大阪池田小児童殺傷事件

2020年07月

白昼の小学校に乱入。多数の小学生を殺傷。

附属池田小事件とは2001年6月8日に宅間 守(たくま まもる)が大阪府池田市にある大阪教育大学附属池田小学校で引き起こした小学生無差別殺傷事件である。

児童8人が死亡、教師を含む15人が重軽傷を負った。

事件の流れ

2001年6月8日午前10時20分頃、大阪教育大附属池田小学校は2時間目が終わり、休み時間に入る直前だった。

その頃、同校の前には1人の男がいた。男は無施錠の自動車専用門から侵入、体育館の前を通って、途中児童達と花壇の方に向かっていた1人の教師とすれ違うが、教師は児童の父兄と思って不審に思わず会釈しただけで声はかけなかった。

南校舎1階には2年南、西、東の3クラス、同じく1年の3クラスが並ぶ。このうち1年西組は体育の授業で体育館に行っており不在だった。

男は手に包丁を持ち、まず2年南組に入り女児ばかり5人を無言で刺した。続いてテラスから隣りの西組に移り児童を襲い、今度は廊下に出てその隣りの東組に入り、ここで4人を襲った。

男は東組から外に出たところで、タックルしてきた教師(1年南組担任)の胸を刺して重傷を負わせ、その後も教師の「逃げろ!」という声に中庭の方へ逃げていく児童達を追いかけた。男はしばらく追いかけたところで引き返し、再び1年南組に入って黒板の傍にいた4人の児童を切りつけ、ここでようやく教師たち(副校長と、男と外ですれ違った2-南担任)によって取り押さえられた。

「しんどい、、、しんどい、、、」

その時、男はそう呟いていた。

学校の教職員たちは、いったい何人の児童が切りつけられ、どこに倒れているのかすぐには判らず、通報も遅れた。

この凶行はわずか10分ほどの出来事(後の学校側の調査では5分)である。男は児童8人を殺害、他児童13人、教諭2人に重軽傷を負わせた。(最初に入った2年南組で児童5人死亡。その隣り2年西組で2人死亡、6人負傷。2年東組で4人負傷。取り押さえられた1年南組で1人死亡、3人負傷)

逮捕された男は池田市内の無職・宅間守(当時37歳)。東門前に止められた車の中からは、アイスピック2本、錆びた包丁や鉈も見つかった。

逮捕直後、宅間は「阪急池田駅のバス停付近で、100人ぐらいメッタ切りにしてきた」「このところ、ずっと眠れなかった。小学校には行っていない」などと、おかしな言動を繰り返していた。自宅を調べたところ、精神安定剤など10数種類約200錠の薬が見つかった。それでもあまりの凶悪重大事件であるため、翌日の朝刊では実名で報道された。そして逮捕からしばらくした頃、「精神障害が重いように装った」と、罪を逃れるために症状を偽装したことを認めた。

詐病と暴力と結婚

宅間は1963年、池田市の西隣、伊丹市で生まれた。父と母、上には7歳違いの兄が一人いる。

小6の時に大教大附属池田中学校の受験を希望するが、模擬試験の結果が悪く断念している。家庭内暴力が始まったのは中学生の時からだった。

中学3年時、黒板に自分の経歴や「航空自衛隊に入ろう」と書き、軍歌を歌うなどしたが同級生は無視した。また「俺はIQが高い」などと言っていたが、成績は中の下だった。

結局、地元中学から工業高校に進む。野球部に所属するが、練習態度が悪いことなどから上級生からいじめに遭い、高校は2年で中退。この頃から不安感や体のだるさなどを訴え、伊丹市内の精神病院に入院した。

1981年11月、航空自衛隊に入隊。パイロット志望だったが、整備などにまわされたため除隊した。この頃、六法全書など法律本を買い込んでいる。

1983年3月、父親の金で運送業を始めるが失敗。不動産会社に就職。この頃にも母親に激しい暴力をふるっていたが、なぜか母親と2人暮らしを始める。

1984年11月、不動産会社の業務中、管理する大阪市内のマンションで、集金を口実に女性宅に上がりこみ、暴行を加えたうえ強姦。逮捕を逃れるため精神病を装い、同病院に入院。「幻聴が聞こえる」などと訴え、精神分裂病と診断された。だが大阪地検に嘱託された医師は、「性格異常であるが理非弁能力はある」と診断、起訴されている。

1986年7月31日、婦女暴行事件で大阪地裁は宅間に懲役3年の実刑判決を下す。奈良少年刑務所に入所。1989年8月、刑務所を出所。

1990年6月、医師と偽り、18歳年上の女性と結婚。だが嘘がバレて3か月で離婚している。その直後、今度は小学校時代の恩師の19歳年上の女性と結婚。彼女の出身大は大阪教育大学だった。

1993年、伊丹市交通局に路線バスの運転手として就職。無断欠勤などはなかったが、車庫内で同僚と殴り合いの喧嘩をしたり、バス内で運転席後ろに座っていた女性客に「香水が臭いから、うしろの席に行ってくれ」と言ったり、問題を起こした。

1994年9月21日、妻と離婚。

1995年11月27日、同じ職場の女性と養子縁組して名字が変わる。この縁組は97年1月に解消、宅間姓に戻る。宅間は慰謝料200万円を強要。

1997年3月、女性(当時39歳)と3度目となる結婚。だが女性は12月に離婚を求め、神戸地裁姫路支部に離婚調停を申し入れる。宅間はこの女性に対しては復縁に執着し、逆恨みするようになった。
 
1998年6月、離婚調停成立。それでも宅間はこの元妻にストーカー行為を繰り返した。さらに交際中の別の女性に暴行を加え、逮捕されている。さらに元妻にも同様の事件を起こし逮捕。
 
10月18日、交際中だった女性と結婚。4度目の結婚。
 
同年、技能員として伊丹市内の小学校に勤務。99年3月には教諭4人に精神安定剤入りの茶を飲ませ、傷害容疑で逮捕された。ところが簡易鑑定で「精神分裂病(統合失調症)の疑い」と診断されて西宮市内の精神病院へ措置入院となり(この病院には事件直前にも入院している)、結局不起訴となっている。

3月2日、兄は守の度重なる確執と暴力により心労が重なり頚動脈を切った。またその直前には妻と離婚しており、子どもを一人残しての自殺だった。さらに3月31日には宅間は4度目の離婚をしている。

9月7日、以前養子縁組していた女性宅に侵入し逮捕。

2000年10月14日、当時タクシー運転手をしていた宅間は、大阪市内のホテルでベルボーイと口論になり、暴行を加え逮捕される。

同年11月、池田市内の建設資材販売会社に、10tトラックの運転手として採用される。自身も池田市内のワンルームマンションに引っ越した。だが信号待ちをしていた時に、並んでいた車の女性に「目が合った」と因縁をつけ、つばを吐きかけるなどの問題を起こし、2001年2月に辞めさせられた。

2001年5月下旬、みずから1日だけ精神病院に入院。

この幾多のトラブルを経て、宅間はその腹いせに、大量殺人を企図。

「日曜日に大阪市内の繁華街をダンプカーで突っ込む」ということも考えたが、「逃げ足に低い子どもを狙えば、多数を殺害できる」と考え、大阪教育大附属池田小を狙うことを計画した。

前日夜、男は電話番号案内で知った池田小の電話番号をカーナビにセットして、床についた。

そして8日朝、車を出した宅間は池田市内の刃物店で包丁を2本購入。池田小に向かい、南側正門が締まっていたため、そのまま進み、自動車専用門が開いているのを確認して、車を降りた。

犯行動機

後の取り調べで事件を起こした理由について「自分の苦しみをできるだけ多くの人間に味わわせてやろう。どうせならエリートの通う小学校を襲い、大量に子どもを殺して、家族を苦しめてやろうと思った」などと供述しており、また、自身を死刑にするために犯行をおこなったともされている。

判決、そして、死刑執行。

宅間は逮捕後に「詐病だった」という供述をしていたものの、多量の薬を服用していたことや、10代の頃から通院歴があるため、本当に責任能力はあるのかということが疑われた。

だが捜査、公判両段階で行われた2度の精神鑑定では、「人格障害」と診断され、責任能力があることが認められている。

9月14日に殺人、殺人未遂罪などで大阪地裁に起訴。同年12月27日に初公判があり、検察側が起訴状を読みあげ始めたとき、

「おう、座っちゃあかんかぁ」

と宅間は言った。裁判長が厳しい口調で立って聞くように言うと、睨み返した。この初公判では起訴事実を認め、「命をもって償う」と言った宅間だったが、後に検察側から「なぜ『命をもって償う』と言ったのか」と問われると、「裁判の判決の新聞記事にそういう言葉がよく出てくるから言っただけ」と言った。

それ以外にも、彼の発言には次のようなものがある。

「交通事故で大勢の人が死んでいるのと自分の事件は変わりがない」
「道連れは多い方がいいと思った」
「勉強ができる子でも、いつ殺されるかわからないという不条理をわからせたかった」
「幼稚園ならもっと殺せた」
「(被害女児の義父に対して)こら、〇〇!お前、子どもと血ィつながっとらんやないか!おいこら、〇〇、なんとか言えや!」

2003年5月、検察側は宅間が矯正教育を受けた後にこのような凶悪事件を引き起こしたことについて、「本件被害の惨状と多くの家族の悲痛な思いを見るとき、いわゆる死刑廃止論が、いかに被害者や遺族の立場、心情を無視した空疎なものであるかということを実感せざるを得ない」と死刑を求刑。

この後に心神喪失、心神耗弱を主張した弁護団の最終弁論の後、宅間は「死ぬことにはまったくビビっていません」「いままでさんざん不愉快な思いをさせられてきました」「しようもない貧乏たれの人生やったら、今回のパターンの方が良かったのかもしれません」などと述べた。

8月28日、判決公判。

宅間は「死刑になるんやろ。最後に言わしてくれ」と訴えたが、裁判長はそれを無視。すると宅間は大声をあげた。

「3枚ほどや!すぐ終わる!最後に言わしてくれ!これまで、わし、おとなしくしてたやろ。どうせ、死刑になるんやさかい」

裁判長は退廷命令を出し、拘置所の職員が宅間を連れ出した。

この後、裁判長はまず「主文、被告人を死刑に処する」と読み上げ、死刑を宣告。そして「我が国犯罪史上例を見ない、空前の、そして願わくは絶後の、凶悪重大事犯である」「理不尽極まりない暴力によって、一瞬にうちに短すぎる人生を絶たれてしまったのである。その無念さに思いをいたすとき、深い哀惜も念を禁じえない」と述べた。

9月10日、弁護団は控訴期限が迫るなか大阪高裁に控訴。だが26日に宅間がそれを取り下げ、死刑が確定した。

死刑

その年の12月、宅間は和歌山出身の女性と結婚(5度目の結婚)。女性は死刑廃止を訴えるアムネスティ・インターナショナルの活動に参加しており(会員ではない)、それまでに支援者の1人として弁護士を通して宅間に手紙を送っていた。

この結婚は、宅間と接見や文通の権利を得るという目的もあったが、宅間に対して遺族へ謝罪するよう説得する意図もあったという。もちろんこの結婚について、女性は家族から猛反対を受けており、家族に迷惑がかからないようにと自分の姓を変更し、宅間もこの姓を名乗った。

2004年9月14日朝、大阪拘置所で死刑執行。享年40。刑確定から1年足らずの異例のスピードでの執行だった。冤罪性がなく、被害児童の遺族などの感情を考慮しての執行だったとされる。執行の前、ジュースと煙草を飲んだ。取り乱すことはなかったという。

その日の午前9時40分、大阪市内の妻の自宅を訪ねた拘置所職員が、「今朝、きれいに逝きましたよ」と死刑が執行されたことを報告。妻は最初その意味がわからなかったが、「なんでこんなに早いんですか」と大声で泣いた。

死刑囚の遺体は拘置所によって荼毘にふされ、家族には遺骨のみが渡されることがほとんどだが、遺族の希望により遺体の状態で家族に引き渡すことも可能である。宅間の場合も、その希望によって、遺体のまま妻に引き渡されることになった。

妻が拘置所内で宅間の遺体と対面して泣いた後、1人の若い刑務官が、妻のところに走り寄って来て、宅間の遺言を小声で伝えた。

「最後に、奥さんに宛てて、”ありがとうって、僕(宅間)が言ってたって伝えてください”って言ってました…」

これが宅間の見せた、最後の優しさだったのかもしれない。その一方で、最後の最後まで被害者遺族に対する謝罪の言葉はないままだった。

大阪池田小児童殺傷事件が社会に与えた影響

この事件の判決は大阪地方裁判所でおこなわれることになった。初公判では「命をもって償います」と謝罪の弁を口にしていたものの、その後は公判中にあくびや貧乏揺すりをしたり、遺族らを睨みつけたりと、良くない態度をとっており反省している様子はなかった。

「事件が起きたとき、教員や校長が混乱の中で事件の全容がつかめず適切な行動がでできなかった」という指摘を受けており、学校も安全対策をすべきとの主張が各地でおこるきっかけとなった。

この事件以降、監視カメラの設置や部外者の立入禁止の原則化がおこなわれ、学校の様子も「開かれた空間」から安全性重視の「閉ざされた空間」へと変わっていった。また、児童が防犯ブザーを携帯するようになったり、教員が防犯の方法や心肺蘇生について学ぶようになったりと、個人のセキュリティ意識が向上するという様子も見られた。

宅間は死刑判決の前に心神喪失状態のフリをしていたことから、そうした人たちへの風当たりが強くなり、2003年には「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」が制定されるなど、心神喪失状態の方たちへの対応も変化していくこととなった。