連続企業爆破事件

1974年8月30日、東京丸の内の三菱重工ビルで大規模な爆発が起こり、8名が死亡し、385名が重軽傷を負った。

企業を狙った爆破事件は翌年5月までに11件起こり、「東アジア反日武装戦線」というグループからの犯行声明が出された。

1975年5月19日、同グループのメンバー8人が逮捕される。彼らは会社員など、昼間は普通の社会生活者だった。

1974年8月から翌年5月にかけて、東京を主とした各地の企業で爆弾による爆破事件があいつぐ。

事件の経緯と詳細

1974年8月30日 三菱重工ビル

午後0時43分ごろ、東京丸の内の三菱重工本社ビルの1階正面玄関左側にある柱付近で大音響とともに突然爆発。同ビルだけではなく、通りに面した三菱商事ビル、第一勧銀ビルなどの窓ガラスも粉末となって一面に降り注ぐ大規模な爆発で、物的損害だけで4億円(当時)にもなった。

爆発当時、通りは昼食帰りのサラリーマン、OLなどでにぎわう時間帯で、8名が死亡、385人が重軽傷を負った。死亡したある三菱重工の社員(50歳)は「赤軍派か・・・」と漏らして亡くなったという。
この爆発の3分前、若い男の声で「玄関前に爆弾を2個仕掛けた。これは冗談ではない。近くにいるものを避難させろ」という予告電話がかかってきていたが、いたずら電話だと思い、途中で切った。

また爆発の前、同社員が1階ロビーの柱のかげ付近に茶色の紙に包んだ円筒型のもの2個が置かれてあるのを見かけたこともわかった。

現場検証の結果、時限装置と見られる時計や乾電池などの破片が見つかった。

31日未明、捜査当局は「鑑定の結果、この爆発はダイナマイト700本分に相当する」と発表。塩素酸塩系の混合爆薬合計54.8kgという手製爆弾にしては超大型爆弾だった。

当初から複数犯による過激派の犯行と見られた。

10月14日 三井物産本社ビル

午後1時16分、東京港区西新橋の三井物産本社ビル3階電気通信室入り口で爆発が起こる。17人が重軽傷。日曜日ということもあって、幸い死者こそでなかったものの、各階のガラスは爆発のショックでほとんど割れるという大規模なものだった。爆発はゆたんぽ爆弾によるもの。

爆発の20分前、「アジア大陸開発組織団」と名乗る人物から「爆弾を仕掛けた」とやはり予告電話があり、警察官が現場検索中に爆発、警官4人が巻き込まれた。

11月25日 帝人中央研究所

午前3時10分、東京日野市の帝人中央研究所機械室内で爆発。消火器爆弾1個によるもの。隣はプロパンガス貯蔵庫だったが、負傷者などはなかった。

12月10日 大成建設本社

午前9時45分ごろ、東京銀座の大成建設本社と、その傍の大倉商事に3回にわたって「東洋の牙の者だ。爆弾をし掛けたので今すぐ退避せよ」という警告電話があった。声の主は「東南アジア牙団」、または「帝国連盟」と名乗った。

この電話で捜査中の午前11時5分ごろ、大成建設本社の駐車場の隅で時限爆弾が爆発、9人が重軽傷を負った。この爆薬の威力も凄まじいもので、大成、大倉商事ビルの窓ガラスが破損、停めてあった2トントラックが横転するほどだった。石油ストーブオイル缶爆弾1個。

声明文
「大成建設らの今日は、大倉農場に大地を侵奪されたアイヌ人民、朝鮮人民・・・・1922年新潟県の信越電力信濃川水力発電所工事現場で大量虐殺された朝鮮人労働者等々、夥しい植民地人民の血と屍のうえに築かれている」

12月23日 鹿島建設資材置場

午前3時10分、東京江東区の鹿島建設資材置場で爆発。ワックス缶爆弾。

声明文
「本日、鹿島建設=花岡作戦を決行したのは、東アジア反日武装戦線に参画する抗日パルチザン義勇軍”さそり”である。鹿島建設は植民地人民の生血をすすり、死肉をくらし、獲得したすべての資産を放棄せよ」

1975年2月28日 間組本社ビル、同社大宮工場

午後8時5分、東京青山の間組本社ビルで爆発。残業の社員や消防士など5人が負傷した。爆発によりビルの9階より上が炎に包まれ、9階の電算室はほとんど破壊された。アタッシェケース爆弾。

さらにほぼ同時刻、埼玉県与野市の間組大宮工場でも爆発が起こる。こちらは死傷者はでなかった。大宮工場爆発の20分前、隣りの日本通運大宮支店に予告電話が入っている。シンナー缶爆弾。

間組本社爆破後の声明文
「昭和19年、福島県の猪苗代沼倉水力発電所工事で朝鮮人労働者に過酷な労働条件で働かせ・・・・わが部隊はキソダニ=テメンゴーダル作戦の一たんをにない間組本社(6階)に対し、爆破攻撃を行なった」

4月19日 韓国産業経済研究所 オリエンタルメタル社

午前1時頃、東京銀座トキワビル5階の韓国産業経済研究所入り口ドア付近、兵庫県尼崎市のオリエンタルメタル社の入る尼崎松本ビル7階エレベーターホール付近でそれぞれ爆発があった。2つのビルとも韓国に関係のある企業。死傷者はいなかった。ともにブリキ缶爆弾。

両ビルの郵便受けには所長宛ての封書があり、差出人は「東アジア反日武装戦線」、タイプ文字で「韓国への進出をやめろ」という内容の脅迫文。関西での爆破事件は初めてだった。

脅迫状の文面
「韓国産業経済研究所は、日帝企業の韓国、台湾、マラヤ侵略に奉仕する活動を停止せよ。オリエンタルメタル製造などによる『韓国工業団地視察団』の派遣を中止せよ。オリエンタルメタル製造は、韓国から撤退し、在韓資産を放棄せよ」

4月28日 間組京成江戸川作業所

午前0時ごろ、千葉県市川市の間組京成江戸川作業所・宿直室床下で爆発。1人の重傷者をだす。

5月4日 間組京成江戸川橋鉄橋工事現場

午前2時25分、間組の京成江戸川橋鉄橋工事現場の現場機械下で爆発。死傷者はなかった。ワックス缶爆弾。

犯人は爆発物の形状と設置場所についても気を配っていた。三菱重工の爆弾は映画フィルムを入れる缶に似せた容器に入れられた。普段から届けられたフィルムの入った缶が積まれてあることが多く、当日も見過ごした社員が多くいた。三井物産の事件では、いつもコピー用紙が積まれている場所にそっくりに包装した爆弾を、帝人の場合では隣りがプロパンボンベ保管庫である配電室に消化器爆弾が使われた。このため、念入りに下見をして、建物内の様子を探っていたと思われる。

メンバーの逮捕

この一連の爆破事件の捜査は、公安と捜査一課共同であたっていた。

三井物産爆破事件の現場近くで目撃されていた不審な男のモンタージュ写真が公開される。それによると、「25、6歳、長髪で、ぎょろ目の男」だった。

その後の捜査で、72年9月に「アイヌ解放」を叫んで、アイヌの英雄「シャクシャイン」の銅像の台座を爆破損傷し、捕らえられた栗原登(当時44歳)に関係のあるメンバーが浮かぶ。

警視庁特捜本部は、地下出版のゲリラ教本「腹腹時計」や、紙くずの中に残された「シチズン・コンパクトアラーム」の領収書などから、犯行グループのメンバー割りだしに成功した。逮捕までには2ヶ月間、尾行を繰り返すなど慎重に捜査が進められた。

1975年5月19日朝、出勤途中や都内のアパートにいた実行グループのメンバー7人が韓国産業経済研究所爆破容疑で一斉逮捕される。

メンバーと関わったとされる事件は以下の通り。このなかにモンタージュ写真の風貌の男はいなかった。

「狼」→三菱重工、帝人研究所
・大道寺将司(当時26歳 会社員)
・大道寺あや子(当時26歳 会社員)
・佐々木規夫(当時26歳 会社員)
・片岡利明(当時26歳 会社員)

「大地の牙」→三井物産、大成建設、韓国産業研究所、オリエンタルメタル
・斎藤和(当時27歳 ウェイター)
・浴田由紀子(当時24歳 臨床検査技師)

「さそり」→鹿島建設、間組、他
・黒川芳正(当時27歳 会社員)

このうち斎藤は午前10時30分ごろ、警視庁で取り調べの途中、突然血を吐いて死んだ。グループのメンバーは全員カプセル入りの青酸カリを所持しており、斎藤は刑事が自宅に踏み込んだ時に、とっさにカプセルを飲んだものとみられた。大道寺あや子も逮捕時にカプセルを飲もうとして、捜査員に阻止されている。

さらに同日午後、メンバーではないが、事件に協力していたとして仙台市の荒井まり子(当時24歳)も逮捕された。28日にはまり子の姉(26歳)が走る列車のトイレから身を投げて自殺している。姉はまり子の逮捕以来、警察官の尾行にノイローゼ気味になっており、心配した両親が実家に連れ戻す途中だった。

23日、都内のアパートに爆弾アジトを借りていた明治学院大生・桐島聡(当時21歳)と、宇賀神寿一(当時22歳)が「さそり」のメンバーとして指名手配される。逮捕されたメンバーを尾行した結果、彼ら2人のアパートに出入りしていたことがわかったからだった。2人の部屋はすでにもぬけの殻で、いずれも机がぽつんと置かれているだけだったが、大量の除草剤、トラベルウォッチ、缶など爆弾材料と製造器具が見つかった。

その後も残党(宇賀神、桐島)や、「世界赤軍日本人部隊やみのつちぐも」、「世界革命戦線大地の豚」、「世界革命反日戦線・タスマニア1876」と名乗る新グループによる爆破・放火事件が77年11月初めまで続いた。

5月25日、立川警察署北口交番
5月29日、名古屋駅西口派出所前コインロッカー
7月19日、北海道警察本部警備課
8月14日、高円寺駅前交番(杉並区)、銀座三原橋派出所(中央区)など3ヶ所
9月24日、千駄ヶ谷駅前派出所、代々木駅前派出所
10月15日、荻窪駅前派出所
11月21日、大阪三井物産ビル
12月26日、京都市東山区の韓国学園移転予定地反対住民居住区
76年1月6日、京都市左京区の平安神宮(放火)
77年1月1日、京都市上京区の梨木神社本殿
2月21日、中村屋ビル内東急観光(大阪市北区)
3月8日、北海道警旭川方面本部
5月2日、東京大学法文1号館
6月30日、世田谷区代沢の三井アルミ社長宅
10月27日、渋谷区の神社本庁1階ロビー
11月2日、京都市下京区の東本願寺太師堂

メンバーについて

大道寺将司

1948年釧路市生まれ。釧路湖陵高校に入学した頃からデモに積極的に参加。高校卒業後、2年間大阪・釜ヶ崎や東京で活動を続けた後、法政大学に入学した。まもなく「法政大学クラス闘争委員会」を結成、太田竜の「窮民革命論」やチェ・ゲバラの思想に影響を受け、武装闘争を目指した。70年安保闘争に敗北した大道寺は法大を中退、同委員会を解散した後、山谷で日雇い労働者として働きながら、爆弾闘争を志向していった。71年はじめ、片岡、あや子と「東アジア~」結成。故郷の釧路郊外で爆弾実験を行なった後、A級戦犯の碑やアイヌ像などを爆破した。73年10月、「狼」結成。その後、大道寺に共鳴をした人間が「大地の牙」、「さそり」を結成した。逮捕時は雑誌販売会社勤務。死刑が確定している。

太田竜

1930年樺太生まれ。46年、16歳で共産党に入党。東京理科大学に入学するが中退している。革共同分裂の後、「関東トロツキスト連盟」(後の日本トロツキスト同志会」、「第四インターナショナル日本委員会」)を組織。アイヌ解放運に動力を入れ、連続企業爆破の「東アジア反日武装戦線」などにも影響を与えた。74年にはアイヌの英雄・シャクシャイン像の台座を傷つけたという容疑で、指名手配され、自ら警察に出頭して逮捕された。この指名手配は、東アジア~の黒幕とされたからだった。だが直接の関係は立証されず、早々とシロとわかった。83年、エコロジー運動から発展した「日本みどりの党」結成に参加、参院選に立候補した。近年は「太田龍」と名乗り、ユダヤ人に関する陰謀論などの著作がある。

大道寺あや子

将司とは釧路湖陵高校の同級生である。と言っても、当時はまだそんなに親しい間柄ではなかった。あや子はがり勉タイプではなかったが、成績はトップクラス。3年時にはオールAをとり、卒業生の総代として答辞を読んだ。当時、競争率25倍だった星薬科大(品川区)に無試験で入学し、授業料値上げ反対闘争などに参加した。その頃、将司と再会し、同棲するようになった。卒業後は新宿区内の病院で薬剤師として勤務。将司とは結婚し、アパートで2人質素に暮らしていた。メンバー間では「浅川」という偽名で呼ばれていたが、これはあや子が浅川マキが好きだったからである。逮捕時に勤務していた会社の社長は彼女を評して「日本女性の美徳をすべて備えた女性だった」と話した。逮捕直後の写真を見ると、確かにわりと綺麗で、とても爆弾闘争しているような女には見えなかった。ちなみに逮捕時にメンバーが所持していた青酸カリは、あや子が勤務先からくすねてきたものである。77年、日本赤軍によるダッカ事件で、出国。現在も国際手配中である。

片岡利明

1948年東京生まれ。12歳の時に母親を亡くし、父親の再婚相手との関係は良いものではなかった。中学生の時に教会に出入りするようになり、洗礼を受けた。熱心に活動し、その頃は教会がほとんど生活のすべてだった。開成高校から2浪して法政大学入学。その後、教会ベ平連を結成し、バプテスト教会改革運動を行なう。全共闘運動を経て、大道寺将司と出会った。将司に爆弾製造について教えてもらってからは、元々理系ということもあって製造の中心的役割を持った。後に姓を「益永」に。死刑が確定している。

佐々木規夫

1948年小樽市の呉服行商人の末っ子として生まれる。小樽潮陵高校では社会科学研究会に所属。一橋大、北大の入試に失敗し、2年ほど家業を手伝った。72年頃から斉藤と行動をともにし始める。74年に四谷公会堂で上映された「アイヌシタッピリ」という映画で顔を合わせた将司に勧誘される。将司とは以前に「朝鮮革命研究会」などで顔を合わせていたことがあった。以後、足立区の自室の床下で爆弾製造を行なう。公判中の75年、日本赤軍によるクアラルンプール事件で、出国。現在も国際手配中。

斎藤和(のどか)

1948年室蘭市生まれ。室蘭東高校時代は生徒会長を務め、トップの成績で卒業。東京都立大学人文学部哲学科に進学後、アナキストグループ「東京行動戦線」に参加、学生活動家となる。69年、アナキズム関係の出版を行なう「麦社」で庶務を担当。また語学テープ会社「テック」争議にも加わり、そのなかで浴田と出会う。71年に大学を中退し、友人の佐々木を通じて大道寺将司に会い、何度かの話し合いで同棲していた浴田由紀子とともに東アジア反日武装戦線への参加を表明した。逮捕の日、所持していた青酸を飲み自殺している。

浴田由紀子

1950年山口県長門市の農家の長女として生まれる。県立大津高校から北里大学衛生学部入学。卒業後は新宿の診療所で臨床検査技師として働き始めた。大学卒業直後はポナペ島の独立運動を進めていたミクロネシア人と同棲、「結婚してミクロネシアに行く」と言っていたが、恋人は1人で帰国してしまった。71年初夏に渋谷駅前でのハンスト中のテック闘争「テックの解雇撤回闘争」に遭遇し、斎藤和と出会う。74年6月から2人は世田谷区松原で同棲を始めた。公判中、日本赤軍によるダッカ事件で釈放されるが、95年3月にルーマニアで身柄を拘束され、日本に強制送還された。

黒川芳正

1948年生まれ。本籍は仙台だが、父親の転勤などで各地を転々とする。山口県立宇部高校を卒業後、東京都立大学文学部哲学科に進学。佐々木とは同じ大学で同じ年だが、入学は1年遅れている。中核派の活動家となった黒川は67年の佐藤訪米阻止闘争、68年にはエンタープライズ闘争で検挙されている。中核派からは離れたが、安田講堂の落城を見て武力闘争を決意した。佐々木を通じて大道寺将司に会う。74年に「さそり」を結成し、宇賀神らとともに企業を爆破。事件後、「『反日武装戦線』に加わったのは軍人だった父の罪ほろぼしだった」と語った。無期懲役が言い渡された。

宇賀神寿一

1952年目黒区生まれ。高校時代から部落解放運動に関わる。明治学院大学社会学部に入学したのち、授業値上げ反対闘争、73年冬には山谷地区の日雇い越冬闘争に参加、グループに加わっていった。公判では無期懲役を言い渡された。

荒井まり子

1950年宮城県古川市生まれ。両親はともに高校教師。父親は組合活動に、母親は松川事件救援活動に関わるなど、日本共産党員らが出入りする家だった(もっとも日共は、荒井逮捕後、『娘を人殺しにした教師はいらない」と宣伝カーで実家に押しかけるなどした)。古川女子高校から法政大学に進学。大道寺将司、片岡は大学の同級生である。高校時代から全共闘シンパだった荒井は、入学してまもない頃、すでにヘルメットをかぶり、バリケードの中にいる気合の入った大道寺を見かけ、話を聞きに行ったのが2人の出会いである。大学は中退して、将司らと行動を共にするが、生真面目で融通のきかない荒井は合理性を追及する片岡とは対立しがちだった。結局、本人に武装闘争をやる決心がつかないまま73年3月に故郷の仙台に戻り、東北大医療技術短大に進んだ。これは佐々木の指示で、爆弾原料用の塩素酸素系除草剤を調達するためだった。懲役8年を言い渡され、獄中で知り合った男性と結婚。87年に出所後は福祉関係の仕事に従事。

東アジア反日武装戦線

当時、過激派グループが分裂と対立を繰り返すなか、「東アジア反日武装戦線」は既成セクトの枠に縛られない「黒ヘルグループ」の代表的な1つとされる。

「東アジア~」は70年に大道寺将司を中心に結成。沖縄やアイヌ、東アジアへの日本による侵略史を検討するなかで、独自の「反日思想」を持っていた。それは支配層だけではなく、市民や労働者をも日本帝国主義の構成分子と捉える点と、テロリズムを容認する点だった。

「企業こそ帝国主義的侵略の元凶である」

そしてその後、旧財閥系や海外進出企業を狙っていった。

「東アジア~」は「狼」「大地の牙」「さそり」の3部隊からなる。この3部隊はリーダーが連絡を取り合うだけで、メンバー同士の付き合いはなかった。部隊の思想もそれぞれ微妙に異なるものだった。

最も過去の日本の過ちについて深刻だったのは黒川らの「さそり」だったと言われる。間組は戦前、木曽川水系工事と猪苗代沼倉水力発電所工事で朝鮮人労働者を虐待したから攻撃し、鹿島建設については秋田県花岡で中国人労働者を虐殺(※花岡事件)したことの報復として狙った。

花岡事件とは

1945年6月30日、秋田の花岡鉱山で、約850人の中国人が決起、日本人補導員4人と裏切った中国人1人を殺害して、集団脱走した事件。強制連行により、花岡川改修工事を請け負った鹿島組事業場などで働かされたが、酷使と虐待により蜂起した。だが極度の栄養失調と疲労のため逃走に失敗、1週間後には全員が捕らえられた。その後、100人近くが死亡したとされる。この事件では、極東軍事裁判で責任者3人に絞首刑、8人に終身刑が言い渡されている。だが当時の鹿島組事業所長は、戦後鹿島建設の重役に収まった。

斉藤らの「大地の牙」は、1922年に信濃川水力発電所で朝鮮人労働者が大量に虐殺されたため大成建設を攻撃した。そして大道寺夫妻ら「狼」は、アイヌ人や朝鮮人に対する行為の原罪意識が最も目立たないとされた。彼らが狙ったのは「軍需で儲け、いまだに権力と癒着した大企業グループ」の三菱重工だった。

また部隊名の由来については次のように語っている。

「日本の資本主義の発展によって絶滅させられたニホンオオカミ。そのさまは資本家に苦しめられている被抑圧民衆と同じだ。またニホンオオカミは外敵には集団であたり、群れがバラバラになっても最後まで戦う」(狼)

「人間の生活は大地に根ざしている。こうした生活では国家も資本家もないのが理想の世界だ。大地が国家や資本家におって大衆から奪われそうな時、牙をむいて反撃する。われわれはその牙となって戦う」(大地の牙)

「サソリは小さな体で大きな敵を倒す猛毒を持っている。自分らの小さな組織も建設資本を倒すことができる毒を持っていることを示そうとした」(さそり)

三菱重工事件後、実行犯がなかなか特定されなかった要因に、彼らは特定のアジトを持たず、昼間は平凡な会社員を装っていたことにある。三菱重工爆破事件の時は、勤務先の昼休みを利用しての犯行だったし、逮捕時も彼らは勤めに向かうところだった。

大道寺将司と片岡が74年3月頃に作った図入りの爆弾教本に「腹腹時計」(週刊誌大 36P)がある。これを作ったのは、当時メンバーが大道寺夫妻、片岡のみになってしまったことから、自分たちの思考を公に知ってもらい、新たな仲間を迎える狙いもあった。そしてこの小冊子によって佐々木(と斎藤)というメンバーを獲得している。

「都市ゲリラ兵士の読本」とされるこの教本の内容は次のようなものだ。

・表面上は、極く普通の生活人であることに徹すること。(そう思わせることだ)
・近所付き合いは、浅く、狭くが原則である。最低限、隣人との挨拶は不可欠である。
・別に明確な目的を持たずに現在の職場に就いている場合、組合などで極左的に、原則的にゴリ押ししないこと。経営者はすぐにタレ込みをする
・居住地、職場とも共通なことは、極端な秘密主義、閉鎖主義に陥らぬことと、左翼的粋がりを一切捨て去る、ということである。
・家族との関係をことさらに絶つ必要はない。ベタベタする必要は全くないが、ある日突然連絡を絶つことは、余程の事情がない限り止めた方がいい。
・マスコミ・トップ屋との関係は、一切合財止めるべきである。「赤衛軍」とかのドジ踏みの例を引用するまでもないであろう。
・ゲリラ兵士は酒を飲まぬ。酒は平常心を失わせ、羽目をはずし、油断を生じ易くする。これは、ゲリラ兵士にとっての最大の敵である。特に、何人か集っての酒盛りは厳禁である。

実際、「東アジア~」のメンバーはこの教本に基づいて、仕事を持っていた。彼らは一見して過激派に見えず、髪を短くし、こざっぱりした服装、生真面目なサラリーマンのようだった。彼らは給料の半分ほどを出しあって活動資金としていたため、質素な生活をこころがけていた。(だが皮肉なことに、逮捕の端緒となったのもこの小冊子からだった)

これは他グループの活動家の教本としても好評らしく、民族派右翼が複写して仲間に配布したり、売りさばいていた。また教本には「狼」の考え方について、次のようにまとめられている。

1,日本国家は朝鮮、台湾、中国大陸、東南アジアなどを侵略支配し、国内植民地としてアイヌモシリや沖縄を同化吸収してきた。われわれ日本人はこのような帝国主義国家を支えてきた帝国主義者たちの子孫である。
2,われわれは、敗戦後開始された日本国家の新植民地主義侵略支配を許し、黙認し、旧日本帝国主義者たち(官僚、資本家)を復活させた帝国主義本国人である。
3,現在の日本の「繁栄と成長」は植民地人民と血と屍の上に築かれたものである。日本は今、その上にさらなる収奪と犠牲を強制している。われわれ帝国主義本国人の「平和で安全な豊かな小市民生活」とは、そのような犠牲の上に保障されたものである。
4,したがって日帝本国における労働者の「賃上げ」や「待遇改善」などの闘いは、第三世界人民にさらなる収奪と犠牲を強制し、日本帝国主義を強化、補完する帝国主義労働運動である。
5,「経済的、技術的、文化的」協力の名で第三世界に派遣される者たちや、妓性観光などに出かける者たちは、すべて第一級の侵略者である。日帝本国の労働者、市民は第三世界人民と日常不断に敵対する帝国主義者、侵略者である。
6,日帝の手足となって無自覚に侵略に加担している日本の労働者が、そのような帝国主義的な利害や生活をさらに拡大するための「革命」などはペテンである。
7,日帝本国で唯一革命的に闘っているのは日雇労働者である。
8,アジアの人民は多様な形で日本帝国主義と闘いつづけてきたが、われわれ日本人はいつも日和見主義をきめこんできた。ベトナム革命戦争においてわれわれは、日帝本国中枢でわれわれ自身のベトナム革命戦争を闘うべきであったのに、その闘いをさぼった。逆にベトナム特需によってわれわれは経済的に潤ったのである。
9,われわれ日帝本国人民の唯一の緊急任務は、市民社会から許容される闘いではなく、法と市民社会からはみだす闘い=非合法の武装闘争を開始することである。そうしてみずからの逃げ道を断ち、身体をはって自己の反革命性(帝国主義本国人性)におとしまえをつけねばならない。
10,日本帝国主義の侵略、反革命は過去のものではない。それは現代史そのものである。
11,日本帝国主義と闘いつづけてきた東アジア人民の革命闘争史が復権されなければならない。
12,われわれ”狼”は、東アジア人民の反日帝闘争に呼応し、かれらの闘いに合流することをめざして武装闘争を闘う。
13,われわれは東アジア人民の反日帝闘争の伝統の上に形づくられる日帝打倒のための共同戦線を東アジア反日武装戦線と仮に名づける。われわれ”狼”はこの戦線に参加する一舞台である。
14,われわれ”狼”の主要な任務は、たとえば新旧帝国主義者を抹殺し、帝国主義企業を攻撃し、彼らの財産を没収することである。

過激な思想ではあるが、彼らは関係のない人の命を奪うのは本意ではなかったという。実際、大規模な爆発が起こった三菱重工事件の時は、爆発8分前に「予告電話」を入れている。電話はまずビル管理室に入れたが、前述したようにいたずら電話だと思われ切られた。2回目の電話は三菱電機のビル管理室に入れたが、ここでも同様だった。3回目の電話は三菱重工の受付に入れた。この電話に出た女性は「この予告は本物」だと直感し、上司の庶務課長に電話で判断を仰いだ。上司は彼女に庶務課まで来るように命じ、彼女がエレベーターに乗っている間に爆発は起こった。

ニュースで死者が何人も出たのを知った「狼」はひどくショックを受けたという。予告電話をかけた佐々木に対して、片岡が「本当にかけたのか!」と責める場面もあった。この事件後、メンバーは爆発の威力を抑えること、じゅうぶんな予告時間をとって予告電話するようにした。

お召し列車爆破計画

逮捕からしばらくした頃、メンバーの自白から恐るべき計画も初めて判明した。「虹作戦」と名づけられた74年8月14日の天皇皇后両陛下の暗殺計画である。「戦前の天皇制イデオロギーの復権を許さない」というのが彼らの主張だった。

リーダー格の大道寺将司の供述によると、同日の午後11時ごろ、那須御用邸から帰京される両陛下のお召し列車(5両編成)が、荒川鉄橋を通過する予定だった。周辺の警備は万全だったが、橋脚部分は盲点となっていたため、メンバーは塩素酸系爆弾を鉄橋の橋脚付近しかけようとしたが、3、4人の男が見張ってるような気がしたため断念して帰ったのだという。ただ「自己顕示欲の強い大道寺の証言は信用できない」という見方もある。

 彼らの爆破はまだある。「狼」の前身部隊が関わったもので、負傷者などは出なかった。
▽1971年12月12日、熱海伊豆山にある東条英機ら7名のA級戦犯者を殉国の志士として「殉国七士の碑」。
▽1972年4月6日、鶴見総持寺内にある日本人殖民の慰霊堂。
▽1973年10月23日、アイヌ侵略を正当化するものとして、旭川市の常磐公園内「風雪の群像」のうち1体を爆破。また同夜、札幌市の「北大北方文化研究施設」を爆破。この日はアイヌ・レジスタンスの英雄・シャクシャインの命日だった。

この4件について、「かつての日本帝国主義指導者に対する断罪および被抑圧民族のアイヌ人に対する自分らの祖先の罪ほろぼしが第1の目的だった」とメンバーは供述した。

この4件の爆破事件に関わり、指名手配となる前の75年6月13日に郷里の長野で、元法大生・藤沢義美(25歳)が車内に排気ガスを引き込んで自殺している。「父さん母さん許して下さい」という遺書があった。

判決とその後

74年12月25日、11の企業爆破事件についての統一公判が行なわれた。メンバー達は西川潔裁判長に人定訊問に対して、次のように答えている。

▽浴田由紀子「革命戦士です」「職業は東アジア反日武装戦線兵士」「本籍は全世界人民共和国です」

▽黒川芳正「東アジア反日武装戦線兵士です。以下答えません」「我々は刑事被告人ではない。日本国に裁判をする権利はない」

▽片岡利明「統一裁判になるまでの明確な理由を示さなければ裁判に応じない」

▽大道寺将司「地裁は裁判の遅れについて謝罪しろ」

▽大道寺あや子「女性3兵士を男子の懲役監に入れている扱いは不当だ」

こんな調子で公判は進行していったのだが、午後には被告らが裁判長の制止を聞かず発言を続けたため、大道寺将司、あや子、黒川、荒井、そして弁護士が退廷を命じられている。その後の公判でも荒れることが多く、傍聴人ら17名が退廷を命じられている。

1975年8月4日、日本赤軍、クアラルンプールのアメリカ大使館、スウェーデン領事館に人質をとり占拠(クアラルンプール事件)。彼らの釈放要求により、日本赤軍、連合赤軍の共産同赤軍派を源流とするグループメンバー6人と、なぜかそれらのグループとは関わりのない佐々木が指名される。そうして佐々木は出国を希望した他5人とともに日航機でクアラルンプールに送られた後、リビア入りした。

8月25日、東京地裁・西川裁判長、公判を3分割とする。(翌年、裁判長は蓑原茂広氏に代わる)

1976年3月2日、北海道庁で爆発起こる。2人が死亡、95人が重軽傷。「東アジア反日武装戦線」の声明文が見つかる。

1977年9月28日、日本赤軍のハイジャック事件(ダッカ事件)により、浴田由紀子と大道寺あや子は「超法規的措置」で釈放され出国、日本赤軍入りした。佐々木とあや子は現在も国際手配中である。

1979年11月12日、東京地裁・内藤丈夫裁判長は、大道寺将司と片岡に死刑、黒川に無期懲役、協力者・荒井に懲役8年を言い渡す。

この日の午後3時16分、中央区銀座の郵政省東京南部小包集中局の1階配送場で、郵袋内の小包が爆発。トラック積み込み作業をしていた日本郵便逓送社員2人が重傷を負った。この消化器爆弾には「反日武装戦線」「アジア」という釘でひっかいたような跡があった。

1980年5月、三菱重工爆破事件がきっかけとなり、「犯罪被害者等給付金制度」が公布された。

1982年7月13日、この日、板橋区内で「さそり」の宇賀神寿一(当時29歳)が逮捕される。手配から7年が経っており、髪は禿げ上がり、顔つきも弱弱しくなるなど、30代半ばから後半くらいに見え、手配書の写真と比べてかなり年をとった印象があった。

宇賀神逮捕の決め手となったのは公安部の取った1枚の写真に偶然写りこんでいたことだった。宇賀神は3月まで「高橋則保」と名乗り新聞販売店で働いていたが、同僚も店主も気づかなかったという。

1982年10月29日、東京高裁、大道寺将司、片岡の控訴棄却。

1983年5月16日、「反日~」のメンバー逮捕後に続いていた神社・企業などへの爆弾事件で、元「部族戦線」のリーダー・加藤三郎(当時34歳)と太田早苗(当時32歳)が逮捕される。加藤は9件について自供した。

1985年3月、東京地裁、宇賀神に無期判決。1987年3月24日、最高裁で大道寺将司、片岡の死刑確定。

1989年9月、大道寺将司らは「殺意は認定は誤り」として第一次再審請求を行なう。(1991年2月、棄却)これは、三菱重工爆破の時、同社に電話をかけたが、本気にされず切られたことや、予想外の爆発の威力、凶器と化した割れたガラス片などは予想していなかったとするもので、同社を攻撃したが社員殺害は考えていないとするものだった。

1990年2月、最高裁、宇賀神の上告を棄却。

1991年、第1次再審請求は最高裁で退けられる。

1993年、第2次再審請求。

1995年3月20日、日本赤軍として活動していた浴田由紀子がルーマニアで身柄拘束。24日逮捕。11月に第1回公判が再開される。

2006年11月、東京地裁は大道寺将司と益永(片岡)の第2次再審請求を棄却する決定。

北海道庁爆破事件

1976年3月2日午前9時2分頃、札幌市中央区の北海道庁1階ロビーのエレベーター付近で消火器改造爆弾が爆発し、職員である男性(50歳)と女性(45歳)の2人が死亡、95人が重軽傷を負った。

同日午後、市内の地下鉄大通駅のコインロッカーから「東アジア反日武装戦線」の声明文が見つかる。

9月6日、この爆破事件の容疑者として大森勝久(当時27歳)が逮捕された。大森は「反日~」にシンパシーを感じていたが、犯行を否認した。

大森は「岐阜大時代、社会の底辺で生きる人々に関心を持ち始めた。教職が内定していたがそれを捨てて北海道へわたり、爆弾闘争の準備をしていたときに、道庁爆破事件の実行犯として逮捕された」と冤罪を訴えている。

1983年3月29日、札幌地裁で死刑判決。

1988年2月21日、札幌高裁、控訴棄却。

1994年7月15日、最高裁、上告棄却。大森の死刑が確定した。判決では大森が仲間と共謀して実行したとされたが、その仲間が何者かは判明していない。

2007年3月19日、再審請求審で、札幌地裁は請求を棄却。半田靖史裁判長は「確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じるとは到底認められない」と判断した。