スナックママ連続殺人事件

中年女性を連続で殺傷…母親の面影を追い求めた末の犯行か

スナックママ連続殺人事件とは、1991年(平成3年)12月に兵庫県・島根県・京都府で発生した連続殺人事件。

少年時代に殺人を犯し、懲役刑に処された前科のある男・西川正勝(当時35歳)が、スナック経営者の女性4人を相次いで殺害し、被害者の金品を奪った。

西川は連続殺人4件(強盗殺人事件3件・殺人および窃盗事件1件)を起こした後、翌1992年(平成4年)1月に逃亡先の大阪府大阪市天王寺区内で逮捕されたが、その直前には強盗殺人未遂1件(被害者は女性落語家・桂花枝(現・桂あやめ))を起こした。

逮捕前から一連の連続殺人4件は警察庁により「警察庁広域重要指定119号事件」に指定され、逃走中の強盗殺人未遂事件も広域事件として追加指定されている。

事件の経緯と動機

1991年12月24日、島根県松戸市のスナックで、経営者のAさん(55歳)の遺体が発見された。

直接的な死因は首を手で絞められたことによる窒息死であったが、その他にも、胸を鋭利な刃物で刺された状態であった。

また、店の現金が奪われていたことも判明した。

翌25日、今度は兵庫県姫路市のスナックで、経営者のBさん(45歳)の遺体が発見された。

さらに、27日には京都市中京区のスナックで経営者のCさん(55歳)、28日にはCさんの店から300mほど離れた場所にあったスナックで経営者のDさんの遺体が発見された。

警察は、犯行手口が類似していたことから、同一犯とみて捜査を開始した。

その後、警察は現場に残された指紋から西川正勝を指名手配し、同事件を「警視庁広域重要指定119号」とした。

翌年1月5日、大阪市中央区に住む落語家の桂花枝(事件後、桂あやめを襲名)の首を絞め失神させ、現金14万円を強奪する事件が発生した。

その後の記者会見で、桂さんは「意識が戻ったら犯人がまだいて、タバコを一本吸い終わったら立ち去った」と語っている。

1月7日の午前、西川は大阪市天王寺区のマンションに潜伏していたところを逮捕された。

6日の夜、西川は逮捕現場となるマンションに住む母子2人で暮らすEさん宅に侵入していた。

そして、金を奪おうとEさんの首を絞めたが、Eさんが「何をするの!」と叫び、その声で長男が目を覚まし泣き叫んだため、一旦手を離した。

しばらくして、西川は再び首をさらに強く絞めたが、このときも長男の泣き声で思いとどまったという。

犯行を断念した西川は、Eさんに自らの名を名乗り「つまらないことをした。悪かった」と謝罪した上で身の上話をし、何度も「人を殺してきた。もう自殺するしかない」と言ったという。

しかし、Eさんに「付き添ってあげるから自首しなさい」と徹夜で繰り返し説得されたため、西川はこれに観念し、朝になって「自首する」と言い、自首に応じた。

逮捕後、西川は「桂やEは自分の生い立ちを真剣に聞いて同情もしてくれた。熱心に自首するよう勧められ『捜査も厳しいし、もう捕まってもどうなってもいい』と思った」などと供述した。

また、逮捕直後は殺人4件についていずれも犯行を認め、動機を「金が欲しくてやった。金を奪うためには女1人のスナックを狙い、ママを殺してでも奪うことしか思い浮かばなかった」と自供したが、公判では一転して態度を硬化させ、大阪の事件以外は触れることを避けるようになっていった。

西川正勝の生い立ち

1974年、西川が18歳の時、好意を抱いていたスナック経営者の女性を殺害し、刑務所に10年間服役していた。

そして、1984年に退所してから、わずか2ヶ月半後に強盗事件を起こしており、懲役7年の判決を受け、1991年に出所している。

本事件は、そのわずか2カ月後に起こった連続殺人事件だった。

わずか17日間で4人もの命を奪うという蛮行であったが、その被害者全員に共通するのが「自分の母親ほどの女性」ということだった。

西川は幼いころに母親と死別しており、「母親の面影を追っての犯行ではないか」と言われている。

判決とその後

西川は起訴後、2度にわたって拘置所内で自殺を図っていた一方、公判では「身に覚えはない」と犯行を全面的に否定した。

1995年9月11日、大阪地裁は西川に死刑判決を言い渡した。

1998年1月21日、大阪高等裁判所(角谷三千夫裁判長)で控訴審初公判が開かれたが、西川はAさんの事件(殺人・窃盗事件)について第一審における全面否認から一転して「自分がやった。間違いない」と犯行を認めた一方、「犯行直前の飲酒で事件当時はかなり酔っていた。責任能力はない」と無罪を主張した。また、B・C・Dさんらの強盗殺人3件と桂への強盗殺人未遂事件に関しては第一審と同様に「現場にいなかった」「殺意はなかった」などとして無罪を主張した。また同日、弁護人は「Aさんの事件の犯行当時、西川は心神喪失か心神耗弱状態だった」として責任能力を否定する旨を初めて主張し、西川の精神鑑定を請求した。

控訴審は2000年12月15日の第15回公判(河上元康裁判長)で結審し、西川の弁護人は最終弁論で改めて無罪を主張した。

2001年6月20日に控訴審判決公判が開かれ、大阪高裁(河上元康裁判長)は第一審・死刑判決を支持して西川の控訴を棄却する判決を言い渡した。

西川は控訴審判決を不服として同日付で最高裁判所へ上告した[126]。被告人Nは2004年時点で9年間ほど収監先の大阪拘置所内にてデイビッド・T・ジョンソン氏(『アメリカ人のみた日本の死刑』の著者)と交流しており、ジョンソン氏宛の手紙で殺害を認めている被害者1人への祈りや同階に収容されていた少年の社会復帰を願う心情などを綴ったほか「これまで死刑を宣告された本人にしかわからない恐怖を味わいながら過ごしてきた。大罪を犯した者とはいえ、同じ拘置所にいた人が(今までに十数人)執行されるのを目の当たりにする度に『死』について深く思い知らされている」と述べていた。

2005年6月7日、最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)は一・二審の死刑判決を支持し、「半月の間に4人もの命を奪っており、安易に凶悪犯罪に及ぶ傾向が認められる上、社会に与えた影響も大きい」として上告を棄却、西川の死刑を確定した。

そして、2017年7月13日、西川正勝の死刑が執行された。(享年61歳)

なお、西川は死刑執行までに計10回にわたって再審請求を行っていた。