森安秀光九段刺殺事件

棋聖のタイトルを獲得したこともある強豪棋士・森安九段が息子に刺殺されたとされる事件

1993年11月23日、西宮市にある自宅で森安秀光九段(当時44歳)が殺されているのを妻(当時40歳)が発見。妻が警察に通報しようとしたら、後ろにいた息子A(当時12歳)が包丁で切りかかり、逃走する。

翌日24日、Aは警察に保護された。

事件の経緯と動機

森安秀光棋士

1949年、瀬戸内海に浮かぶ笠岡諸島のひとつ北木島に生まれる。幼い頃、一家を挙げて島を出て、将棋の世界に入っている。秀光の実兄はこれもプロ森安正幸六段である。秀光、正幸は船乗り父親の英才教育を受けてきたが、同じ本を読みかじってきたのか3人とも同じ戦法だったという。

1962年、森安は藤内金吾八段に師事した。兄弟子に内藤国雄九段がいる。

森安は中学卒業後、奨励会に入りパン職人として働きながら修行を続ける。4年後、四段へ昇進、晴れてプロ棋士(三段までは奨励会)になった森安は新人戦に三度優勝。関西に森安あり、と謳われた。

1978年、長女誕生

1981年2月、長男A誕生。この頃、森安は全盛期を迎える。

1982年、最多対局賞と最多勝利賞を獲得。

1983年、第四二期の棋聖位決定五番勝負に挑戦。中原誠棋聖にあっさりニ連敗したあと、持ち前の粘りで三連勝、念願のタイトルを手にしている。その粘り強い棋風から転んでも起きあがる「だるま流」との愛称を得る。

1984年、谷川浩司名人に挑戦するも敗退し、以後頂点を極めた森安の将棋人生は落日の色を深めていく。

1986年、A級からB級一組に降格。1987年、B級二組に降格。

負けがこむと、イライラしてくるようになった。家に届く将棋雑誌も自分の記事があまり取り上げられなくなり、読まなくなった。気分転換と頭のトレーニングとして囲碁に凝っていた。

しかし、それも一時期でやがて碁会所にも行かなくなった。家にいることが多くなり、ファミコンで遊ぶことも多かった。酒が好きな森安は昼間から酒を浴びるように飲むこともあったという。

1991年、B級一組に復帰。

事件のあった1993年にはリーグ戦4勝3敗で4位につけていた。またこの年、「息子のため」と中学に将棋部を設けて、自ら顧問になり指導にあたっていた。酒席で「息子に東大狙わせます」と冗談めかして話している。

少年Aについて

小学三年生から塾に通っている。

六年生になると、受験勉強のため三年間所属した地元のカブスカウトを退団した。塾が終わって帰るのは毎晩11時前後になり、母親はこの送り迎えのために自動車免許を取得した。

中学生になってからは近所の人に会っても挨拶せずに暗い顔で道を歩いているようになった。

事件のあった11月は16日、17日と滋賀県近江八幡市にある郊外学習に参加した後、3日間続けて学校を欠席。母親も「学校を休みがちで困っている」と近隣の人に嘆いていた。

犯行当時、身長153cm程度の小柄な体格だった。

事件当日

11月23日、この日は勤労感謝の日で学校が休みだった。

Aは早朝、母親を起こし「今日は昼まで寝てていい?」「数学の問題がわからない」と甘えて口調で言ってきた。

Aの姉は午前8時ごろから友人と神戸に出かけていた。

午前8時50分頃、母親が2階にある森安の書斎兼寝室に入ると、畳に血がついているのに気づいた。布団をめくるとうつ伏せになり、血を流して絶命している森安の姿を発見する。

「お父さんが死んでる!」

警察にしようとした時、後ろからついて来ていたAが刺身包丁で切りつけてきた。母親は首に全治2週間の怪我を負ったものの、もみ合いAから包丁を奪い取った。

「パパが死んだのはぼくのせいやない。学校を休んだことでガチャガチャ言うからこうなったんや。あんなに叱られては僕の立場がない。逃げ場がないんや!」

と叫び逃走した。母親はこのあと、森安の兄弟子の内藤九段に電話をかけ「夫が死んでいる」と話した。

前日の22日、午後5時ごろ、母親がパート先から家に電話すると、森安が出た。

これから帰る旨を伝え、帰宅してみると森安の姿がなかった。Aは「僕が帰った時にはポストにカギが入っていた。どこかへ行ったんとちがうかな」と言った。

母親が書斎をのぞいたら真っ暗だった。森安は酒を飲んで夜遅くに帰宅することはめずらしくなかったので、さほど心配はしなかった。

解剖の結果、この日の午後5時から6時頃、つまり森安が電話に出た直後にAは森安を殺していたとみられる。

事件発覚から30時間後の11月24日午後2時半過ぎ、Aの自宅から7km離れた阪神電鉄鳴尾駅前のゲームソフト店に現れる。

Aは一年ほど前から頻繁にこの店に顔を出すようになった。

親しい店員に「どこへ行っても勉強勉強と言われて、もううんざりや。家に帰りとうない」と漏らすこともあったという。また、ある時は兄のように慕っていた店員が夜家に帰ろうとした時、Aはどこまでも走って追いかけてきた。

ゲームソフト店でAはしきりに「あれは誤解や」と訴えたが、店長は「誤解ならみんなにわかるようにせんとな」とAを説得した。午後3時になって、店側の連絡で警察が到着。保護された。

事件のその後

警察に保護されたAは父親刺殺を否認しつづけ、児童相談所が処遇を決定したのは事件から2ヶ月後1994年1月24日のことであった。

その処遇については少年法により公表はされていない。医療少年院に入り、カウンセリングが続けられたと言われている。