妻木松吉事件

1926年(大正15年)から29年にかけて、都内で「泥棒除けには犬を飼いなさい」「戸締りは厳重におこないなさい」と親切?にも忠告して、金を奪う強盗事件が相次いだ。

逮捕されたのは西巣鴨の左官・妻木松吉(当時29歳)だった。

事件の経緯と詳細

その男は真夜中に静かに家に侵入し、電球をはずし、煙草をふかしながら寝ている主人の枕元に座った。主人が人の気配で目を覚ますと、懐中電灯とナイフを持った男は「もしもし」と声をかけた。

「実はのっ引きならぬ事情で、金の必要に迫られ、夜中お眠い所に参上した次第です。寝ている所を甚だすみませんが、少々金を恵んでは戴けませんか」

 驚いた主人が家にある金を渡しても、男はすぐには立ち去らない。

「あなたの家は、どうも暗すぎる。これでは強盗に入られ易いですよ」
「泥棒除けには犬を飼いなさい」
「くれぐれも戸締りは厳重にお願いしますよ」
「私が去ったら、すぐに警察にお届けになるべきでしょう。電話線は切ってあります。ここからは○丁目に交番があるはずです。では、さようなら」

男はやわらかな口調で防犯対策について説教し、やがて消えていくのだった。

1926年(大正15年)から29年(昭和4年)にかけて、このような強盗事件が続いていた。犯人は一向につかまらず、警察の他に、青年団や在郷軍人が自警団までつくるほどだった。

この強盗犯に対して、朝日新聞・三浦守(のちに作家・三角寛)は「説教強盗」という名をつけた。これは一躍流行語となり、国会でもこの問題について取り上げられたほどだった。まさに「怪盗ルパン」を地でいく、この強盗犯に対して拍手を送る者までいた。

一方、金持ちは犬を飼い始め、一時犬の値段が急騰することになった。

1929年2月23日、説教強盗はついに捕らえられた。西巣鴨の左官業・妻木松吉(当時29歳)だった。

妻木松吉について

松吉は1901年に山梨県市川大門町で生まれた。母親が獄中で産み落としたのである。幼くして父親とは死別し、母の再婚先で育つ。小学校を卒業すると奉公に出た。

1920年、松吉は奉公先の牛乳配達店で店の金をごまかしたとして、懲役8ヶ月を言い渡され、半年ほど甲府刑務所に入っていた。

出獄後は関東大震災直後の東京・小石川豊川町で左官修行を始め、25歳で結婚しているが、復興景気が終わると仕事にあぶれることが多くなった。

妻子を食べさせるために、松吉は26年(大正15年)頃から強盗を始める。最初に入ったのは池袋81番地の女性方だった。それからも、「人を殺さず、傷つけず」をモットーに、犯行を重ねつづけた。びっくりさせるようなこともせず、ひっそりと佇み、家人が起きるのを待っていたのもこのためだった。

侵入した家は未遂を含んで、小石川、本郷、中野、杉並などの城北地域中心に100件、奪った現金は計5000円ほどにもなった。ちなみに当時の大卒の初任給は50円ほどである。

模倣犯

説教強盗が世を賑わしていた頃、「説教強盗2世」なるものも登場した。

女流評論家・三宅やす子、歌人・下田歌子方などを7軒を荒らした岡崎秀之助(当時36歳)である。岡崎は松吉とは違い、小田急線沿線などの地域の、有名人宅に狙いをつけていた。1929年2月6日に、デパート松坂屋に入った際に捕まっている。

また横浜でも1928年12月に同じような手口が9件起こっており、松本儀七(当時37歳)が逮捕された。「東京中を騒がしている説教強盗の真似がしたかっただけだ」と供述。

逮捕

1929年2月23日、警視庁の8人の刑事達は、西巣鴨にある長屋建て松吉宅を、保険のセールスに化けて訪れた。刑事たちが松吉に目をつけたのは、3年前に被害にあった上板橋の米屋に指紋が残されていたからだった。

刑事たちはあらかじめ隣りの部屋にも「ごめんください」と訪れていたので、奥の部屋で新聞を読んでいた松吉は保険のセールスマンと思い、怪しまなかった。
 
刑事に取り押さえられた松吉のふところからは、盗品の金鎖り付腕時計、小判2枚、八角型腕時計、ダイヤの指輪などが出てきた。

「なぜうちの人が連れていかれるの」

銭湯から帰ってきた妻と2人の子ども達は、彼が説教強盗だったとは気づいておらず、そう泣き叫んでいた。

連行された松吉は取り調べに対して、なんでも素直に答え始めた。強盗58件、窃盗29件、強盗傷害2件、婦女暴行1件。松吉はこれだけの犯行に関わっていた。

説教をしていたのは、逃走に適当な明け方までの時間かせぎと、被害者の方にも落ち度はあったと自覚させるためだったという。

毎日、新聞を読み、どの地域なら捜査陣が手薄かも調べてから出かけた。犯行日の2~3日前は、ターゲットとなった家の周囲の地理を徹底的に調べた。

犯行は夕方から翌未明のあいだに行なわれ、侵入時と逃走時では服装を変えるなど慎重だった。強盗しに、家を出るときには妻に「徹夜の仕事になる。近頃は物騒で泥棒が多いから気をつけろ」と言っていたという。

奪った金は主に生活費に使い、幼い子どもに玩具を買ってやったり、よく行っていた浅草公園の乞食にめぐんでやったりもしていた。

ある日には説教強盗が逆に家人に説教されたということがあった。下落合のある家に忍び込んだ時である。

「君も好きや、道楽で強盗をしているんじゃあるまい。真人間の生活をしなければ、だめだよ」

松吉は明け方まで主人にお茶をご馳走になり、5円札をもらって出ていった。

判決とその後

1930年、東京地裁・神垣秀六裁判長、松吉に無期懲役を言い渡す。控訴せず、刑は確定となった。

秋田刑務所での松吉は稀に見る模範囚だった。

1948年、新憲法公布にともなう恩赦を受けて仮出獄。松吉は以前侵入した家が、空襲で焼かれているのを目の当たりにして、「2度とあんなことはしたくない」と思ったという。その後は防犯の講演などをしたり、免囚保護事業に携わったりした。