牟礼事件

1950年4月、渋谷区神南町に住む祝田玉穂さん(21歳)が突然失踪、土地家屋と家財道具が何者かに売り払われていた。

52年秋、売買に関わっていた佐藤誠と、Mを逮捕。三鷹市牟礼の神社わきで玉穂さんの遺体が発見された。

死刑判決を受けた佐藤は再審を訴えつづけたが、89年10月、獄中で病死した。

事件の経緯と詳細

1950年4月13日、東京渋谷区神南町の一軒屋に1人で住んでいた祝田玉穂さん(21歳)が突然失踪した。

そして住んでいた土地家屋、家財道具も何者かに売り払われていたため母ソノさんは、事件性を感じ警察に届け出た。

玉穂さんが失踪した日、または不審人物の存在については、ソノさんや友人らの証言により次のようなものとわかった。

玉穂さんは駐留軍軍属のチャーリーという男の愛人だったが、彼は九州転属となり別れなければならなくなった。そこでその代償としてそれまで2人で暮らした神南町の家を貰って生活していたが、彼女はそこでの生活に嫌気がさし、「銀座近くでおしる粉屋か洋裁店を開きたい」と周囲に相談していた

そこで渋谷道玄坂近くのある不動産会社に依頼、丸ビルに事務所を持つ社長で、”高橋”という男が買い手としてあらわれた。

失踪当日、玉穂さんの家に、高橋の秘書である”原”という男が来て、「話が決まれば、お金も払うから渋谷駅前ハチ公の銅像前まで来てくれ」と言うので、玉穂さんは前夜から泊まっていた友人と一緒に3人で高橋に会った。

玉穂、友人、高橋、原の4人は地下鉄で新橋駅まで来た。友人は午後7時に3人と別れたが、その時玉穂さんは「あなたから借りたお金もこれで家が売れれば返せる」と言った。また返済の待ち合わせの場所については「銀座で逢いましょう」と指定した。

14日、どれだけ待っても、待ち合わせの場所に玉穂さんは来なかった。友人は仕方なく玉穂さんの自宅に向かうと、見知らぬ男が家の前にウロウロしていた。

不審に思った友人は世田谷区の玉穂さんの母親に家に行き、2人で引き返してみると、高橋、原を含めた4、5人が、玉穂さんの家財道具をオート3輪に積んで運び出そうとしていた。ソノさんが事情を尋ねると、男は「家が売れた。玉穂に荷物もちでに売ってくれと頼まれたので、今処分している最中です。玉穂さんは日本橋の高島屋の裏のアパートに引っ越しました」と答えた。ソノさんは念の為に男の名前と住所を聞くと、「南千住2ノ25ノ5番地 高橋三夫」と紙切れに書いて立ち去った。

だがそのアパートに玉穂さんはいなかった。家屋土地の売買登記所である渋谷代官山の登記簿には、すでに玉穂さんの白紙委任状つきで、その家屋は他人名義に書き換えられていた。この転売には代理人や仲介人が数人介在して、複雑に仕組まれていた。また高橋の住所もデタラメであった。

「いまあなたの家のことで、ある男が来ている」
3月1日、登記所からソノさんの家に連絡があった。

ソノさんは急いで登記所に行くと、ロイド眼鏡をかけた55、6歳の男がいた。男はソノさんに近づいてきて、「ここの係の人に登記のことは承知したと言え。だいたい、婆さんがでしゃばっては困るな」とすごんだ。

これが玉穂さん失踪事件のあらましである。だがソノの相談を受けた警察は、単なる家出人と見て、それ以上の捜査は行わず、事件解決、また玉穂さん発見どころではなかった。

逮捕、釈放

同年12月20日、神南の土地家屋、家財の売買に関わっていた佐藤誠(当時42歳)が吉祥寺で逮捕される。登記所でソノさんを脅したロイド眼鏡をかけたブローカー・K(当時51歳)も窃盗容疑で逮捕された。

佐藤は世田谷で商事会社を経営しており、アメリカのオーヴァニュ工業大学卒というふれこみだったが、これは詐称であることがわかった。また公文書偽造と詐欺で、前科一犯がある。

佐藤は売買の事情について次のように供述した。

「土地などの売買は、商事会社社長の高橋三夫と名乗る男と、高橋の秘書で原保という男に頼まれてしたことです。それでKに頼んで売ったのです。家財道具を古道具屋へ売ったのはたしかに私ですが、その代金はもちろん、土地家屋の代金も2人に渡しました」
「佐藤さんから祝田さんの家の買手を頼まれたので、自分の名義に登記替えして売ってやりました。名義の変更は、われわれ仲介業者の常識ですよ」

取り調べは続けられたが、窃盗事件としても証拠不充分であったため、結局、佐藤とKは釈放された。警察は高橋と原の行方も掴めぬまま捜査を打ちきった。

牟礼

ソノさんはあきらめることができず、弁護士を通して、警視庁捜査1課に直接訴えた。

この再捜査では、佐藤の周辺を洗われ、佐藤宅にMという22、3歳の男が出入りしていることをつきとめた。Mは佐藤が玉穂さんの家財道具を売る時も手伝っていた。

1952年9月25日、警察は家財道具を窃取していた容疑で、Mを埼玉県大宮市高鼻町逮捕した。

高橋三夫と秘書の原という人物は存在せず、佐藤が高橋、Mが原と名乗ったものとしたのである。

その取り調べのなかで、Mは重要な自白をした。

「1950年2月、佐藤の命令で、田中という男と自動車を盗んだ」

「佐藤と台湾人と私の3人で玉穂さんを殺害、死体は三鷹市牟礼に埋めた。主犯は佐藤で、私はそそのかされてやった」

Mの供述はだいたいにおいて、次のようなものだ。

「お金は三鷹の友人の家で渡します。一緒に来てください。遅くなったら車出お送りしますよ」

失踪当日、友人と別れた玉穂さんは、高橋と原にそう言われ、新橋から渋谷に戻り、京王井の頭線を三鷹台駅で下車、3人で神明神社へ向かった。すると、若い男がもう1人あらわれて、後ろから玉穂さんを羽交い締めに押し倒した。それが合図となり、Mは体を押さえ、佐藤が玉穂さんの鼻をつまんで青酸カリを口の中に流し込んで殺害した。3人目の男は、Mの供述の台湾人で事件後の1950年5月5日に病死していた。

Mの供述に基づき、まもなく三鷹市牟礼の神明神社わきで、玉穂さんの遺体が発見された。

10月3日、佐藤が中央線公園時駅の踏切付近で窃取教唆の別件で逮捕される。だが佐藤は犯行を否認したが、Mとともに殺人容疑で再逮捕された。

われの血を吸え

1954年10月25日、東京地裁は、佐藤に死刑、Mに懲役10年を言い渡した。Mはそのまま服役したが、佐藤は控訴。

1957年6月20日、東京高裁、控訴棄却。

1958年8月5日、最高裁、上告棄却。刑は確定した。

この事件はMの供述以外、物的証拠は一切ない。そのMの自白も変転し、扼殺(Mは当初は青酸カリを使った毒殺と供述、公判では扼殺を採用)としているが。白骨遺体の頭部には鈍器で殴られたような跡があり、下着には血痕がついていた。またMは同房者に「玉穂を刃物で刺し殺した」と話していたことも明らかにされている。Mの供述が正しいかどうか、その証言が可能だった台湾人もすでに病死していた。

佐藤の訴えは、失踪当日午後8時半頃は自宅におり、Mは故意に佐藤をひきずりこんだものである。その後も佐藤は再審を訴え続けたが、いずれも棄却された。一方で被害者の下着は事件確定後、裁判所の手で処分されていたことが問題になった。

佐藤は妻とも離別し、孤独な闘いを強いられていた。

だが61年、ひとりの歌人が面会に訪れた。これが和歌との出会いだった。歌を嗜む死刑囚は多い。歌をきっかけにして歌人やクリスチャンなどの後援者が全国にあらわれ、1967年11月には牟礼事件全国連絡会も組織された。

冤罪を叫び疲れてみちのくの獄に雪の夜ひっそりと生く

天地にひびけと叫ぶ冤罪のわが声むなしく風に消さるる

 1989年10月27日、佐藤は獄中で病死。享年81。37年目の獄中生活は、死刑囚の拘置期間としては帝銀事件の平沢貞通に次ぐものであった。執行の3か月前、佐藤は死後も再審請求を続けるために、福島県相馬市内の老人ホームに入所している女性と獄中結婚していた。

 佐藤は1976年頃から短歌同人誌「すずらん」を編集、数百人の会員を持っていたが、1982年2月に禁止扱いとなっていた。執行の前、佐藤は次のような辞世の句を詠んでいた。

独房に死を待つのみなり秋の蚊よ 心ゆくまでわれの血を吸え