悪を弁別する能力に障害はなかった。関光彦には完全な責任能力がある」と主張した一方、弁護人は福島による精神鑑定の結果に基づき「関光彦は爆発型精神病質・類転換病質で、犯行当時は心神耗弱状態だった」と主張した。

しかし千葉地裁は「2度の精神鑑定から『心神耗弱だった』と断言することは困難。『爆発的精神病質者』との鑑定があるが、責任能力に支障をきたすほどではなかった」として「責任能力は問題なくあった」と結論付けた。

千葉地裁は事実認定に関しても被害者Eに対する罪状(強盗殺人罪ではなく殺人罪を適用)および被害者Dに対する殺意の程度(未必的殺意)を除き、大筋で検察官の主張を採用し、死刑を適用した。

当時、死刑廃止論議が活発になるなかでの判決だった。

少年への死刑適用をめぐる司法上の論争では、永山則夫事件での1983年の最高裁が「死刑の選択も許される」と判示して区切りをつけた。

この前後の少年への死刑判決は、1988年の「名古屋アベック殺人」(一審で主犯に死刑、二審で無期に)、1994年の「連続リンチ殺人事件」(一審で主犯に、二審で3人全員に死刑判決)がある。

1996年7月2日、東京高裁で控訴棄却。

2001年12月3日、最高裁上告棄却。少年事件での死刑確定は永山則夫以来だった。

2017年12月19日、死刑執行。(享年44歳)

「彼自身の人生における獄中生活の長さを考えると、もう生き直したのと同じくらいの時間を獄中で生きてきたのだから、死刑執行の是非について再度検討する機会があっても良かったはずだ」

弁護人・安田好弘による死刑執行後の発言から抜粋

『19歳』

永瀬隼介氏が1998年からの3年間にわたって、関との面会・文通を含め、様々な関係者に取材をし、『19歳』というタイトルで書籍化している。

書籍は2000年9月に出版されたが、本を読んだ関元死刑囚からは内容に虚偽があると指摘されている。

書籍には、関元死刑囚の生い立ちから事件について文通や面会で得た内容が書かれ、死刑判決に対しての本人の気持ちなども綴られている。