三崎事件

1971年12月21日夜、神奈川県三浦市三崎町で、一家3人が殺害されるという事件が起こった。

現場から飛び出して来て、車で逃走した男が目撃されており、5日後、横浜で寿司店を経営する荒井政男(当時44歳)が逮捕された。

事件の経緯と動機

1971年12月21日夜、遠洋マグロ漁港として知られる神奈川県三浦市三崎町の船舶食料品店で、店主Kさん(53歳)と妻(49歳)、その娘(17歳)の3人が男に襲われ、刺殺されるという事件が起こった。

Kさんは船舶に品物を積み込んだりする商売を手広くやっていた。

Kさんは1階の事務室のソファの前でメッタ刺しにされており、妻は浴室で同じように刺され即死に近い状態。娘は階段付近で胸を刺され、向かいにある食堂に助けを求めたところで倒れ、運び込まれた病院で死亡した。犯行に使われた凶器は刃渡り約20cmほどの刃物と断定された。

2階窓から逃げのびた中学生の息子・M君は無事で、彼が唯一の犯人の目撃証人となった。

午後11時頃、M君は事務室の戸締りをして1人ぶらぶらしていた。そこへ裏口の鍵の壊れたシャッターを開けて、「お父さんいるかい」と男が1人入ってきた。その時、Kさんは留守だったのでその旨を伝え、ソファで2人話して男は「父さんや母さんは元気か」「以前会ったことがある」などと話していたが、M君はこの男の顔に見覚えはなかった。

そのうちにKさんが帰宅してきて、「珍しい人が来たな」と男と話し始めたので、M君はそろそろ寝ようと2階に上がったのだが、数分もたたないうちに、階下で悲鳴が続けておきた。M君が飛び起きて部屋を出ると、ちょうど姉も部屋から出ていた。階段の下からは、先ほどの男がものすごい勢いで駆けあがってきて、M君は窓から飛び降りて、向かいの食堂(焼肉店)に助けを求めた。

向かいの食堂にいた人たちが駆けつけると、現場から「犯人はいないよ。逃げたよ」と言って出てくる不審な男をを見つけた。男は逃走したが、目撃者のなかに顔見知りがおり、5日後逮捕された。その日は町中を警察の広報車がまわって「犯人逮捕」をスピーカーから流して走った。

逮捕されたのは横浜市金沢区で寿司店を営む荒井政男(当時44歳)。仕事の関係で、三崎に土地鑑があった。

逮捕の途中、浦賀署前で走行中の車にはねられ、頭部に8針縫う怪我を負ったが、簡単な手当を受け、三崎署に移され取調べを受けた。その日の夕方には犯行を認めた。

荒井政男について

荒井は13歳で金沢市の絹織物問屋に丁稚奉公に出たのをはじめ、いくつか職をかえて、36歳で三崎町で魚屋をはじめ、横浜店も開いた。

だが37歳の時に車の事故で、身体障害第二種四級者となった。足が不自由になり、引きずって歩くようになった。

事件当日21日は娘の18歳の誕生日であった。だが娘は高校2年生になる少し前から、学園紛争にまきこまれ、学校をサボるようになった。さらには家にも帰ってこなくなる。荒井は川崎や、横須賀などをあてもなく悪い足を引きずって探し回った。運良く見つけることができたこともあり、そのたびに家に連れて帰ったのだが、娘はまた家出をした。

結局、娘は学校を退学。荒井は横浜店の魚屋を寿司屋に改装して、家族一緒に働きたいと考えていた。この寿司屋は繁盛した。けれども娘は戻らない。

犯行当日、この日も三崎まで娘を探しに来ていた。三崎という町は、よく知っていた土地だが、娘は見つからなかった。そこでこのあたりで食事をしようと、Kさん方の向かいにある食堂で酒を飲み、かなり酔っ払った。そしてKさんの店の前で寝こんだりしていた。

やがて夜遅くになり、車内で休んでいたところ、近くで悲鳴が聞こえ、Kさん方のシャッターから男(真犯人と見られる)が飛び出してきて逃げていくのを見た。Kさんとは面識があったので、心配になり、店をのぞいた。するとKさんが殺されているのを発見、驚いて出てきたところを、駆けつけた人達から犯人呼ばわりされ、逃走した。

その夜1時ごろ、荒井は知り合いの店を訪れたが、「妻が帰り遅いと心配するから」と、知り合いに頼んで「10時ごろからこの家にいる」という電話をかけてもらった。これはアリバイ工作と指摘された。

そして事件のあった翌日、荒井は生命保険に加入。これはKさんの死を目のあたりにしてあわてて入ったものだが、裁判所では逮捕直後に車にはねられたことと合わせて、「処罰を避けて、自殺して家族に金を残そうとした」とされた。

判決とその後

荒井は捜査段階で被害者の冥福を祈ったりしたが、一審の公判の途中からは無罪を主張した。

1976年9月25日、横浜地裁横須賀支部、死刑判決。この有罪認定の最大の論拠は、犯人を目撃したM君の証言である。犯行直前、1階事務室を訪ねてきた男と約10分間会話を交わしたが、その人物と包丁を持って追ってきた男は同じ人で、それが荒井と同一人物と証言した。

調書によるところの荒井の犯行はだいたい次のようなものだ。

荒井は娘を探しているうちに、店が経営不振となり、年末近くのためKさん方に100万円を借りに行った。
 すると断られたうえ、
「冗談じゃない。1万や2万なら貸してやるけども…」
「乞食みたいなこと言うな!」
などと言われ、頬を平手打ちされたため激高、護身用に持っていた小刀で首、胸、背中を刺し、殺害。さらに犯行の発覚を防ぐために、入浴中の妻、2階から様子をうかがっていた長女をも殺害した。

二審は1977年5月に初公判があり、判決までに7年以上という長期審理となった。というのも、この事件は冤罪ではないのかという見方も出てきたからだ。

返り血の問題

3人をメッタ刺しにしたのなら、まして服も着ていなかった妻を刺したなら、相当量の返り血を浴びるはずである。荒井は現場から出てきて車で逃走したが、車内には米粒大の血痕があっただけであった。車内の血痕はA型で、KさんもA型なのだが、荒井自身も同じ血液型で、以前に怪我をした時についたと考えてもおかしくない。

またトランクに入っていた大工道具袋にも、Kさんと同じ型の血痕が付着しており、一審では唯一の物証として強調されたが、二審では道具袋が新聞紙の束などに埋もれた状態で入れられていたのに、新聞紙には血痕が付着していないことが指摘された。

足跡の問題

現場には血だまりを踏んだのであろう、血のついたゴム長靴の足跡が入り乱れて残されていた。この長靴のひとつは、少なくとも2種類あり、おそらく犯人のものと、事件後駆けつけた救急隊員のもの。

古沢清吉東大講師(整形外科)の鑑定では、荒井の両足は後遺症により曲がったまま固定され、一定の角度以上に曲げることができないとの結論。これは検察側が申請した横浜市大・西丸与一教授、腰野富久助助教授による鑑定でも追認された。荒井の足は、右足が左足よりも短くなっているので、歩く時はガニ股歩きとなってしまう。

こうした歩き方の特徴が、現場の足跡に残っているか、東工大・平沢教授に鑑定を依頼したところ、「現場の足跡痕はきわめて正常な歩行能力を持った人間のもので、被告人の歩き方とは一致しない」という結果が出た。ちなみに現場の足跡は25.5~26.5cmだが、荒井は27cm。

指紋の問題

現場には多数の指紋が残されていた。だが風呂場の焚き口付近の「ファンタ」の空き瓶にそれらしい指紋が付着している以外は、荒井の指紋は出てこなかった。これは午後7時頃、つまり事件の4時間ほど前に、Kさんの店に立ち寄っていて、その時にもらったもので、この点は裁判でも認定されている。だが殺害現場となった事務室あたりでは、荒井さんの指紋は一切出ていない。この事件は計画的犯行ではなく、衝動的犯行であるとされているのに、指紋が出てこないというのはおかしいのである。

目撃証言

M君は犯人と見られる男が、雑談中、煙草を吸っているのを見ている。その煙草の吸殻は現場写真にも写っていたのだが、なぜか警察の方で行方不明となってしまった。血液型も明らかにされていない。

またM君は「男はものすごい勢いで階段を駆け昇ってきた」と証言していたが、障害を持つ荒井とは、まったく一致しない。

凶器の問題

荒井は娘を探している時に、娘の仲間に取り囲まれて暴行を受けるということがあった。それ以来、護身用に「繰り小刀」を持ち歩いており、それが犯行の凶器と見られた。だが被害者の刺し傷には20cm以上のものがあるが、荒井の繰り小刀は刃渡り13.8cmほどのものだった。

判決

1984年12月18日、東京高裁、控訴棄却。

1990年10月16日、最高裁、上告棄却。

1991年1月、弁護団が再審請求提出。

2009年9月、荒井が病没。享年82。

2010年3月18日、横浜地裁横須賀支部は、荒井の所持品である大工道具袋に付着した血痕が被害者のものと一致するかというDNA鑑定を行うことを決定した。(弁護側は荒井本人の血液であると主張)

その後、鑑定結果により、大工道具袋の血液のDNAは荒井のDNAとは異なることが判明し、荒井や弁護側の主張は否定された。