衆議院議員・石井紘基代議士刺殺事件

平成を代表する暗殺"疑惑"事件

2002年10月、東京都世田谷区の民主党・石井紘基議員宅のガレージ付近で、自宅を出て迎えの車に乗ろうとした石井議員(61歳)がバンダナをまいた男に胸を包丁で刺され、殺害された。

26日朝、右翼団体「守皇塾」代表で、書籍販売業の伊藤白水(本名・伊藤いずみ・48歳)が「自分がやった」と霞ヶ関の警視庁本部に出頭し、逮捕された。

「石井こうき」議員について

石井議員は中央大法学部を卒業後、モスクワ大学大学院に進み、帰国後は『社会新報』記者、議員秘書などを歴任。1993年衆院選に日本新党から出馬して初当選し、新党さきがけなどを経て1996年、民主党結党に参加した。

「政・官・業」の癒着を暴くことを政治活動の中心に据え、99年には「政治と行政の不正を監視する民主党有志の会(通称・国会Gメン)」の室長に就任。2002年4月の衆院内閣委員会で、北海道別海町などの国道工事をめぐり受注企業の7~8割が鈴木宗男衆院議員に政治献金していた実態を暴いたり、防衛庁の会計検査院報告書偽造問題で、中谷元長官(当時)から「閣僚給与返上」の答弁を引き出すなど、党の論戦の柱でもあった。

ライフワークである道路公団や特殊法人の無駄遣いについては一貫して政府与党の姿勢を厳しく追及し、「民間の不良債権ばかりが問題にされているが、特殊法人や公的金融機関が抱える不良債権は350兆円にものぼる。しかも、その特殊法人に毎年10兆円以上の税金が流れ込んでいる。これらの組織をすべて解体して、公権力による民業圧迫をなくせば、市場は必ずよみがえる」と持論を展開していた。

またオウム問題にも取り組んでいた。(著書に立風書房「オウム事件は終わらない」がある)地元である宗教団体の進出計画が浮上したことがあり、反対運動が巻き起こると、その先頭に立った。その際、「殺してやる」などと脅迫状が舞い込んだことがあった。

2001年9月、石井議員は「免許取り消し」の処分を受けている。石井代議士は、議員にしては珍しく、マイカーで移動していたのだが、この処分によって運転手を雇うようになった。

伊藤白水(伊藤いずみ)について

世田谷区生まれ。1985年、“一人一党”で「守皇塾」を旗揚げ。事件直前は、目立った活動歴は見られないものの、民族派の活動家の間では「一匹狼的な武闘派」(右翼団体関係者)としてそこそこ知られていた。

1988年1月、伊藤は登山ナイフを持って共産党本部に抗議に行き、銃刀法違反で現行犯逮捕された。

1993年に初当選する前からの知り合いで「石井は俺が当選させてやった」などと話していた。また別の議員の秘書には「石井には貸しがある」などと話していた。また伊藤は石井議員の事務所だけでなく、小杉隆氏(平成 8年11月7日~平成9年9月11日文部大臣)の事務所にも、過去出入りをしていた事がわかった。

1998年から世田谷区奥沢のアパートに住んでいたが、3年間で家賃約200万円を滞納し、2002年6月下旬、家主から強制退去の申し立てをされていた。石井議員に家賃の肩代わりを頼んだが断られ、10月17日に退去となって以降、東京・新宿で寝泊まりしていたという。

石井議員の関係者によると、伊藤は殺害の数年前から、石井議員の秘書に日本酒や書籍を売りつけ、1999年頃からは石井議員に「車代」などとして金銭を要求していた

石井議員と伊藤白水

石井議員と伊藤のつながりについては「週刊文春 2004年9月2日号」の伊藤の獄中手記に詳しいので引用する。ただ「死人に口なし」ということで実際のところは不明である。

私が石井と知り合ったのは平成二、三年頃と記憶している。ちょうど世田谷区議選の年で、ある候補者の事務書を尋ねたところ、そこにいたのが石井だった。(中略)石井は学生時代、全学連の左翼学生であり六十年安保を経験した一人だが、私が話す憂国政治運動にも理解を示していたし、偏った正義を振り上げた話をするわけではなかった。「次の衆議院選挙も出馬するのだろう」と聞くと、「もちろんです」と答えるので、私も、「応援してやる」と約束して知人達に声を掛けて食事会や励ます会を開き、票につながる努力をした。平成五年の話だ。この年の七月に衆議院選挙があり、石井は日本新党から出馬して十一万票を集めて当選した。当選後も石井との付き合いは続いた。

石井から「政界に顔が利く大物を知らないか。知っていたら紹介してくれ」と頼まれたので、「歴代総理の指南役と言われている人で四元義隆(※)という人がいる」と話すと、「是非、紹介してくれ」と頼むので、紹介の労を取ってやった。四元氏を紹介するために築地四丁目にある三幸建設工業に石井と一緒に衆議院の車で出かけた。

四元氏の秘書でA(手記では実名)から、「代議士の第一秘書になりたい男がいるが、誰か知り合いの代議士に口を利いて欲しい」との話で、「OKなら土産をつける」というので、「どのくらいですか」と問うと、「一千万円」と言った。私が「ニ、三千万円何とかなりますか」と言うと、「いいですよ」と言うので、「わかりました。聞いてみましょう」と返事をした。私はすぐに四元氏に気をまわして、仕事にかこつけて私の面子が石井に立つように取り計らってくれたと理解した。

三千万円の金は、衆議院第一議員会館三階の石井の執務室に、最初の一千万円と、一週間後に一千七百万円、合計で二千七百万円が届けられた。三百万円足りないのは届けた人間が使ったか、落としたかは私のあずかり知らぬところだ。平成八年の七月から九月の話である。私は後日、議員会館に石井を訪ねた際、石井が「伊藤さんにこれ」と言って茶封筒を渡すので、「なんだこれ」と言うと、「お礼だよ」と言うので、「いくらだ」と問うと、指を二本見せたので「ああそうかい」と言って受け取り、鞄に入れて、石井に「うまくやれよ」と声をかけて別れた。

石井の議員生活も丸八年が過ぎた平成十三年春頃、三幸建設が業績不振になり危ないとAに聞いた。その旨を石井に話し、「お前は選挙の時に四元氏にお世話になったのだから恩を返す番が来たぞ」と言って、「何か三幸に建設の仕事でも回してやれ」と伝えて帰った。

数ヶ月過ぎても、石井が何も動こうとしないので、私が怒ると、石井は「俺の知り合いで神田にあるB社にCというのがいるから、行けば分かるように話をしてある」というので、私は営業部長になっていた四元氏の秘書のAを伴ってB社を訪ねた。C氏と会い、Aを紹介し、C氏に「石井からお聞きと思いますが、どんな仕事がありますか」と問うと、「三幸建設がとりたい都の公共事業を言ってください。その仕事がとれるように都に口を利きますよ」と言い出したので、私は「ちょっと待ってくださいよ」と遮り、「話が違うようですね。私が石井に頼んだのは民間の仕事で、公共事業の仕事ではありませんよ」と話し、「どうも石井に乗せられたようです。後日改めて電話します」と言って、Aと二人でB社を後にした。Aと別れた後、私は議員会館の石井の執務室に電話を入れ、「おい、話が全然違うじゃないか」と怒りつけて電話を切った。

私は石井と知り合った頃から、真面目な選挙浪人だと思い、信頼して応援してやったつもりである。三回目の選挙で当選してからは、私との面会の約束も破るようになったし、平気で嘘もつくようになった。私の信頼を裏切り、約束を破り共産党に私を陥れる悪口を言いふらす。これが応援してやった私に対する態度とは、薄汚い野郎だ。こんな下劣な野郎を信用して国政に送る手伝いをした自分に腹が立ち、これは私の責任で石井に始末を付けなければと決断する。私は自分自身の軽率を恥じ石井紘基に鉄槌を下すテロを行うことを誓う…。

四元氏の秘書Aは公判の検察側証人として呼ばれ、石井議員と四元氏の間の金銭授受について「全くございません」と証言した。さらに2人の面識だけでなく、四元氏と伊藤の面識も否定した。

四元義隆は鹿児島県出身の元・三幸建設工業社長。国粋主義者が起こした1932年の血盟団事件に連座。出獄後は近衛文麿元首相の秘書を務めたほか、鈴木貫太郎、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作ら歴代首相と親しく、戦後政治の節目で影響力を発揮したとされる。中曽根康弘元首相の「ご意見番」と呼ばれ、現役首相時代も一緒に座禅を組むなど精神的な支えとなった。2004年6月28日死去。

殺害

2002年10月25日午前10時半過ぎ、石井議員は迎えの車に乗るために東京都世田谷区代沢の自宅玄関を出たところを、公用車の後ろで待ちかまえていた伊藤が襲いかかった。石井議員が車に乗ろうとして伊藤に気付き「何するんだよ」と逃げたが、うつぶせに転んだところを伊藤が左肩に手をかけ、仰向けにされ、馬乗りになり胸を柳刃包丁(刃渡り20cm)で左胸を刺された。伊藤は終始は無言で、逃走した。

石井議員はすぐに病院に搬送されたが、肺につながる血管を断ち切られ、心臓マッサージをしようにも、心臓内には血が一滴も残っていなかったという。あごの骨も刃物の一撃で砕かれていた。

翌26日朝、伊藤は霞ヶ関の警視庁本部に出頭し、逮捕された。

実は事件直後から、伊藤の名前は捜査線上に浮上していた。伊藤は石井議員と面識があり、最近、周囲に「石井議員と金銭トラブルになっている」と漏らしていた。加えて、石井議員を刺した男は頭にバンダナを巻いていたが、伊藤もバンダナに作務衣というのが定番の外出姿だったからである。

逮捕後、伊藤は「家賃3年分を滞納して追い出された。助けてほしいと頼んだが、断られた。感情のもつれもあった」と供述した。

遺族の不審

石井議員の家族の証言によると、事件前後、以下の通り不審な点が多かったと言う。

  • 石井議員は殺害される直前、ナターシャさんに「近々、日本がひっくり返るほどの重大なことを発表する」と語っていた。
  • 事件から6日前の10月19日、石井議員は「車に追われている」と言って知人のところへ駆け込んでいた。ちなみに伊藤は原付バイクのみ所有。
  • また同月23日、石井議員が何者かにリンチに遭った様子で帰ってきた、と妻が話している。
  • 事件前日午前9時ごろ、石井宅に植木業者の営業マンが訪れた。娘のターニャさんが断っている。
  • 石井議員が病院へ運ばれる時、妻が救急車に乗せてもらえなかった。
  • 石井議員の手帳と、鞄の中身の資料が押収品目録から消えていること。手帳があったと遺族側から何度も警察に申し出ても、調査してもらえなかった。
  • 事件の日は、28日に質問する資料を委員長に提出しに行く日だった。その書類の中身は、銀行問題その他政権がひっくり返る重要な資料があったらしいのだが、それが鞄の中から消えていた。
  • 運転手が、事件後倒れている石井議員の後ろにしゃがんで、自分の携帯電話でどこかへ電話していた。本人は自動車電話から車両部にかけたと言っている。(石井議員の遺族は事件後一度も運転手に面会したことはない)

判決とその後

2004年6月18日 東京地裁・成川洋司裁判長は無期懲役を言い渡す。

2005年6月30日、東京高裁・田尾健二郎裁判長は「殺害の動機に関する被告の供述は信用できず、1審判決に事実誤認もない」と一審支持、控訴を棄却。

2005年11月15日、最高裁、伊藤の上告を棄却。無期が確定した。