東京・池袋通り魔殺人事件

2020年07月

「努力しない人間は生きていてもしかたない」白昼の繁華街で包丁を振り回し、通行人を無差別に殺害。

1999年9月8日午前11時40分頃、東京都豊島区池袋のサンシャイン通りで、包丁とハンマーを持った男が、突然、奇声を上げて通行人に襲い掛かった。

この犯行で、女性2人が亡くなり、男女6人が重軽傷を負った。

犯人の男、新聞配達店店員・造田博(当時23歳)がその場で通行人に取り押さえられ、駆け付けた警察官によって現行犯逮捕された。

事件の経緯と動機

造田博について

1975年11月29日、岡山県倉敷市で生まれた。父親は腕の良い大工で、母親は被服工場で下請けの縫製のミシン内職をしていた。兄弟は兄が一人おり、一家の暮らしは中流を上回っていた。

1978年10月、一家は隣り町の児島郡灘崎町に引っ越した。祖父の代までは兼業農家で、造田の父親は六男でありながら祖父の土地を相続していた。

造田が小学校の高学年の頃、父は相続した土地を売り、大金を手にする。その額は1000万とも2000万とも言われており、金銭感覚が揺らいだことと関係しているかわからないが、父親は健康が優れないことを理由に仕事から遠ざかるようになっっていった。

造田が中学にあがるころ、母親が夫に代わり、保険の外交員として働きに出るようになった。地元の住人の話によると、母親はこの頃から服装が派手になり、仕事の合間にパチンコを覚えたという。以後、夫婦でパチンコ、パチスロ、競輪、競艇に入れ込むようになる。

造田は進学校として通る県立倉敷天城高校に進学。中学3年生になってから猛烈にがんばっての合格だった。

高校2年時、ギャンブルにのめりこんでいた両親が知人やサラ金から金を借りるようになる。その総額は2000万から4000万だと言われている。

家には借金取りが押しかけ、両親はそれから逃げるように自宅を空けるようになった。結局、造田は高校を中退。担任教師から「大検を受けて大学に行きなさい」と慰められながらの退学だった。

その後、彼は弁当店でアルバイトを始めた。そして夜陰にまぎれて帰宅する両親から食事代をもらうという生活が始まった。

翌1993年11月、両親は自宅の家財道具を持ち出し家に帰らなくなった。以後の行方はわからず、息子の凶行後にもその姿を現すことはなかった。

1994年1月、造田は広島県福山市で自活していた大学生の兄の元に身を寄せるようになり、市内のパチンコ店で働き始めたが、しかし、長続きしなかった。

1999年の事件時に勤めていた足立区の新聞販売店までに、わかっているだけで14回の転職を繰り返しており、その間、工場・新聞配達・船舶塗装・住宅美装などの仕事を転々としていた。

兄の目には転職を繰り返せば繰り返すほど、弟は口を閉ざすように見えたという。親代わりとして弟を叱り飛ばすこともあったが、そのたびに自分の殻にこもるようになった。

1996年、岡山県灘崎町にあった自宅が競売にかけられ、事情を全く知らない一家族によって落札された。

妄想の恋人

この頃の造田の中で一人の女性の存在が大きくなっていた。小・中学校の同級生で、別の高校に進み、当時は大学生だったA子さんである。

「私が小学生のころだったと思いますが、A子さんが私に『造田さんが好き』と言ってくれたことがありました。しかし、私はA子さんのことを何とも思っていなかったので、はっきりとした返事はしませんでした。このことで『造田はだめだ』等との噂がたち、A子さんの友達にからも同じようなことを言われましたので、A子さん宛てに高校生の頃だったと思いますが、2,3枚くらいの抗議の手紙を出したことがあります。なぜ手紙を出したかと言いますと、自分のことを駄目だという噂が立ったことでショックを受け、不愉快になったことがあるからです」

1999年9月26日付供述書

しかし、A子さんの方は供述書で「仲の良い同級生ではなく、親しく話した記憶もない」「自分の好きなタイプではない」とし、自分から好意を打ち明けたり、手紙を出したことは「絶対にない」と言い切っている。

1994年から95年ごろ、船舶塗装や住宅美装の会社で造田が働いていた造田はA子に5回ほど手紙を出している。

うち二通は切手が貼られておらず、A子の自宅ポストに直接届けていた。手紙の内容は「会って欲しい、一緒にいたい、返事が欲しい」など一方的に好意が書かれていたものだった。A子さん宅に電話をかけて「A子さんに会わせてください」と言った事もあるという。

ある日、ついに造田がA子さん宅に押しかけた。この時、彼女の父親が対応し、「A子はあんたのことを知らない。本人も嫌がっているし、うちの子にはまだ勉強することがある」と断ったところ、造田は「わかりました」と素直に帰っていったという。

この頃、造田は兄に「A子という人を好きになった」と話している。

1996年2月、岡山市内の電気工事会社の採用面接を受けた造田は「大学生の彼女がいるので結婚資金を貯めたい」と話したという。言うまでもなく、"大学生の彼女"とはA子さんのことであった。

「努力しない人間は生きていてもしかたない」

1995年11月、住宅美装の会社を辞めた造田は職を転々としていた。

1年後の1996年11月、仕事を探しに上京した造田は、職にあぶれたまま所持金を使い果たし、野宿生活を送るうち、スーパーマーケットで食料品や衣類を万引きし、店員に取り押さえられた。

交番に突き出され、所持品をあらためられると、1本のナイフが見つかった。

「護身用に持っていた」と造田が話したことから、容疑に銃刀法違反が加わり、現行犯逮捕され、12月17日、罰金10万円の略式命令を受けている。

この前後、造田は無賃乗車も繰り返している。岡山駅や兄の自宅の最寄駅松永駅などで発覚するたびに兄が呼び出され、謝っていたという。

東京に来た時も、米軍基地で働こうと横須賀までタクシーの乗るが、料金を払わず通報された。この時も兄が弁償して、刑事事件への発展を食い止めた。

造田は愛知県岡崎市で職を見つけた。1997年3月から4月にかけて、市内の教会の日曜礼拝に出かけていた。この短時日の教会通いで、造田はキリスト教徒やアメリカ人に対する偏った親和性をはぐくみ始めた。

7月、再び上京し、世田谷区内の新聞販売店で働き始めた。この時期、公機関に意味不明の手紙を送りつけるようになった。

外務省に20通あまり、そのほか国家や裁判所、警視庁など10ヶ所ほど、1ヶ所につき5~10通の手紙を出した。出した手紙の総数は100通にものぼり、すべて住所氏名を偽らずに記した。手紙の内容については以下の通りである。

 日本人のほとんどは小汚いものです。この小汚い者達は歌舞伎町で、人間でなくなっても、動物でなくなっても、生物でなくなっても、存在しなくなっても、レイプし続け、暴行をし続けると言っています。
存在、物質、動物が有する根本の権利、そして基本的人権を剥奪する能力を個人がもつべきです。
この小汚い者達には剥奪する必要があります。
 国連のプレジデントに届けて下さい。
 Hiroshi Zota  造田博

 世界中で見られる、生まれながらのひどい精神障害者、奇形児の方々はすべて、歌舞伎町で会ったことが原因で患者になっています。だから私は日本で生まれることにしました。
 私に関係があるという理由で、この小汚い者たちはA子さんという女性を世界中の人達、私の目の前でレイプしようとしています。国連のプレジデントに届けてください。
 Hiroshi Zota  造田博

Breathing OK は愛情です。
国連のプレジデントに届けてください。世界中のプレジデントの方々に届けました。
国際平和に役立ててください。強力な後押しになります。
 Hiroshi Zota  造田博

助けてください。造田博にレイプされました。僕の彼女も造田博にレイプされました。
造田博が僕の彼女のお腹に子供をつくりました。世界中の人たちに助けてもらいます。
国際裁判をします、僕達にはどうすればいいのかわかりません。お知えて下さい。
国連の親父たちに言ってもらいたい。
 造田○○(実兄の名前)と○○(“妄想の彼女"の実名)

こうした文面の手紙を、造田は自らを”大統領”と名乗り、兄にまで送りつけている。外務省への手紙には兄を名指しであげ、「小汚い者たちのボスです」と書いている。

9月上旬、造田は新聞販売店を辞め、あいかわらず全国を転々としていた。

1998年6月24日、造田は200ドルというわずかな所持金を持って、あてもなく、米オレゴン州ポートランド市を訪れる。後の供述によると一ヶ月前から計画していた渡米だったと言う。(この年の4月から大学を卒業したA子がシアトルに居住していたが、このことが関係している可能性もアリ。)

しかし、知人も英会話能力もない造田は仕事を見つけることをできずにパスポートを破り捨てるという奇行に及んだ。日本領事館に保護された時の造田は、満足に人に相対できないほど錯乱し、体調も極度に悪化していたという。

9月23日、領事館の斡旋によって、ジャパニーズ・バプテスト教会の援助で平静を取り戻していった造田は日本に帰国。帰国後しばらく、愛知県の名古屋市内、稲沢市内などを渡り歩くように働いていた。

1999年3月、以前働いたことのある自動車部品工場で半年契約で働き始めるが、4月半ば、無断欠勤をはじめる。

4月24日、東京足立区にある読売新聞販売店に電話をかけ、翌25日からこの新聞販売店で働き始めた。住まいは販売店から、徒歩5、6分ほどの木造一軒家の2階の一室を間借りした。

このとき、造田の所持品は携帯用のCDプレーヤーや着替えをいれたわずかなものだったため、見かねた家主がふとん一式を提供している。

この販売店での造田は、遅刻や欠勤も滅多に見られないかわりに、職場の仲間と羽目をはずすこともほとんどなかった。それでもたまには同僚と酒を飲みに行くことがあった。しかし、造田は無理に酒をすすめられた時の様子を寝る前に思い出し、屈辱と腹立たしさにとらわれていたという。

仕事ぶりについて、誤配もなく、新規購読の拡販でも相応の成績をあげたが、職場では目立って自己を主張することはなかった。

ある日、仕事中にトイレに駆け込もうとした際、忙しいのだからとそれを止められた。このことはあとあとまで造田は忘れなかった。

9月1日、寝坊で朝刊の配達に遅刻する。この1件により、所長の勧めで携帯電話を持ち始めた。

9月3日、造田は所長にしか番号を教えないつもりであったが、同僚の一人にしつこく聞かれ教えてしまった。この同僚は造田が内心で「努力しない人」と嫌悪していた人間だった。

この日の22時4分、造田の寝入りばなに携帯電話が鳴った。しかし造田が出ても、相手はこたえない。これを「努力しない人」のいたずらであると決め付けた造田は激しい怒りを覚えた。

翌朝の仕事を考え、造田は早く眠ろうとするが、怒りがそれを妨げた。そうして、「努力しない人」への怒りは、街を歩く普通の人に広く向けられることとなった。

日付が変わった翌4日午前1時過ぎ、造田はレポート用紙に檄文とも思えるものを書きつけた。

わし以外のボケナスのアホ殺したるけえのお
わしもボケナスのアホ殺したるけえのお

アホ、今すぐ永遠じごくじゃけえのお

いつも出勤する午前3時ごろ、「努力しない人間は生きていてもしかたない」と書いて部屋を出た。造田は出勤するつもりも、部屋に戻る気もなかった。携帯電話の電源は切ってデイパックの中に入れた。

1999年9月8日、池袋へ

9月4日、部屋を出た造田は唯一土地鑑のある繁華街である池袋に来ていた。ハンバーガーショップで朝食をとりながら、「努力しない人」にむける凶器について考えた。

同日午後1時過ぎ、東急ハンズ2階で洋包丁とまな板、4階で金づちとドライバーを購入した。まな板とドライバーというのは店員に怪しまれないためのもので、ほどなくサンシャインシティ・アルパニ階のゴミ箱に捨てている。

しかし、この日は、造田はバッグの中の包丁と金づちを取り出すことができず、CD屋をうろついたり、ゲームセンターで遊んだりしたのち、赤坂にあるカプセルホテルに泊まった。

翌5日から7日にかけても、造田は赤坂と池袋を往復するが、包丁などを取り出すことはできなかった。造田は常日頃から兄を「小汚い者たちの代表」「努力しない人」と考えていたが、この時ばかりは犯行後の兄を思って躊躇したと話している。

そして、9月8日水曜日午前10時、造田は「今日こそは」と犯行の決意をしてカプセルホテルを出発した。

地下鉄丸の内線に乗って池袋に着くと、駅構内にあるコインロッカーの中にデイパックの中のCDプレイヤーや着替えを預け入れた。その後、例によってハンバーガーショップで食事をしている。

午前11時35分、サンシャインシティの地下通路からエスカレーターで東急ハンズ正面入り口前に出た造田は、デイパックを路上におろし、その中から包丁と金づちを取り出した。

右手に包丁を、左手に金づちを持った造田は道行く人を睨むように見渡した。そして「ウオー!!」という声を上げ、「むかついた。ぶっ殺す」と唸りながら、通りすがりの若い男女2人連れに突進した。

2人を追って、さきほど自分が乗ってきたエスカレーター方向に走ると、そこへ住吉直さん(当時71歳)と和子さん(当時66歳)夫婦が登ってきた。和子さんの左後方から近づき「ぶっ殺す」と口走りながら、その左胸部に包丁を突き刺した。驚いた直さんが逃げ出すと、右手に持ち替えた金づちを直さんの頭上に数回強く振り下ろした。直さんが両手で頭を庇うと、造田は包丁でその右手を突き刺した。この時、包丁の刃先が折れ、直さんの右前腕部にめりこんだ。直さんが倒れこむと、造田は次の標的を探した。

辺りは騒然とした。悲鳴や、「人殺しだ」「ナイフ持ってるぞ」などという声が轟いてた。八方に逃げ出す人々の中で、造田は若い男性にターゲットを絞り、池袋駅方向に追いかけた。

すでに2人が刃に倒れたことを知らずに歩いていた高橋勝利さん(当時34歳)、真弥さん(29歳)夫妻は、東急ハンズの前にさしかかった時、前方から走ってくる造田に気づいた。

真弥さんは右隣りに歩く夫の方に寄った。若い男性から、真弥さんの方に目を移した造田は立ち止まり、右手の包丁を真弥さんの左腰部に突き刺した。小さく呻きながら、真弥さんは東急ハンズ入り口に向かって走り出した。何が起こったのかわからない勝利さんはその後を追った。真弥さんはハンズの向かいにあるパチンコ店に「助けてください」と駆け込んだ。この時夫妻は初めて刺されていたことを知ったという。

一方、造田はわめき散らしながら、60階通りを池袋駅方向に走り、凶器を振りまわしつづけた。

造田に背を向けて駅方向に歩いていた私立高校1年生4人グループのうち3人が切りつけられ、造田はさらに2人を切りつけた。その後、池袋東口ロータリーで、追いかけてきた6、7人の通行人によってようやく造田は取り押さえられた。

住吉和子さんと高橋真弥さんは搬送先の病院で死亡、6人が負傷すると言う凶行だった。

逮捕・裁判とその後

逮捕後、造田は「大学を出て、事務系の仕事に就きたかった」「アメリカ人はほとんどが努力している人」「キリスト教徒は全員努力している人」「真面目に働いているのに評価されず、腹がたった」などと供述した。

ちなみに、ジャーナリスト・青沼陽一郎氏は造田と手紙のやりとりを始め、『池袋通り魔との往復書簡』(小学館)という本にまとめている。手紙の中で造田は「造田博教」なるものを作ったと書いている。

「造田博教」について、造田は次のような信条を述べている。

「親族・家族の関係をなしにしようと思っています。家族の借金なんて、払わなかったらいいと思います」
人の命は尊い、なくなったら戻らないなんて言われていますが、こんなことを言っていたら社会に悪影響があると思います
「今の日本や世界の状況で、私が死刑になんてないと思います。アメリカ大使館に伝えて下さい」

亡くなった高橋真弥さんの実父の宮園誠也さんは初公判後、報道陣に次のように語った。

「声をかけられるのが嫌で、近所付き合いが減った。外出する時はサングラスをかけて歩くようになった」
「加害者ばかりが同情的に報道され不愉快」

ちなみに、宮園さんは全国犯罪被害者の会の幹事を務めている。

判決とその後

2002年1月18日、東京地裁において死刑が言い渡される。

2003年9月29日、東京高裁が控訴を棄却、同9月30日、弁護側はこれを不服として上告。

2007年4月19日、最高裁・横尾和子裁判長は「冷酷、非情、残忍で、被害者らには何一つ落ち度がない」と述べ、上告を棄却。死刑が確定した。

なお、本事件の影響を受け、事件の3週間後に下関通り魔事件が発生している。