三重・熊野一族7人殺し事件

猟銃と斧で暴れだし、家に集まっていた親類など7人を殺害

1980年1月31日夕方、三重県熊野市の農家・池田一通(44歳)が突如、猟銃と斧で暴れだし、家に集まっていた親類など7人を殺害、3人に重軽傷を負わせるという事件が起きた。駆けつけた警察が説得をするも、午後7時ごろ、池田は猟銃で自殺した。

池田一通の生い立ち

1936年、三重県熊野市の農家の家に生まれる。暴力事件を起こし、地元の高校を中退後、家業のミカン栽培を継いだ。この地区は山手にあり、当時は17戸。ほとんどミカン収穫と林業で生計を立てていた。
 
池田は普段はおとなしかったが、前科から恐れられている一面があった。

前科とは以下のようなものである。

  • 20歳の頃(1956年末)、路上に段ボール箱が落ちているのに腹をたて、箱を置いたとして前の家に上がり込み、暴力。傷害事件として罰金2万円。
  • その5年後、トラック運転手をしていて、後ろから来たバスの道をふさぎ、20分の押し問答、暴力。執行猶予付きの懲役10ヶ月という実刑を言い渡された。

結婚した後は真面目に過ごしていた。近所の人たちの話によると、酒も飲まない”おとなしい男”だったという。

しばらくは、和歌山県で土木作業やダンプカーの運転手などの職に就いていたことはあったが、1970年ごろに父親が亡くなり、夫婦でミカン栽培と稲作に従事した。池田方ではミカン畑で3000万を超える粗収入があり、また事件の何年か前からは農閑期に道路工事用の石を割る石工としても働いており、一家の暮らしはこの地区では”中の上”だった。しかし、石工の職業病である振動病に苦しむようになった。月の10日ほど治療を受けるようになる。

振動病(振動障害、白ろう病)は、じん肺、難聴と並ぶ三大職業病の一つ。工作機械など激しい振動を伴う道具を長時間使うことで、手や腕の自律神経に障害が生じ、手のふるえが止まらなくなったり、血行が悪くなって指先が蒼白になったりする。

1973年10月29日、熊野署に散弾銃の使用許可をとり、イノシシやサルなどの狩猟用に使っていた。

1979年5月、中学校の集団検診で、長男の腎臓病が判明する。長男はその後、和歌山市内のの病院に入院し、7月には津市の国立療養所三重病院に移った。次男も肺炎に苦しんでおり、池田は子供たちの病気に悩んでいた。

1980年1月31日、犯行当日

1980年1月31日昼頃、「体がどうも・・・」と池田は仕事を早退し、自宅に帰ってきた。池田は事件の2、3日前から体の調子を崩し、わけのわからないことを言うなど予兆があった。

午後2時、たまたま定期検診でこの無医地区をまわっていた井本医院の井本医師がを呼んだ。しかし、池田は興奮状態で「わしは病気ではない、帰れ!」と怒鳴ったため、とても診察ができるような状態ではなかった。

井本医師は「分裂病のようだ」と言い、猟銃をしまってあるロッカーの鍵をかけておくように指示し、睡眠薬だけ置いて帰っていった。

その後「お父ちゃんがおかしくなった。すぐに来てくれ」と池田の妻・楠美さん(当時38歳)が親類に電話をかけた。すぐに親類が現れ、池田をなんとかなだめていた。

この時、家の中にいた人物は次の通り。

池田
妻・楠美さん(38歳)
次男・忠くん(5歳)
三男・正和くん(4歳)
母・とめさん(80歳)
弟・鉄鋼業の池田寿一さん(38歳)
妹・森本実子さん(41歳)
姉・岡本さなえさん(55歳)
さなえさんの夫・岡本勇左ヱ門さん(58歳)
勇左ヱ門さんの弟・岡本充さん(29歳)

午後5時ごろ、なだめられて、池田も一時落ちついたのか、勇左ヱ門さんとさなえさんと寿一さんがジュースを買いに出かけている。

3人が外出していている間、突然池田が岡本充さん(29歳)の頭に斧を振り落とした。これをきっかけに、池田は次々と親族を襲い、殺した。やがて、買い物から帰ってきた3人も凶弾に倒れていく。

斧で頭部を負傷した充さんは隣家の多川鉄工所に助けを呼びに行った。

知らせを受けた多川半七郎さんは池田宅に走っていくが、家の前に到着した直後、車に乗った勇左ヱ門さんが撃たれるのを見る。多川さん自身も足に銃弾を受けた。池田はこの間、終始無言だったという。

午後5時27分、多川さんの奥さんから熊野消防署に通報が入った。
「オノでケガした人がいる。出血がひどい。救急車を急いで出してください。こちらは多川鉄工所・・・」
不審に思った署員が電話をかけ直すと、先ほどの女性の声が引きつったように言った
「池田一通という男が猟銃を乱射している。ケガ人は何人いるかわからない」

午後6時5分、池田宅を通りかかった近所の人が警察に通報
「池田が酒に酔って、鉄砲を撃ち、ケガ人が大勢出ている。人質をとって家の中に立てこもった」

午後6時20分ごろ、救急隊員が到着したが、池田が家の前で猟銃を抱えて立っていたため近寄れず、茂みの中に隠れていた。

午後6時38分、パトカー2台で8人の警官が、池田宅に到着。池田は狩猟用の銃を持って、家の前に立っていた。

池田のそばにあった2台の車の座席や荷台には5人が血まみれで横たわっていた。警官が近づくと、池田は銃を向けて、立ったり座ったりを繰り返した。

やがて、池田は家の中の玄関脇の6畳間に入ってしまった。警官は5mほどの距離にまで接近し、外から窓ごしに説得を始めた。

「1度、話をしよう。バカなことはするな」
「銃を捨てて、人質を放せ」
 
しかし、池田は返答しなかった。実はこの時、惨劇は終わっていた。人質と見られていた人たちはみんなすでに亡くなっていた。

午後6時50分、池田がいきなり一発猟銃を撃った。

午後7時3分、またも室内で2発発射した。それ以後、物音は絶え、不気味な静けさが続いた。5分後、警官が家の中に突入。池田は頭と腹に猟銃を撃ちこんで、自殺していた。

その後、警官が現場である家の中や周辺を見てまわると、7人もの人間がすでに亡くなっていた。

8畳ほどの広さの離れの玄関で、池田の母・とめさんが倒れており、家の北側にはさなえさんが亡くなっており、玄関前に停めてあった軽トラの荷台には勇左ヱ門さん、もう1台のライトバンの運転席に寿一さん、同じライトバンの後部座席には実子さん、忠くん、正和くんが死んでいた。

ライトバンの後部座席にいた3人はその傷から斧で殺されたものと見られ、あとの3人は猟銃で撃ち抜かれていた。負傷しながらも奇跡的に助かったのは楠美さんと充さんと多川さんだけだった。楠美さんは一時、意識不明の重態。充さんは頭に全治2週間の負傷。多川半七郎さんは足に10日のケガを負った。

事件後

通報で「池田が酒に酔って暴れている」とあったが、池田の死体からはアルコールは検出されなかった。

また、池田が労災不正受給に悩んでいたことも発覚した。1978年12月、熊野労基署から振動病で労災認定を受け、それ以降、療養のために休養する名目で、休業特別支給金を20数万円受け取っていた。その一方でつきに20日ほど働いており、賃金と支給金の2重受給をしていた。

1979年、労基署は各石切り事務所に、一般的な調査のため、帳簿類を提出させた。池田はこれは自分の不正受給に対する調査だと思い、発覚を恐れていたと思われるが犯行の動機は定かではない。