奈良小1女児誘拐殺人事件

2020年07月

女児の遺体写真を遺族に送信。

2004年11月17日午後2時頃、奈良市学園大和町の会社員(当時30歳)の長女で同立富雄北小1年・K子ちゃん(7歳)が、下校途中に車で連れ去られた。その後、犯人はK子ちゃんの持っていた携帯電話で母親(当時28歳)に「娘はもらった」というメールと、K子ちゃんの画像を送りつけていた。翌18日午前0時過ぎ、K子ちゃんは水死体となって平群町の道路側溝で見つかった。

12月30日、同県三郷町に住む毎日新聞販売店員・小林薫(当時36歳)が逮捕される。女児へのわいせつ行為の前科があった。

事件の概要

2004年11月17日午後6時45分、奈良市学園大和町の会社員(当時30歳)の妻・E子さん(当時28歳)が、「長女で同立富雄北小1年・K子ちゃん(7歳)が、学校から帰宅していない』と警察に通報した。

その後、K子ちゃんの持っていた携帯電話から、母親の携帯電話に「娘はもらった」というメールが、K子ちゃんの画像が添付されて送信されてきた。奈良県警はすぐさま、誘拐事件として捜査を開始した。携帯電話の発信場所は奈良県平群、三郷、王寺町付近だった。

翌18日午前0時過ぎ、K子ちゃんの遺体が平群町菊美台の宅地造成地の道路側溝で見つかった。遺体には別人の毛髪や体毛が付着し、女児と異なるB型の血液が検出された。

K子ちゃんが連れ去られるところを目撃した同じ小学校の児童2人は「女児が自分から車に乗りこんだ」と証言。当初は顔見知りの犯行とみられた。

前述の小学校の児童2人は当初、車の色について「黒か紺」、「白」と証言しており、車種は日産「マーチ」とされた。ところが別の通行人の男性が現場を行ったり来たりしていた不審な車両を目撃。それはハッチバック式で緑色の「カローラ2」。この車両は、現場近くに設置された防犯カメラに複数回映っていた。

12月14日午前1時過ぎ、女児の携帯電話から、父親の携帯電話に「今度は妹をもらう」というメールが送りつけられた。この2度目の発信地域は河合、上牧町付近であった。

12月末、ひとりの男が容疑者として浮上。

12月30日、三郷町の毎日新聞西大和ニュータウン販売所従業員・小林薫(当時36歳)が逮捕された。小林はもっさりとした髪型、小太りで色白の、「いかにも」という男だった。彼の自宅マンションが家宅捜索されると、ロリコン雑誌や、数百本のビデオ、K子ちゃんの携帯電話・ランドセル・ジャンパーが見つかった。他にも女の子の服や下着、スクール水着などもあったという。

小林薫について

小林薫は大阪市住吉区の燃料店を経営する両親の長男として生まれた。

小林が10歳の時、母親が難産のため亡くなる。この時生まれた弟も障害が残った。このため父親や祖母は弟に付きっきりになり、小林はあまり構ってもらえなかったという。 またそりの合わない父親からは暴力をふるわれたが、守ってくれていたのが母親だった。小学校の卒業文集には母親の死に触れて、「僕は5時間以上泣いた」「いつか、お母さんのいる天国へ。お母さんとこんどあうときは人をいじめないようになってあおうと思う」と書いた。

中学時代、左目の視力が低いことなどから不良グループからいじめに遭う。いじめは幼稚園時代からあったという。

府内の私立高校入学。2年時の夏、クラブの合宿で鳥取県に行った時、宿泊していた旅館近くのマンション踊り場で見かけた小学3年くらいの女児2人にいたずら。

1987年3月、高校を卒業。大阪市の飲食店に就職したが、長続きせず退職。小学生時代にもやっていた新聞配達の仕事を始め、奈良や滋賀の販売店を転々とした。中には新聞契約をねつ造するなど、勤務態度の悪さから解雇されたことや、現金を持ち逃げしたこともあった。またある時は、販売店を辞めた後出た部屋の中から幼女の裸の本が残されていたこともあった。

1989年12月、小林20歳の時、5歳の女の子2人に服を脱がせてわいせつ行為。懲役2年、執行猶予4年、猶予期間中の保護観察処分。

さらに1991年10月にも、やはり団地で5歳の女の子にわいせつ行為をしようとして、幼女の首を絞めたとして、殺人未遂容疑で逮捕されていた。

この事件では懲役3年の実刑判決。初めての刑務所生活を送る。本人は反省などはせず、傍目には真面目に過ごし、仮釈放を得ることだけを考えていたという。所内でも指導や教育は行なわれなかった。

1995年11月9日、仮出獄。1996年7月23日には仮釈放期間が満了。

2004年初めから大阪市東住吉区の毎日新聞湯里販売所に勤務していたが、4月に集金した新聞代を持ち逃げ。この店に勤務していたあいだ、小林は人目につきにくい朝刊を配達する未明の時間帯に民家の物干しなどから女の子の体操着や下着類を物色し、盗んでいたという。

7月になってK子ちゃんが連れ去られた現場に近い、奈良市西部地区を担当する河合町の毎日新聞西大和ニュータウン販売所で働き始めた。小林は新聞配達と集金を担当。

9月、集金を持ち逃げされた湯里販売所長が小林の居場所を知り、本人から毎月3万円の返済を受けた。だが完済されず。

9月26日、北葛城郡内で当時6歳の小学1年生女児に声をかけ、体を触るなどわいせつな行為をした。強制わいせつ罪で起訴された。

事件当日、仕事が休みだった小林は知人から滋賀ナンバーのカローラ2を借りた。

供述によると、大阪府八尾市周辺へ赴き、連れ去る女の子を探したが見つからず、奈良市へ移動。当日の午後1時50分頃、同市学園中5丁目の路上を1人で歩いていた下校途中のK子ちゃんを見かけ、「家まで送ってあげる」と声をかけて車に乗せた。K子ちゃんを狙った理由については「1人で歩いている女の子なら、だれでも良かった」と供述。

3時20分頃、約11km離れた自宅に連れこみ、しばらく宿題などを手伝ったのち、風呂場でいたずらしようとしたが手をかまれカッとなり、浴槽にはった水に3分間顔をつけて、動かなくなったのを見てさらに全身を2分間沈めて水死させた。

携帯電話で撮影したことについては、「殺したことを親に知らせたかった」と供述。携帯電話のメールは、送信元と受信先双方の情報が携帯電話会社の通信記録に残るため、県警は女児の携帯電話の通信記録を分析。画像が添付されたメールの受信先になっていた携帯電話は、小林の知人名義だったことが判明した。

小林は11月下旬から販売店近くのスナックに頻繁に通うようになった。いつも1人で来店し、カラオケを歌っていた。12月下旬、店の女性従業員に「これ写真なんや。本人やで」とK子ちゃんの遺体とみられる写真を見せていた。入手先について「インターネット上で、どこからともなく送られてきたんや」と話していた。逮捕前日も来て、午前0時ごろまで飲んでいた。

また別の居酒屋では「B型でメガネ。同僚には疑われてるので、すごく腹が立つ」と話していた。他にも「事件の話を聞くと吐き気がする」と言ったり、「ほんまかわいそうや。早く捕まればいい」と顔をくもらせることもあったという。

小林は周囲には「別れた妻との間に娘がいる。娘はK子ちゃんと同い年」とも話していた。内縁の女性との間には「高校生になる娘がいる」とも打ち明けていた。

判決

小林は殺人、強制わいせつ致死、脅迫など8件の罪で起訴された。これには県内での別の女児への強制わいせつ(2004年9月)、滋賀県内での子ども用を含む女性用衣類の窃盗罪も含まれる。

2005年4月、奈良地裁での初公判。検察側は女児の両親の供述調書を提出。母親は「どうやってあの子の側にいこうかと思った」と自殺を考えたこともあったという。

2006年2月14日、小林の情状鑑定書が奈良地裁に提出された。鑑定は前年10~12月月に東京医科歯科大の山上皓教授(犯罪精神医学)らが面接などを通じて行ない、犯罪などを繰り返す「反社会性人格障害」と診断。

3月27日、第6回公判。小林は「(情状鑑定で)どう答えれば悪い印象を与えられるかを考えた。元から死刑を望んでいるので、減刑は望んでいない」と述べた。

5月25日、第8回公判。K子ちゃんの両親は意見陳述で「極刑になっても許せない。できることなら娘を返してほしい」などと述べた。

6月5日、論告求刑公判。検察側は「自己の性欲、支配欲、自己顕示欲を満たすための計画的な犯行で卑劣かつ極悪、残虐極まりない。被害児童の両親の処罰感情も峻烈。被告人は真しな反省や謝罪の態度を示していない上、更生意欲が欠如しており、矯正はもはや不可能」と指摘し、小林被告に死刑を求刑した。

6月26日、弁護側の最終弁論で、弁護側は「(小林は)幼少の頃から父親から暴力を受け、また幼稚園から中学時代までいじめの標的にされてきた。小学生時代には母も亡くしている。こうした経験から社会を憎悪する性質を持つようになった。また殺害についても計画的ではなく、女児が風呂場で『おっちゃんエッチ』と言って、風呂から出ようとした言動に驚き、とっさに殺意が生じて、殺害に及んだ。女児の母親にメールを送ったことについても、パニック状態に陥ったり、絶望や開き直りによるものである」などとし、さらに旧西ドイツの元大統領ワイツゼッカーの「問題は過去を克服することではない。過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」という連邦議会での演説さえ持ち出した。

9月26日、奈良地裁・奥田哲也裁判長は「生命をもって罪を償わせるほかない」と求刑通り死刑を言い渡した。

言い渡しのあと、自席に戻りながら、小林は傍聴席に視線を向け、着席するとにやりと笑って、小さくガッツポーズ。そして目を閉じて何度かうなずいた。

そして10月10日、小林は控訴を取り下げ、死刑が確定した。

10月30日、小林は遺族に宛てた書いた、便箋2枚の手紙を弁護士に託す。

「人として最低な行為で大切なお嬢さんの命を奪ってしまいました」
「(両親の)意見陳述を聞いて涙が出ていたが、公判中に謝罪の気持ちを表したくてもできなかった」
「お嬢さんが生き返るはずもなく、私への怒りは収まらないでしょうが、刑の執行をもって罪を償うしかない」

手紙は弁護士から県警の担当者を通じて遺族に渡してもらおうとしたが、遺族側は受け取りを拒否した。

2013年2月21日、大阪拘置所で死刑執行。(享年44歳)