小平義雄連続殺人事件(小平事件)

戦後の食糧難に、食べ物をエサに女性を誘い出した卑劣な連続強盗強姦殺人事件

1946年8月17日午前11時ごろ、東京都芝区(現港区)の増上寺境内の雑木林、女性の全裸の腐乱死体と白骨遺体が相次いで発見された。

その後、腐乱死体の身元が、当時行方不明となっていたA子さん(17歳)であることが判明した。

まもなく「職を世話する」と言って、この女性を呼び出していた小平義雄(当時42歳)が逮捕された。

小平は前年から46年にかけて、何人もの女性を強姦・殺害していたことを自供した。

事件の経緯と犯行の動機

1946年8月17日午前11時頃、東京都芝区(現港区)の増上寺の一角にある西向観音山の笹やぶで、死後約10日が経過した全裸の女性遺体があるのを伐採作業員が発見した。

女性は首に細く引き裂いた布が巻きつけられており、強姦されたうえ殺害されたものと見られた。さらにこの遺体から20mほど離れた場所に、死後約1ヶ月の白骨化した女性の遺体があった。

現場付近は「闇の銀座」と、当時デートコースとして知られていた。この2人の女性の人相などはすでにわからなかったが、服装などから若い女性と見られた。

まもなく全裸で死んでいた女性の家族が「自分の娘ではないか」と名乗り出た。

母親によると、娘のA子さん(17歳)が仕事を探しているのを知った「小平義雄」という男が、「クチを紹介してやる」と住所を交換し、1946年8月4日に彼女の自宅を訪ねて一泊しており、母親とも会っていたことが分かった。

話によると、進駐軍食品部で就職試験を受けさせるということだったが、母親は「あの男はくわせ者だから心を許してはいけない」と娘に言ったという。

同月の6日朝、A子さんは黒区の自宅を出たまま帰らなかった。このことから母親は男に会いに行ったが、「試験の日に来なかった」と言った。

その後、小平義雄(42歳)は自宅にいたところをあっさり発見された。小平は芝高浜町の米軍兵舎内洗濯所で働いており、渋谷区羽沢町に妻子と住んでいた。彼には殺人と窃盗の前科があり、同僚からは「女癖が悪い」との証言もあった。

そして、8月19日、小平は愛宕署に連行されると、小平はA子さん殺しに加え、さらに10件の暴行・殺人を自供した。

犯人・小平義雄の生い立ち

最初の殺人(女子挺身隊・B子さん21歳)

小平は1903年(明治36年)に栃木県都賀郡日光町大字細尾で生まれた。宿屋を営む両親の6番目の子どもだった。

小学校卒業後、18年に上京。食料品店の店員、工員見習いなどをした。その後、地元に戻り、製鋼所に勤めた。

19歳の時、志願して横須賀海兵団に入隊。6年間の軍隊生活をおくった。

このとき、練習艦でオーストラリア、ヨーロッパ、旅順、上海を巡り、この間に娼婦を買うことを覚え、セックスを初体験したという。また、集団強姦をやったことや、上官にカミソリで切りつけたことが2度あることを告白した。(しかし、監獄を出る頃にはなぜか三等機関兵曹として勲八等旭日賞を受けている。)

28歳の時に勤めていた工場長の姪(当時21歳)を紹介され結婚。

しかし4ヶ月後に妻が田植えの手伝いに実家に戻ったきり帰らなかった。これは小平が18歳と21歳の女性と浮気をして、子どもを産ませていたことを妻の親が知り、離縁させようとしていたからだった。

小平は妻の実家に押しかけ、義父を鉄棒で殺害、他の家族6人にも重傷を負わせた。小平28歳の頃の事件である。この事件で懲役15年を言い渡され服役した小平は、2度の恩赦もあって40年に仮出所した。

その後、ボイラーマン、サイパンでの飛行場建設の仕事などをして、1944年に知人の紹介で知り合った女性と再婚した。もちろん前科のことは隠していた。

1945年2月には長男が誕生。子どものことはとてもかわいがっていたという。

同年3月には空襲があって妻子を富山に疎開させた。

この当時、小平は第一海軍衣糧廠(女子挺身隊「悟空林」の寮)でボイラーマンとして働いていたが、この女子寮には日本女子大、共立女専の女学生たちが多く寄宿していた。

女子挺身隊とは大日本帝国が第二次世界大戦中に創設した勤労奉仕団体のひとつで、主に未婚女性によって構成されていた。戦時日本の労働力が逼迫する中で、強制的に職場を配置換えする国家総動員法下の国民総動員体制の補助として行われ、工場などでの勤労労働に従事した。1944年8月の女子挺身勤労令によって12歳〜40歳の内地(日本)の女性が動員された。日本統治下の朝鮮の女性への適用は検討されたが、適用されることはなかった。1945年の国民勤労動員令によって女子挺身隊は国民義勇隊として改組され、消滅した。

wikipedia「女子挺身隊」の項より引用

小平の下に5、6人の助手がいて、彼らからの評判は良くなかったが、女性には親切だったので、女性の副寮長などは「悪いことができない内気者」と彼のことを見ていた、とのことである。

この寮内で、下士官や将校が女性と性交するのを目にしていた。あくまで小平の供述によるもので本当かどうかは不明だが、隊員の女性がボイラー室にやって来て、小平に馬乗りになったということもあったという。

5月22日か23日、以前から目をつけていた生の女性B子さん(21歳)が、盲腸の手術で入浴できないため小平からお湯をもらって体を拭いた。小平はボイラー室を出て、扉の穴からこれを覗き見し、関係を持ちたいと考えた。

5月25日昼、B子さんが「郷里に帰ります」という旨を伝えにボイラー室にやって来た。この当時、寮生たちの大部分は疎開していて寮内はがらんとしていた。B子さんも一旦疎開したが、手術のため上京した。

小平は自室に戻ったB子さんを追いかけ、部屋に入ると、彼女は髪を梳かしていた。

「私の言うことを聞いてくれないか」と、小平は性交を迫ったが、「おじさん、冗談を言わないでよ」と言って立ち去ろうとしたので、両手で首を絞めた。この時、小平は苦しむ女性の顔を見て、ひどく興奮したという。

煙草をふかしてB子さんが意識を戻すのを待ち、しばらくして蘇生すると、B子さんは観念して衣服を脱ぎ、関係を持つに至った。しかし、発覚を恐れた小平はまたも首を絞めてB子さんを殺害した。そして遺体を防空壕に隠した。

その晩(25日)は東京大空襲があった。3月20日以来の空襲で、渋谷区の小平宅は罹災し、小平は妹夫妻と身の周りの荷物をリヤカーで運び、知人宅に避難した。この後、小平は妻の疎開先に向かったが、再び上京して遺体を遺棄した防空壕の様子を見に行ったこともあったという。

B子さんの遺体は6月に発見され、小平は呼び出されて聴取を受けるなどしたが、敗戦のうやむやで捜査は立ち消えとなったことで、小平はこの後も犯行を重ねることとなった。

その後も繰り返された犯行の数々

小平は「性欲旺盛な、野獣のような男」と言えるが、見た目は精悍で、わりと紳士的なところもあった。食糧、職を求めていた女性は次々と彼の毒牙にかかることになった。

小平はAさんを強姦した後、殺害したことを自供し、さらに、A子さんを含む10件の強姦殺人についても自供した。

ちなみに、6・8・9度目の事件については、一審で証拠不充分により無罪とされており、似た手口の迷宮入り事件を小平に押しつけたという批判もあったらしい。ただし、9度目の事件については逮捕直後に被害者の服装などについて詳しく話すなど、彼が関与した可能性は極めて高いとされており、また、小平の手記によると、殺害した10人の他に30人ほど強姦したとされる。

最初の殺人(女子挺身隊・B子さん21歳)

1945年5月25日、寮の女子隊員B子さん(21歳)を殺害。

2度目の殺人(主婦・Cさん30歳)

(2)6月23日、東武鉄道新栃木駅で人妻(31歳)に「この近くに知り合いの農家がある。そこへ行けばいくらでも米が買える」と声をかけ、県内の山中に連れこんだ。途中、女性が不審に思い帰ろうとすると、ここで迫った。女性は「私は人妻だし、そんないやらしいことは絶対ダメです」と拒んだが、構わず強姦。小平は未明までに3度犯したのち絞殺。現金70円と腕時計を奪った。遺体は9月10日に発見された。

3度目の殺人(会社員・Dさん22歳)

7月12日、食料買い出しのために渋谷駅で乗車切符を買おうと並んでいた横浜市の会社事務員(22歳)を、「米を安く売ってくれる農家がある」と栃木県真名子村(現・西方町)の山林に誘い出し、強姦。済んだ後、女性は小刀のようなものを取り出し、小平につきつけたが、これを奪い取り、馬乗りになって絞殺。現金40円入りの財布と腕時計を奪った。

4度目の殺人(会社員・Eさん22歳)

7月15日、イモの買い出しに行くため武蔵野電車池袋駅で並んでいた女性会社員(22歳)に、「どちらに買い出しに行かれるのです。私も500円持って買い出しに行きたいのですが、初めてのところでは売って貰えないでしょう」「すぐ買える知り合いのところに連れて行ってあげます」などと声をかけた。小平は3日前の犯行発覚を恐れ、妻の疎開先の富山に向かう途中だった。この女性は胸を病んでおり、ガリガリに痩せていた。小平は武蔵野線清瀬駅(清瀬村)からしばらく歩いた雑木林に彼女を連れこみ強姦、絞殺。現金60円と下駄1足を奪った。遺体は11月5日に白骨死体となって見つかった。

5度目の殺人(会社員・Fさん21歳)

9月28日、食料買い出しで、先輩の女性を東京駅山手線ホームで待ち合わせしていた出版社会計係の女性(21歳)に対し、「行ったら懇意な農家がある。イモはいくらでも買えるから一緒に行こう」と声をかけ、清瀬村に連れこみ強姦・絞殺。現金300円と、物々交換のために持って来ていた縮緬洋服を奪った。この女性は兄が戦死していたため、先輩と靖国神社に行くはずだった。遺体は11月1日に発見された。

6度目の殺人(無職女性・Gさん17歳)

11月1日。イモ買い出しのため渋谷駅で乗車券を買おうと並んでいた世田谷区の女性(17歳)に「暖かい場所に来なさい」と渋谷・東横デパート地下室に連れこみ、暴行・絞殺。現金20円余りを奪う。

7度目の殺人(無職女性・Eさん19歳)

12月29日、東武線浅草雷門駅で同じく電車に乗りこんだ女性(21歳)に声をかけ、栃木県西方村の山中で強姦・絞殺。現金130円入りの財布とリュックを奪った。

8度目の殺人(女子高校生・Fさん15歳)

1946年6月9日、小平が時折パンやソーセージを与えていた顔見知りの国民学校高等科2年の少女(15歳)に「ビスケットをやる」と言って、運送会社の廃品自動車置場に連れこみ、菓子を与えてから情交を迫った。しかし嫌がられたため、強姦・絞殺。遺体をトラックの下に隠した。その4日後、トラックが燃え、少女の遺体が発見される。

9度目の殺人(被害者不明)

7月22日、知り合った女性に「銀座方面に遊びに行こう」と誘い、増上寺境内の観音山の雑木林で、暴行・絞殺。46年8月に見つかった白骨死体の事件。被害者の身元はついにわからなかった。

10度目の殺人(A子さん17歳)

6月18日、品川駅で友達と都電を待ち合わせていたA子さんに声をかけ、パンをあげた後に「就職を世話する」と誘い、6日に増上寺でおちあい、草むらで一緒に弁当を食べている時に乳房が見えたので欲情し、雑木林で強姦・絞殺。増上寺内で全裸で発見された事件。A子さんは銀座の喫茶店に勤めていたが、店は閉鎖することになっており、次の職探しに懸命だった。小平は声をかけた時に本名を名乗っており、逮捕につながった。

犯行の動機

小平は自分の犯行について、次のように語っている。

「私が女たちを殺害した理由は、女の死に顔を見て喜ぶとか、死の苦しみを見て喜ぶといったことではないのです。第一には、女は殺さねばいうことをきかない。殺してからゆっくり楽しんでやろうと思うのです。第二には、女を絞めて弱らせると手足を伸ばしてしまいますが、そのとき両方の足を広げて下を見て、それから関係するのがいいのです。第三には、女が死んでから下を見ようという好奇心があったのです。陰部を見る楽しみは今度の犯行以来です。B子以来です。普通のやり方より強姦のほうがいいです。自由になりますから。女を横にして下を見ながら関係しようとする瞬間が、なんともいえないのです。殺されてもいいと思う時があります。日本刀でうしろから首を斬られてもかまいません。そんなによいのです。100%以上です。死体でも同じことです」

判決とその後

1947年6月18日、小平に東京地裁で死刑が言い渡された。その時、小平は顔を赤らめ裁判長におじぎをした。

1948年2月27日、東京高裁、一審支持。さらに同年11月16日、最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した。

死刑執行の半年前、初めて面会に訪れた妻が小平に対して次のように述べている。

「自分が疎開していたばかりに、あなたの世話ができず、このような結果を招いた。あなたの罪の責任は私にあります」

その言葉を受けて、小平の態度は変化をはじめ、自暴自棄な態度を改めて落ち着きを取り戻し、自身の息子について「死刑囚の子どもとして、いじけないように育ててほしい」と妻に頼んだ。

1949年10月5日、死刑執行。享年44。

小平はこの日、6時半に起床。朝食を食べた後、窓の外の秋雨を眺めて、中川玄昭教誨師(当時35歳)に「こういう落ち着いた日に死ねるのは幸福だ」と話した。そして刑務所長に宣告されると、饅頭を食べ、煙草をふかした後、妻に次のような遺言状を書いた。

「自分は荘厳な気持ですべてを清算し、静かな気持で死んで行きます。長い間、お世話になった人々によろしくお伝え下さい。家族の者もどうぞ天命を完うして下さい」

ちなみに、辞世の句も残している。

亡きみ霊 赦し給へし過去の罪 今日の死を待ち 深く果てなん

小平義雄、辞世の句