長崎・4歳男児誘拐殺害事件

2020年07月

12歳少年が4歳男児に"いたずら"をしようと誘拐、騒がれパニックになりマンションから突き落とす

2003年7月1日、種元駿君(4歳)が長崎市内の大型電気店で行方不明になり、翌2日午前、4km離れた同市万才町の駐車場ビル脇で全裸の遺体が見つかった。同月9日、容疑者として補導されたのは12歳の少年だった。

事件の経緯と動機

2003年7月1日午後7時、長崎市の大型電器店で、種元駿君(4歳)は「ゲームコーナーに行く」と家族に言って別れたきり行方不明になった。その後、いくら探しても駿君を発見できなかった両親は、8時15分頃、警察に通報した。

翌2日朝、4km離れた同市万才町の立体駐車場のビル脇で全裸の遺体で見つかる。駿君の直接の死因は、転落で頭を強く打ったことによる脳障害だったが、小さな体の一部には殺害前に付けられたはさみによる生々しい傷や、殴られてできたとみられるあざも数カ所見つかっていた。

7月8日、長崎署捜査本部は、殺害現場の駐車場ビル近くの商店街に設置された防犯ビデオを解析して、男児と若い男が一緒に写っていた映像の男児は駿君と断定。男についても服装や容貌などから同市内の中学生・A(当時12歳)と特定した。

翌9日、長崎署捜査本部は、Aを補導、駿君を誘拐し殺害したとする非行事実を児童相談所に通告した。

補導時、職場体験学習に向かう待ち合わせ場所に捜査員2、3人が車で現れAを連れて行った。捜査員は残された生徒に「みんなに黙っていて」と話したという。集合場所に教諭はいなかった。

中学側に事前の連絡はなく、関係者から「やり過ぎではないか」という疑問の声が出たが、同県警の上川秀男捜査1課長は中学校周辺などに報道関係者が大勢いたなどとし「最良の方法を取った」と述べた。

Aは駿君を誘拐する前、1日午後、学校が家庭訪問などのためいつもより早く帰宅。荷物を置いて外出し、はさみを購入している。

その後、大型電器店のゲームコーナーで偶然見かけた駿君を、「ゲームをしに行こう」と連れ出した。駿君は疑うこともなく手をつないでついていってしまった。

約2時間後、Aは4km離れた市内の立体駐車場の屋上から駿君を突き落として殺害した。殺害当時の様子は明かにされていないが、Aは駿ちゃんにいたずらをしようと駐車場に連れていった後、裸にし、性器をカッターナイフで傷つけるなどした。

駿君は泣きだすか、激しく抵抗して手に負えなくなったとみられ、少年はパニック状態に陥り、我を失って駿君を屋上から投げ落としたという。

Aについて

Aは、4歳の時に通っていた長崎市内の幼稚園でかんしゃくを起こした際にはさみを振り回し、問題になったことがあった。人を傷つけることはなかったが、当時は幼稚園の職員が目を離せない状態が続いたという。

Aは両親と3人暮らし。成績は非常に優秀でクラスでトップクラスであったという。体育は苦手で部活動はしていなかった。親との行動が多く、母親と一緒に買い物する姿がよく見られた。

「三国志」など歴史本を好んで読んでいて、性格はおとなしい半面、落ち着きがなく、幼稚な面もあったという。

家庭では、少なくとも両親にとっては「仲のいい家族」だった。

取材に応じた母親は「息子は不器用だし、体力もない。コンプレックスがあって、勉強では負けたくない気持ちがあったと思う。いいとこを伸ばしてやろうと思った」。少年が「お母さん、お願いします」と言えば、家事の合間に付ききりで勉強を教えた。勉強には厳しかったが、「後はべったり。私とは友達みたいな関係。あの子はひょうきんで、よくしゃべる。甘えん坊で、息子の方からよく腕を組んできた」と答えており、母親は密着ぶりを認めている。

父親も「息子が登校するときは必ず起きて、見送るようにしていた」と答え、夜遅くまでの仕事だったが、あいさつは欠かしていなかったという。

未然に防げた可能性

4月27日午後1時45分ごろ、大型商業施設2階の広場で遊んでいた3歳男児が若い男性に声を掛けられ、階段踊り場で裸にされるなどした。前日の26日にも同じ場所で4歳男児が「お兄ちゃん」に連れ去られて突き飛ばされる事件があり、浦上署は同一犯の可能性が高いとみて捜査を行っていた。

4月下旬、電器店近くの大型商業施設で、児童を狙った事件が2日連続で発生。浦上署は事件後1週間は毎日、その後は犯行日と同じ土曜、日曜に私服警官による張り込み捜査を継続していた。多い日は8人態勢で臨み、最後に行われたのが日曜日の6月29日。駿君はその2日後、少年に連れ去られた。

4月の事件で被害に遭った3歳男児は「お兄ちゃん」という以外、犯人の特徴を説明できず、似顔絵は作成していなかった。捜査幹部の一人は「犯人像がまったく絞れず、現行犯逮捕しかないと判断した。中学生というのは想定外で、犯人像をもっと検討すべきだった。捜査方法を検証する必要がある」と答えている。

浦上署は4月の事件について住民や幼稚園、小中学校には知らせておらず、地元では「知っていたらもっと注意することができた」と警察の対応を批判する声も聞かれた。

事件後の余波と騒動

▽2003年7月3日、長崎県長与町の小学校で男性教頭(49)が、授業中、忘れ物をした児童らに対し「裸にして突き落とすぞ」と発言していた。町教委などによると、教頭は3年生の図画工作の授業を担当。授業中、忘れ物をした児童らに対し「あまり忘れ物が多いと、裸にして突き落とすぞ」と発言し、児童らは「先生が(誘拐殺人事件の)犯人じゃないか」などと騒いだという。教頭は「軽い気持ちで発言してしまい、大変申し訳ない」と謝罪した。

▽11日、福島市の市立福島第三中学で、30代の男性教諭が駿ちゃん誘拐殺人事件で補導された少年と称してインターネット上に掲載された顔写真を印刷し、3年生の社会科の授業計3クラスで写真を回覧。教諭は校長らに対し「新聞は少年を匿名としているのに、ネット上では人権侵害が日常的に行われていることを知らせようとした」と回覧の理由を説明。「軽率な行動で自ら人権侵害に当たるようなことをしてしまった」と謝罪した。

▽11日、鴻池防災担当相はこの日午前の記者会見で、長崎市の男児誘拐殺人事件に関して発言。

「親の責任だ。嘆き悲しむ家族だけでなく、犯罪者の親も(テレビに)映すべきだ。全部引きずり出すべきだ。担任教師や親は全部出てくるべきだ。信賞必罰、勧善懲悪の思想が戦後教育の中に欠落している」さらに「このままではえらいことになる。日本中の親が自覚するように引きずり出すべきだと思う」と“引きずり”を連発した。鴻池氏の放言はとどまるところを知らず「厳しい罰則をつくるべきだ」と少年法の改正に言及。「(加害者の)親なんか市中引き回しの上、打ち首にすればいい」

鴻池氏は内閣府で記者団に「市中引き回し」や「打ち首」発言について、「それは例え話だ。僕は東映映画が好きだから」と釈明。「水戸黄門がいまだにはやっているのは、いいことをどんどん勧め、悪いことを懲らしめるからだ」と、再び勧善懲悪を強調した。
鴻池氏の発言を受けて、長崎県弁護士会の吉田良尚会長は「いろんなことを考えた上での発言なのか疑問だ。一般の人が言うならともかく…」と絶句。同弁護士会「子どもの権利委員会」委員長の中村尚達弁護士も「言語道断だ。政府の中枢にいる人間がこういう発言をすることで、国民感情の悪い面だけがいたずらに増幅される」と指摘した。
少年の非行事実の通告を受けた長崎県中央児童相談所の川原ゆかり所長(当時56歳)は「魔女狩りのようなもので体が震える。見せしめによる制裁からは恐怖以外の何も生まれない。社会の一人一人が自分の問題として何ができるか考えるべきだ」と激しく反論した。

▽16日、駿君の遺体が見つかった立体駐車場脇に、「中学教諭」と名乗る匿名の人物からの手紙が置かれていた。

今まで僕らはいったい何を教えてきたつもりだったのだろう。駿くん、ごめんな
 
大人がこんだけまわりにいて、助けてあげられなくて本当にごめんね。前の長崎はみんなの顔が、お互いに見えとった
 
駿くんのことを、生徒と一緒に語り合いました。命を命と思わない心、自分自身の中にもあるかもしれない邪悪な心と対決していく誓いを交わしました

Aのその後

7月10日、稲佐署から長崎家裁にAを移送。裁判官から非行事実の確認を受け、家裁は2週間の観護措置を決め、Aは長崎少年鑑別所に収容された。

7月11日、弁護士がAに「駿ちゃんに対して深く感じていることはないか」と尋ねると、Aは「人生の先をなくしてしまった。本当に申し訳ない」と後悔の言葉を口にした。

突き落としたことに関しては言葉を濁し「(殺害現場の)駐車場に着いてから、自分がやっていることが分からないようになった」と語った。終始落ち着いた様子で、取り乱すことはなく、雑談には笑顔を見せることもあったという。

精神鑑定により、Aは「アスペルガー症候群」であると診断された、事件とこの障害の因果関係を否定した。

アスペルガー症候群っていうのは、生来的な脳の機能以上により、コミュニケーションや対人能力に障害が見られ、約束事を守らないと気が済まないなど、興味や関心、行動に偏りがあるとされる広汎性発達障害のうち、言語や知能の発達に遅れがないもののことで、病気ではないよ。

9月29日の審判で 長崎地裁はAに保護処分を決定した。なお長崎家裁は本来非行表である保護処分の決定要旨を報道機関に発表した。遺族が事件記録の公表を強く求めたことや、社会に与えた衝撃を考慮しての判断だったと見られる。

Aはさいたま市の児童自立支援施設「武蔵野学院」に送致された。

遺族の声

2003年7月9日、A逮捕を受けて、駿君の両親はコメントを発表した。

「あなたは反省しているのですか。事件から一週間以上たちますが、自首する時間はいっぱいあったのではないですか。あなたには一生かけて、罪をつぐなってもらいたいと切に願います」

 また、事件から1年が経過した2004年6月30日、駿君の父親・種元毅さんはが手記を発表。内容は以下の通り。

「息子駿の一周忌を迎えるにあたり、この1年間の思いをつづっている最中に、同じ長崎でまた痛ましい事件(佐世保の小6女児の同級生殺害事件)が起こってしまいました。亡くなられた御手洗怜美さんと駿が重なってしまい、表現しがたい感情がこみあげてきます」
「先日私たちは加害者の両親からの謝罪を今後一切お断りする決断をしました。納得できない形で謝罪を受け入れることは、無念にも命を奪われた駿の思いを裏切ることになると思っています」
「駿がこの世からいなくなったという事実を突きつけられ、ほとんど何も感じられなくなる状態になりました。悲しみとか怒りの感情がほとんどわかないのに突然涙があふれ、ほとんど眠れない日々が長く続いたことにひどく悩まされました」
駿の尊い命を奪った12歳の人間が刑事罰さえ加えられず、少年院にも入れられないことは頭の中ではわかっていても、やり場のない怒りが生じました。また、私たちを苦しめたのは、事件に関する事実をなかなか知ることができないことでした。少年が罪を犯したときは、罪を犯した人間が特定される情報だけ制約を受ければいいのであって、審判記録・精神鑑定記録等すべての事実は公にされるべきだと思います。厳罰化には、罪を犯した人間が受ける処遇が、被害者とその家族、遺族にとってより納得できるものに近づけるという意味もあると思います」

2006年3月3日、駿君の遺族がAとその両親を相手に損害賠償を求めた訴訟で、A側は請求を認諾。認諾は確定と同じ意味を持つ。額は明らかにされていない。