寿産院もらい子殺し事件

新宿の産院で起きた、虐待による大量殺人事件。

1948年1月、東京・新宿区柳町の「寿(ことぶき)産院」で、100人以上のもらい子が死亡していたことが判明。経営する石川ミユキ(当時51歳)、猛(当時55歳)夫妻は配給品を受け取るために子どもを貰い、ろくに食事を与えていなかった。

事件概要

木箱を運ぶ男

1948年1月15日午後7時半頃、東京・新宿区弁天町で早稲田署員2人がパトロールをしていたところ、自転車に乗って数個のミカン箱を運んでいた葬儀屋N(当時54歳)を見かけた。不審に思って事情を聞き、荷台に積んであった箱を調べてみると、中には嬰児の死体がメリヤスのシャツとオムツに入れられて入ってあった。

「これは寿産院というところから頼まれたもので、火葬場に運んでる最中だ」

Nはそう言い、話によると牛込柳町(現・市ヶ谷柳町)にある「寿産院」から計4体の遺体を運んでおり、前年の8月以来、20体以上運んでいたのだという。

怪しいと睨んだ警察は最近死んだと見られるNが運んでいた6つの遺体を解剖してみたところ、3人は肺炎、2人は凍死、1人が餓死で、6人とも食べ物が与えられた形跡はなかった。 

さらに寿産院を経営する石川ミユキ(当時51歳)、夫の猛(当時55歳)を呼んで取り調べをしてみたところ、同院では大量の子どもが死亡していたことがわかる。まもなく石川夫婦と助手のA子(当時25歳)は殺人罪の容疑で逮捕された。同院から1人500円の埋葬料を貰って遺体を処理していたとされるNは容疑不十分で釈放されている。

犯人の石川夫妻について

ミユキは1897年(明治30年)、宮崎県東諸方郡本庄町で生まれた。県立職業学校を卒業したのち、18歳で上京。東大医学部産婆講習科に入学した。晴れて産婆となったミユキは23歳で猛と結婚、牛込で産院の経営を始めた。
牛込産婆会の会長を務めていたほか、47年4月にはミユキは新宿区議会議員選挙に自民党から出馬したが、落選している。

猛は茨城県生まれ。地元の農学校を2年で中退後は現役志願で憲兵軍曹となり、その後警視庁巡査も務めた。26年に警察を辞めた後はミユキの尻に敷かれながらも、左団扇で暮らすようになる。

事件の経緯

寿産院では44年から、新聞に三行広告を出して食糧難にあえぐ母親たちから1人5、6000円の養育費で赤ん坊を預かってきた。当時、タバコの「ピース」10本入りが7円、NHK聴取料5円、新聞月8円であったことを考えると、取引額はかなり大きいものであった。また預かった子どもは1人300円、器量の良い子どもは500円という値をつけて希望者に売っていた。

敗戦から3年しか経っていないこの年はベビーブームであったが、同時に貧しく、混乱の時代だった。

警察が駆けつけてきた時には院内に7人の子どもがいたが、1人はすでに死亡しており、残りの子どもも冬なのに肌着1枚しか着せられず、泣く力さえないほど弱っていた。

それまでに同院に預けられた子どもは合わせて240人にものぼり、そのうち104人が死亡していた。正確には把握できないため、あくまで推定でこの数字である。あの夜、パトロール中の警察官が葬儀屋を見咎めないでいたら、被害児はもっと増えていただろう。

夫婦は産院を経営すれば政府から乳児用の主食配給が獲得できるため、とりあえず子どもを預かり、食べ物はほとんど与えず、病気になっても放ったらかしにしていた。食事だけではない。風呂にも入れず、親のある子が死亡すると、親のない子が死んだように偽装して配給品を受け取った。そもそも寿産院には多くの子供の面倒を見るだけの人手も、設備もなかったのである。

石川夫婦は受け取った配給品をほとんど横流ししていたという。さらに子どもが死ぬと、葬儀用に酒が貰えた。これをまた横流しするのである。夫婦がもうけた金は100万あまりにのぼると見られる。区役所の職員らに酒をふるまったりして、戸籍手続き、衛生などの取り締まりに対して便宜をはかっていたということもあった。

事件後

生き残った乳幼児たちは親元に帰ったり、養子にもらわれたりしたが、半数ほどは孤児院に預けられることになった。

亡くなった子どもの母親達は事件後、早稲田署に「鬼を殺せ!」 「鬼に会わせろ!」と押しかけた。
一方のミユキは「わたしは誠心誠意やってきた。(預けに来る母親達に)もう少し母乳を飲ませてからでないと死ぬと断っても、無理に預けていってしまう。死ぬのは当然だ」と語った。

泣く泣く子どもを手放した親と、配給制度。戦後直後の食糧難の時代だから起こった事件とも言える。

同じようなことを考える人はいるもので、47年1月には都内に567軒だった産院は同年12月末には768軒になった。2月には新宿区戸塚町の「淀橋産院」が摘発されている。同院は61人の嬰児の栄養不良死があり、「第2の寿産院事件」と言われた。

7月13日、厚生省は「産婆」を「助産婦」に改称。同時に国家試験が設けられ、専門の医学を学ばなければいけなくなった。

また1949年4月30日に避妊薬使用が、同年6月24日には経済的理由による妊娠中絶が認可されている。

裁判

東京地方裁判所は、殺人罪については証拠不十分として無罪とした上で、ミユキに懲役8年、猛に懲役4年、助手は無罪、中山には禁固4年の判決を言い渡した。1952年(昭和27年)4月、東京高等裁判所はミユキに懲役4年、猛には懲役2年の判決を下した。主犯夫婦達のその後は確認できず、寿産院のあった現場は現在空地になっている。

この事件について当時は子供の出生から判断され、世間では「殺されても仕方がなかった」との声もあったが、この反応について評論家の宮本百合子は、1948年1月23日付のアカハタにて「正当な子供、正当でない子供というのは子供にとってどんな区別があることでしょう」と述べていた。嬰児達の遺体は現場近くの宗円寺に土葬された後に無縁塔に移され合葬され、土葬された場所には慰霊地蔵が建立されている 。