松川事件

2020年08月

米兵目撃者が謎の死、非情の鉄道テロも20人全員が無罪となり未解決事件に

松川事件は、1949年(昭和24年)8月17日に福島県の日本国有鉄道(国鉄)東北本線で起きた列車往来妨害事件。日本の戦後最大の冤罪事件に挙げられる。

下山事件、三鷹事件と並んで第二次世界大戦後の「国鉄三大ミステリー事件」のひとつといわれており、容疑者が逮捕されたものの、その後の裁判で全員が無罪となり、真犯人の特定・逮捕には至らず、未解決事件となった。

犯行の経緯や動機

三鷹事件から約1か月後の1949年(昭和24年)8月17日午前3時9分頃、福島県信夫郡金谷川村(現・福島市松川町金沢)を通過中だった青森発上野行き上り412旅客列車(C51形蒸気機関車 133号機牽引)が、突如脱線転覆した。

現場は、東北本線松川駅 – 金谷川駅間のカーブ入り口地点(当時は単線。複線化後の現在では下り線)であり、先頭の蒸気機関車が脱線転覆、後続の荷物車2両・郵便車1両・客車2両も脱線。機関車の乗務員3人(49歳の機関士、27歳の機関助士、23歳の機関助士)が死亡した。

現場検証の結果、転覆地点付近の線路継目部のボルト・ナットが緩められ、継ぎ目板が外されているのが確認された。

さらにレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、長さ25メートル、重さ925キロのレール1本が外され、ほとんどまっすぐなまま13メートルも移動されていた。周辺を捜索した結果、付近の水田の中からバール1本とスパナ1本が発見された。

下山事件、三鷹事件に続く鉄道事件として世間の注目を集め、事件翌日には内閣官房長官の増田甲子七が、三鷹事件などと「思想底流において同じものである」との談話を発表した。

捜査当局はこの事件を、当時の大量人員整理に反対し、東芝松川工場(現・北芝電機)労働組合と国鉄労働組合(国労)構成員の共同謀議による犯行と見て捜査を行った。

事件発生から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、松川事件についての取り調べを受けた。

少年は逮捕後9日目に松川事件の犯行を自供、その自供に基づいて共犯者が検挙された。9月22日、国労員5名および東芝労組員2名が逮捕され、10月4日には東芝労組員5名、8日に東芝労組員1名、17日に東芝労組員2名、21日に国労員4名と、合計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕・起訴されたが、無実を示すアリバイなど重要な証拠が捜査機関により隠されていたことで、死刑判決から5回の裁判を経て逆転無罪で確定した。

その後

1950年(昭和25年)12月6日の福島地裁による一審判決では、被告20人全員が有罪(うち死刑5人)、1953年(昭和28年)12月22日の仙台高裁による二審判決では17人が有罪(うち死刑4人)、3人が無罪となったが、裁判が進むにつれ被告らの無実が明らかになり、作家の広津和郎が中央公論で無罪論を展開した。

また宇野浩二、吉川英治、川端康成、志賀直哉、武者小路実篤、松本清張、佐多稲子、壺井栄ら作家・知識人の支援運動が起こり、世論の関心も高まった。

1959年(昭和34年)8月10日、最高裁は二審判決を破棄し、仙台高裁に差し戻した。検察側の隠していた「諏訪メモ」(労使交渉の出席者の発言に関するメモ。使用者側の記録者の名から、これが被告達のアリバイを証明していた。)の存在と、検察が犯行に使われたと主張した「自在スパナ」(松川駅の線路班倉庫に1丁あった)ではボルトを緩められないことが判明した。(警察による証拠捏造の疑いあり)

1961年(昭和36年)8月8日、仙台高裁での差し戻し審で被告全員に無罪判決。

1963年(昭和38年)9月12日、最高裁は検察側による再上告を棄却、被告全員の無罪が確定した。判決当日、NHKは最高裁前からテレビ中継を行い、報道特別番組『松川事件最高裁判決』として全国に放送した。

無罪判決確定後に真犯人追及の捜査が継続された形跡はなく、1964年8月17日午前0時、汽車転覆等および同致死罪の公訴時効を迎えた。

被告たちは一連の刑事裁判について国家賠償請求を行い、1970年8月に裁判所は判決で国に賠償責任を認める判断を下した。

手紙

1958年11月、被告側弁護団の一員だった松本善明宛てに、「私達は現犯人」(原文ママ)と記した手紙が届いた。宛名は「東京弁護士会館内 松本善明殿」となっている。

(1枚目)
突然のお手紙失礼致します 先日松川事件第三回口頭弁論が終わりましたが実は約十年前私達七人にて事件を起した其の一人ですが今裁判を受けてゐられる被告の方々には当時の事件以来今日迄十年本当にお気の毒と思います私達七人が自主しない為に最高裁まで裁判を持って行かれましたが私達の自首する日が近づいて来ました■■又、最高裁の成行きを私達は今守って見て居りますのでどうか其れ迄現被告の方々に申し譯御座居ま也んが頑張って下さい私達と、かはって晴れる日が近い日に来ます、其れ迄私達七人を社会に置いて下さい
 私達七人の内三人は名古屋、二人は前橋、二人は岡山に現在います鉄道関係、東芝工場関係はぜんぜん関係ありません(諏訪メモ)で対立して居ますが其も関係ありま也ん
ので私達七人を代表してお知らせします―――

(2枚目)
私達七人は弁護側、又起訴した検察側又最高裁も重大な責任があり、私達は現犯人なので現在裁判に関係してゐるどれにも、私達は賛成しておりま也ん又、最高裁も一審二審とならって判決を下そうとしております、起訴しました無実の被告を裁判にかけた検察側が一番重大な責任があり、被告を受け持つ弁護側も、あっけないところがあると思います私達七人が現、社会にいるとしらず、回覧で事実調べを終わるなど、最高裁も私達七人にいは也れば、あっけない最高裁と思います、私達は福島列車転覆事件を実際にやった私達今、被告として裁判に付されている方々本当に申し譯なく思います、私達七人が自首する迄もう外のこと思はず気を大きく持つ日を送ってほしいものです勿論事件にはたしかに道具はつかっておりますが出所については自首して後に致します事件には当時の共産係二名に関係して居りますので自首するまで申也られませんが自首後申すことに致します
 私達が自首しない為にこのような最高裁判になった結果について日本人として本当に私達七人は申し譯なくおもいますどうか、七人が自首する迄お詫びいたします

(3枚目)
 松本弁護人様へ 私達は突然お手紙をだす事に七人で致しましたので十年後の今日松本様へ私たちが犯人であることを自首し現在の被告の方々には本当に申し譯なく詫びる気持ちで一杯です、だが私達は、今最高裁の出方を見守って自首する日をきめております、無罪である現被告を起訴した検察側、また私にいわせれば弁護側にも幾分の手おちがもありいずれにしても私達が自首する迄どうか現被告の弁護をお願ゐします、自首する日は二日前に手紙にて松本様にお知らせすると共に弁護人十数人をともなって、お公い致します、それ迄宜しく
 住所は自首するまでそのままにしておいて下さい
  日本人として正しく裁かれる日を待つ日、近く自首する私達七人に栄あれ
十一月十六日 日曜日

※封筒の裏面には「愛知県名古屋市熱田区丸高出」とあった。
※誤字などはママ。「せ」の字は「也」という漢字に見える。

「私達七人にて事件を起した其の一人ですが今裁判を受けてゐられる被告の方々には当時の事件以来今日迄十年本当にお気の毒と思います」などとあることから、事件に関わったのは7人で、名古屋(3人)、前橋(2人)、岡山(2人)にいるとし、さらに「共産係二名に関係して居ります」と記されていた。また、手紙が愛知県名古屋市熱田区から出されたことが封筒の裏面に記載されていた。

弁護団はジャーナリストなどとこの手紙を調査し、名古屋市熱田区の旅館で書かれた可能性があることを突き止めた。

手紙の筆者は、年齢当時35歳以上、高等小学校卒、文章をほとんど書かない、肉体労働に従事、東日本出身(東北地方か北海道)で、若いころから外国で生活していたという人物像が浮かんだ。

事件当時、松川駅の方から歩いてくる9人の背の高い男が目撃されており(『にっぽん泥棒物語』で映画化)、「真犯人」からの手紙の人数と一致し、手紙の信用性を「決定的に高めた」としている。手紙を受け取った松本は「これは本物だ」と第一印象を述べている。