ラストダンス殺人事件

OLは、恋人を殺害した後、40日間その遺体と一緒に暮らし続けた

1983年7月30日、東京・練馬区のアパートから、男性の遺体が発見された。

まもなくこの部屋に住んでいたOL・藤村美葉(当時23歳)が犯行を自供。

遺体は彼女の恋人であった料理店経営者のものだった。

事件の経緯と動機

1983年7月30日、東京・練馬区上石神井のアパートの一室で、鎌倉市の料理店経営・Oさん(28歳)の腐乱死体が発見された。

発覚は「異臭がする」という住人の届出によるもので、その臭いは猛暑が続くにつれてひどくなっていた。

この日、大家が合鍵を使ってOLが入居する問題の部屋に入ったところ、畳をどけた床下に遺体はあった。

死体の上にダイナマイトらしきものがあったということで、当初は過激派のアジトではないかという疑いが持たれ、機動隊も出動した。ジュラルミンがアパートを取り囲み、近隣の住人を避難させたうえで、爆発物の解体作業が始まったのだが、それは赤い玩具だったという。

まもなく部屋の借主であり、Oさんの恋人であった藤村美葉(当時23歳)が犯行を自供。心中しようと思って首を絞めたのだという。

藤村美葉とOさんについて

藤村は1959年に石川県で生まれた。父親は銀行員で、その後川崎、横浜と転居した。鎌倉の高校を卒業した藤村は、横浜市内の大学の文学部英米文学科に進学した。

Oさんは鎌倉市生まれ。高校時代から学生運動に参加しており、生徒会長も務めていた。

2人は大学の映画研究会で出会った。Oさんは在学6年目でリーダー的存在であった。2人きりで伊豆半島にドライブに行った時、Oさんは「成田闘争に関わった」「学園紛争でバリケードを築いた」などと車内で話したのだが、藤村は新左翼的なOさんに好意を持ったのだという。

Oさんは束縛心の強い人間であり、交際相手に1日のスケジュールを出させて、行く先々に電話をして、スケジュール通りかをチェックするところがあった。また、知人に彼女を紹介した時にも、なぜか口にマーガレットの花をくわえさせるという変な演出までしていた。この時、藤村は口に花をくわえたままだったので、一言も話せなかったという。Oさんはこの知人に「あいつは育てればいい女になるよ」と話していた。

翌春、大学を出たOさんは、左翼系の公害防止機器製造販売会社に勤めた。他にも自然保護運動に関わるなどもしていたが、これは社会に出ても”闘争”を続けていくんだという決意の表れだった。

この年、映画研究会で作った映画で、藤村が主役をつとめることになったのだが、キスシーンがあるということで、OさんはOBという立場から映画をやめさせようとした。このことで藤村は初めてOさんに逆らい、喧嘩をしたという。

藤村は結局、この一件で映研をやめ、喫茶店などでアルバイトをするようになった。とは言え、藤村の供述によると、喧嘩もしたが、この時が一番幸福な時期だったという。

「寂しさ」

この年の夏、Oさんは藤村の実家に行き、両親に彼女との結婚を申し込んだ。だが藤村の父親からは「娘はまだ学生だから、卒業してからでも…」と言われ、帰された。

1982年1月、Oさんは祖母のやっていた料理屋を継ぐことになり、会社を辞めた。それはすなわち、それまでの信念的な行動から遠ざかることであり、この頃からOさんはやや精気を失った。そしてそんな彼に藤村の心は離れていくようになり、結婚をする気持ちも消えていった。

藤村は大学卒業後も、学生時代から始めた新橋の日本リクルートセンターでアルバイトを続けていた。そして夏ごろからは、藤村はOさんを避けるために会社の同僚の家に泊まったり、ディスコで過ごすようになった。

その後、9月にはようやく別れ話をきり出したが、Oさんの方が納得せずに関係はずるずると続くことになった。

11月、Oさんが「もう1度会いたい」と言ってきた。久々に会ったのだが、この時もOさんは結婚を申し込んだ。

もうすでに幻滅していた藤村は、そのことを映研の先輩であったBさんに相談した。Bさんはアルバイトをしながら映画作家を目指している人で、藤村にとっては精気を失ってしまったOさんよりも、彼の方が魅力的に映った。そして相談しているうちに関係をもつようになり、交際が始まった。

この年の暮れ、藤村は実家を出て、石神井にアパートを借りた。藤村にとってはOさんとの思い出を振り切るためのものだった。当時Bさんと交際していた藤村は、このアパートで半同棲の生活を始めたが、翌1983年1月に別れた。平凡な家庭生活を求めた藤村に対して、Bさんが去っていったためである。

これ以後、藤村とOさんは事件まで5ヶ月のあいだ、ずるずるとした関係を続け、Oさんにアパートの鍵も渡していた。

Oさんはカメラマンやルポライターという道も模索していたが、記事が採用されず、どうも結果が出ず、学生時代のような輝きは失われているように見えた。

事件直前、1人暮らしだった藤村は、たまに人恋しくなって電話ボックスに行くのだが、気がついてみると電話をするような友達もいないことに気づいたという。そんな時は、仕方がないので117番の時報にかけていた。こうした行動は後の精神鑑定(中田修鑑定)で離人症とされた。

この寂しさを埋めるために、藤村は会社の上司数人とも関係をもった。そしてそのことをOさんにも話していたのだが、この時の様子を藤村は「彼は力なく笑うだけで、そんな彼を見るのが嫌だった」と後に話している。

そして6月16日、藤村はアパートに来たOさんに対して、「もう来ないで欲しい」「合鍵を返して欲しい」と切り出した。これは深夜に車をとばしてやって来て、自分は翌朝に仕事に出なければならないのに、食事を作らなければならず、睡眠時間が減っていたためであった。

あきらめない男と、一度は拒絶しても受け入れてしまう女の関係は、2人をボロボロにし、やがて悲劇を生んだ。

ラストダンス

事件当日の6月18日、藤村は部屋を訪れたOさんとまず池袋の西武デパートに行き、美術展などを見た。

その後、石神井公園を散歩。6時ごろにアパートに戻ってから2人で食事をしながら酒を飲み、ラジオの音楽を聴きながらダンスを踊り、そしてお互いの体を求め合った。

午前0時過ぎ、藤村は眠っているOさんの首を、前の住人が置いていった電話のコードで絞めて殺害した。

自分も鎮静剤を飲んだり、手首を切ったりして自殺を図ったが、死に切れなかった。父の日だということを思い出したためであった。母親と一緒に買っておいたプレゼントを父親に渡すまでは死ねないと思ったのだという。

朝になって、藤村は床下に遺体を入れて横浜に戻った。21日にはアパート近辺に止めてあったOさんの車を逗子駅付近に放置、所持品はゴミ捨て場などに捨てた。この日、Oさんの母親が捜索願を出していた。

7月22日、Oさんの車が発見された。バードウォッチングという趣味を持っていたため、山で迷ったのではないかとも思われたりもした。

藤村は事件が発覚するま7月末まで、そのまま40日間遺体を放置し、一緒に暮らし続けた。

判決とその後

同年10月から始まった裁判では、弁護側は「犯行当時、心神耗弱状態にあった」と主張していた。

第5回公判で精神鑑定が採用され、東京医科歯科大学の中田修教授は次のような鑑定結果を出した。

「2人の恋愛関係は、通常の恋愛関係よりも、宗教における教祖と信者の関係、あるいは双生児の一部に生じるような特異な同一化が進行していた」

中田教授は心神耗弱が認められるとしたが、「執行猶予の必要はない」ともした。

1985年1月22日、東京地裁は藤村に懲役9年を言い渡す。

同年11月28日、東京高裁は一審よりも軽い懲役7年を言い渡した。

ちなみに、2008年には本事件を基にした映画『砂の影』(甲斐田祐輔監督・脚本)が制作・公開されている。