神奈川・横須賀線電車爆破事件

「彼女を友人に取られた」鬱憤を晴らすため、電車に時限爆弾を設置。死者1名、重軽傷者12名の惨事に。

1968年6月16日午後3時28分ごろ、観光帰りの乗客を乗せた、横須賀発の上り電車が大船駅手前で突然爆発し、死者1名(32歳・男性)、重軽傷者12名を出す事件が起こった。

まもなく、日野市に住む大工・若松善紀(当時25歳)が逮捕された。

「婚約者を友人に取られ、その鬱憤を晴らすため、彼女が利用していた横須賀線を爆破してやろうと思ったから」というのが犯行の動機だった。

事件の経緯と動機

1968年6月16日、日曜日の午後3時28分頃、横須賀発東京行き10両編成の上り電車が、北鎌倉駅を出て大船駅の100m手前の踏切にさしかかった時、6両目の網棚に置かれていた新聞紙の包みが突然爆発した。

この車両には鎌倉観光帰りの人など60数名の乗客が乗り合わせていたが、1人が死亡、14人が重軽傷を負った。

その後、6月5日葛飾局消印で、警視庁捜査一課の刑事部長にこの犯行を予告したものと思われる投書が届いていたことが判明した。

刑事部長殿
 今月の16日に東京駅のどこかに、手製のダイナマイトを仕掛けるので注意されたし。四十一年に東京の交番のおまわりが、頭を殴られて死亡したのはどうなったかね。あれは私がやったのです。あの人は、やたら交通を取り締まっていたので生意気だ。俺は絶対捕まらない。とにかく今月の中ごろ、東京のどこかに大事件が起きるので楽しみに待っていてくれ。

また、投書は17日にも刑事部長宛てに届いた。

私が差し上げた六月四、五日ごろの手紙を読んだことと思います。
 手紙に書いたとおり、六月十六日にダイナマイトで爆発させるといったのですが、いかがでした。私は実行に移したまでです。
しかし、大船で爆発したのは、私のミスでした。初めは東京駅にするつもりでタイムスイッチを東京着の十六時二十四分の二、三分前に仕掛けていたのですが、どこで狂ったのか、大船で爆発してしまったのです。
 七月七日、上野駅で爆発させるつもりです。

2通目の投書とともに同封されていたのは、この人物の犯罪歴を記載したメモだった。

そこには、63年と64年に駐車中の乗用車を盗み、川崎市の病院で医師と偽り、入院患者の指輪を2個を盗んだと記されていた。

この病院について調べてみたところ、確かにこうした事件が記録されていた。さらに、犯人の指紋も検出されていたため、前科者と照合してみたところ、67年に自転車窃盗した25歳の男が捜査線上に浮上した。

7月5日、捜査一課はこの男を逮捕したが、この男は投書を送ったことについては認めたものの、爆弾事件には無関係だということがわかった。実際、この男は窃盗事件について執行猶予付の判決を受けて、釈放されている。

当時、1967年6月18日の山陽電鉄爆破事件など、列車に対する爆破事件が続発していたことから、警察は本件を広域重要事件107号に指定した。

ちなみに、警察庁広域重要指定事件としては、単一の事件で広域指定された唯一の事例である。

その後の捜査によって、爆発物に使用された火薬は猟用散弾の発射薬として市販されていた無煙火薬と判明。また、起爆用の乾電池ホルダーが、主に受験勉強用に販売されていたクラウン社製のテープレコーダーのものであり、遺留品の検査マークから1000台以下しか出荷されていないことなどが次々に判明した。

さらに、爆発物を包んでいた新聞紙が毎日新聞東京多摩版であり、活字の印刷ズレから八王子市・立川市・日野市方面に配られるものと判明したことで地域が限定され、爆発物が詰められていた箱が「鯱最中の箱」であると特定された。

そして、11月9日、日野市に在住し、猟銃免許によって散弾銃を所持しており、毎日新聞を購読していたことから、大工の若松善紀(当時25歳)が逮捕された。

若松は素直に自供し、大船署の留置場で次のように心境を記した。

手記
私しは横須賀線電車を爆破したのですが別に世の中にふまんが有ったのではありません。
社会に対して反感もありません。
只、電車のなかで爆発をやって見たかっただけです。
現在の私しの気持ちは本当に申し訳ないと思っております。
どんなつぐないでもするから許してください。
 十一日

若松善紀について

若松は1943年、山形県尾花沢市で4人兄弟の末っ子として生まれた。

若松がまだ乳児の頃、トラック運転手だった父親(当時35歳)は出征し、レイテで戦死している。

1947年ごろ、若松は東京から疎開してきたA子という少女と出会った。A子は格好の遊び相手となり、若松にとって幼少時の良き思い出となった。

A子は母と2人暮らしで、父親は窃盗事件を起こし刑務所に入っていた。そして、1950年頃、A子は母親の再婚のため山形を離れ、横浜市に移った。

小・中学生時代の若松は、おとなしかったが、友だちは多かったという。また、機械いじりの好きな少年で、頭もよかった。しかし、吃音という悩みを抱えており、授業中に教師にさされると、しどろもどろになったという。

若松一家はたいへん貧しく、若松は中学卒業後、山形市で大工見習いとなって働いた。

手先が器用で、物覚えが良かった若松だったが、1年と少しでこの仕事を辞めてしまう。

これは、高校進学の想いが収まらなかったためであった。

姉たちは「できる限りの援助をして、善紀を高校に進ませたい」と申し出たが、母親の反対によって、若松は進学をあきらめることとなった。

そうして、1960年からは東京・保谷市(現・西東京市)で見習い大工として働いた。

1963年8月には一人前の大工として正式に採用され、新宿区西落合に部屋を借りた。

若松は、2級・1級建築士を目指し、このための勉強の他にラジオ講座で数学と英語の勉強もするという真面目な若者だった。さらに、子どもの頃から常に悩みの種だった吃音の矯正所にも通い始め、自信を取り戻すこともできた。

1967年2月、若松は幼少時によく遊んだA子と再会した。このとき、二人はともに23歳の頃であった。

A子は、従姉の経営する食堂を手伝っていた。それまで年賀状の付き合いにとどまっていたいた二人であったが、若松の書いた手紙をきっかけに二人は再会することになった。

二人はすぐに親密になり、同棲生活を送って、結婚を約束する仲にまでなった。

ところが同年の4月頃、A子は突然にアパートを出ていってしまった。

理由はいくつかあった。母親に結婚を猛烈に反対されたことや、父親が刑務所で死んだと知ったこと、18歳の時に職場の男性との婚姻歴があったこと…

しかし、最大の理由は、A子は若松と同郷で同じ工務店に勤める1歳年上の男に若松とのことを相談しているうちに親密になっていたことだった。

10月、若松は7年以上勤めた工務店を辞め、川崎市の工務店に移って、住居も日野市の借家に変えた。

そして、深い愛は強い憎しみへと変わり、若松は犯行に向けて動き始めた。

事件当日、この日は朝から大雨で、仕事が休みになった。

午後1時45分ごろ、無煙火薬を詰めた三方継手に時限起爆装置をとりつけ、東京発の電車内にこれを設置。

「A子が通勤に使っている横須賀線を爆破してやろう」

そう考えたことが、犯行へとつながった。

しかし、爆破による被害は、想像を超えるほどに凄惨なものであったため、若松は自殺を決意。レンタカーを借り、海を目指して北上した。

北上しているうちに、若松は故郷である尾花沢に差し掛かった。そこで若松は実家に3時間ほど滞在し、裏山にあった父親の墓に手を合わせた。

その後、若松は進路を変え、伊豆の波勝岬に向かった。

到着し、いざ海をながめていると、「生きよう」という気持ちが沸き上がったという。

そして、若松は逮捕の日まで、再び日常へと戻っていった。

判決とその後

1969年3月20日、横浜地裁で、若松に死刑判決が下された。

その頃、若松は教誨師であるプロテスタントの牧師との出会いによって、キリスト教に関心をもち始めた。

聖書を読み、通信講座で勉強も始めた。

純多摩良樹(すみたまよしき)というペンネームで、短歌も嗜んでいた若松は次のような歌を詠んだ。

死を望む心なけれど独房に虚しきときは詩編繙く
信仰に生くれば獄の些細なる動きにも神の御技はたらく
水溜に移る死囚の影淡しその影さへも風にさゆらぐ

1970年8月11日、東京高裁が控訴を棄却。

1971年4月22日、最高裁が上告を棄却し、死刑が確定した。

死刑確定後の若松は短歌とヘブライ語の研究に情熱を注いだ。

そして、1975年12月5日、若松善紀の死刑が執行された。(享年32歳)

若松は、最高裁への上告趣意書の中で、次のように書き残している。

その社会に仮りに罪を犯す人間がいたとしたら、彼をその罪にかりたてたものは何か。それを明らかにした上で、その人間を裁き、また原因となったものを真に、あらためていく方向の社会形成をする。そうした思想が生まれない限り、人民の独り独りは永遠に救済されないであろう。

また、処刑の朝、若松が歌を投稿していた歌誌「潮音」の代表を務めていた太田青丘氏宛に葉書を書いており、内容は以下のとおりである。

私は毎日の信仰生活の中で生れる、一首一首を辞世としてまゐりました。
それで敢へて辞世の歌は書きません。

若松(純多摩良樹)の歌は、しばしば雑誌に掲載されたこともあり、「潮音」昭和49年1月号では新春二十首詠に入選したこともあった。