中川一郎怪死事件

政治家殺人事件!?〜政治家は殺されたのか、自殺したのか〜

1983年1月9日に、日本の政治家で衆議院議員の中川一郎が、札幌パークホテルで突然亡くなり、その後に検察当局から早々に焼かれる準備がなされていたという不可解な事件である。

事件の経緯(詳細)

1987年1月9日、中川一郎(当時57歳)が札幌パークホテル10階1022号室の浴室で首を括って自殺しているのが発見された。当初、死因は「急性心筋梗塞」と公表された。

ところが、2日後の11日になって、死因は「首吊り自殺」であったことが発覚した。さらに、中川一郎の首吊り自殺は不審な点が多く事件直後から謀殺説が囁かれていた。現在では珍しくなくなったが、自殺方法が何とも不可解であるとされていた。

中川一郎は、浴槽に座った状態で、自分の身長よりも遥かに低い高さ1メートルより少し高いくらいのタオル台の金具に浴衣の紐をかけて首を吊っていた。

通常の首吊り自殺の場合では、自分の背丈より高い位置に紐を掛けて首をつることで、成功するため、不可解とされたが、警察では、「この方法でも死ぬことは可能」であるとして他殺ではなく自殺と断定、司法解剖もせず早々と2日後には火葬してしまった。

警察は自殺と判断したが、中川一郎の自殺方法は断末魔の苦しみに耐え、最後の瞬間まで自身の強い意志で死に向かっていかなければならないという難事業であった。

自殺説と他殺説

中川一郎の死にはいくつかの疑問点があるとして、今もって議論されることがある。

遺書もなく、また急ぐように2日後には火葬してしまったことや、途中で死因の変更があったことなどから「他殺説」が浮上した。直前、中川は当時第一秘書だった鈴木宗男と口論した噂はあるが、根拠はない。中川の秘書から北海道選挙区選出参議院銀となった高木正明が、本人の名誉を考え早急の火葬を行う指示を行ったとされる。他殺説は事実無根として、鈴木をはじめ関係者一同が抗議している。

内藤國夫は、「中川一郎突然死のあと、巷に流れ出た“噂話”には、さまざまなものがあった。ソ連の対日工作員レフチェンコから中川一郎が巨額な政治献金を受け取っていたのを、中曽根・後藤田ラインに知られ、暴露するぞと脅され、悩んでいたとの話に始まり、総裁選で膨大な金を使いすぎ借金返済に困窮していた、ソ連のKGBに謀殺された、ニュージーランド沖のイカ漁や韓国の水産関係者との利権を“角筋”によって絶たれたという噂があった。

さらには、総裁選挙後に“肝臓癌”を告げられ悩んでいた等々などがあり、いずれも根拠のない無責任な“噂話”ばかりである」と話していた。

なお、2010年10月に鈴木宗男は、中川が1975年7月に世界銀行の招待で南アメリカ諸国を歴訪する出発前日に全日本空輸の藤原経営管理室長と料亭で会食した際に、「餞別」として100万円を受け取ったこと、さらに後の東京地検特捜部による「ロッキード事件」の「全日空ルート」の捜査の過程でこのことが明らかになり、1976年8月に特捜部からの事情聴取を受けていたことを、月刊誌『新潮45』の記事で証言している。鈴木は、このことを後の1982年に福田赳夫に追及されたことが自殺の原因となったとも記しているが、これに対しては中川の妻の貞子が否定している。

中川の死から5日後の1983年1月14日、東京のソ連大使館からモスクワに宛てたKGBの暗号電報に、ソ連のスパイであり、テレビ朝日専務だった三浦甲子二の話として「中川は明らかに他殺だ。CTAの手先に消された」と記されていたことが明らかになっている。ほかにも、「鈴木はCIAと結託して中川を収賄疑惑に引き込んだ」との記述も確認されている。

自殺の原因としては、「しゃにむにニューリーダーの一角に割り込み、13人の少人数ではあるものの、自民党に自分の派閥を作り上げて総裁候補にのし上がった。その過程で、人間関係や政治資金などで相当の無理をしており、その心身の疲労が自殺という形で爆発してしまった。」というのが定説である。

中川一郎とは何者か

1925年3月9日、北海道広尾郡広尾町に農業・中川文蔵、セイの長男として生まれた。祖父・五八郎の時代に富山県福光町から北海道の広尾郡広尾村にある山奥の開拓地に移住した農民の出である。

北海道庁立十勝農業学校、宇都宮高等農林学校 (現在の宇都宮大学農学部)を経て、1947年9月に九州帝国大学農学部農業土木科を卒業。中川個人の希望としては農林省の役人になりたかったが、東京にいたのではメシが食えないと懸念し、志願して北海道庁に入った。

当初は家業を継ぐ予定だったが、広尾町会議員に出世した文蔵が北海道庁に陳情に出かけた際、ろくに相手にもされなかった口惜しさから、「お前は役人になれ」と命令され、両親思いの一郎は、父の命ずるまま役人になった。

1951年、北海道開発庁が設置され、開発担当官となる。1953年に大野伴睦北海道開発庁長官の秘書官を務め、大野に見出されることとなる。

大野は1959年、中川に「役人を辞めて俺の秘書になれ」と要請した。文蔵は大反対した。しかし大野に惚れ込んだ中川は、12年間の役人生活に別れを告げ、身分の不安定な政治家秘書になった。

1963年、大野の勧めで旧北海道5区から第30回衆議院議員選挙に出馬し、初当選した。

1967年、福田内閣改造内閣で農林大臣、鈴木善幸内角では科学技術庁長官に就任した。1973年には「青嵐会」を結成、若手タカ派として名を売った。福田赳夫に私淑し、後年は福田と政治行動を共にする。1978年の自民党総裁選挙で、福田が敗れ、12月6日に内閣総辞職をしたが、農水相辞任に際し、福田内閣の最後の閣議で、内閣総辞職の署名を断固として拒否した。単なるポーズや嫌がらせでなく、大平政権誕生阻止のため、喧嘩師・中川一郎が最後の大博打に打って出たと思われた。

1979年には、自由革新同友会を結成した。

1982年10月の自民党総裁選挙に立候補したが、当時は立候補に国会議員50名の推薦が必要であったため、福田派から安倍に投票する予定の議員の名前を借りての出馬だった。結果は、中曽根一人で全党員の6割近い支持票を集め、中川は最下位だった。この時期には後述するように奇行が目立つようになっていた。

中川一郎の奇行

もともと躁鬱体質で統合失調症を患っていたが、悪化し、夜間なかなか眠れないことが続いていた。
また、噂されるほど酒には強かったのだが、酒に酔いつぶされるようになり、国会議事堂で立ちションをしているところをスクープされるなど、これまでにはなかったような酒による失敗も起こしている。