日大ギャング事件

1950年9月22日、東京千代田区小川町の日本大学の専用車が襲われ、職員の給料約190万円が強奪されるという事件が起こった。

2日後、日大の運転手・山際啓之(当時19歳)とその愛人・藤本佐文(当時18歳)が逮捕される。

山際はこの時「オー、ミステイク!」と叫ぶなどしたため「オー、ミステイク事件」とも呼ばれ、遊び型犯罪だとしてアプレゲールの犯罪のひとつとされている。

事件の経緯と詳細

1950年9月22日午後2時ごろ、日本大学会計課員・木下茂と用務員・金山忠一が、富山銀行神田支店、千代田銀行小川町支店から日大職員100余名の給料190万円を現金で受け取り、日産「ダットサン」で学校に運んでいるところに、待ちうけていた男性が「へーイ、ストップ!」と叫んで停車させた。

停めたのは日大運転手・山際啓之(当時19歳)で、車を運転していた佐藤清樹とは同僚であった。佐藤は「何の用か」と気軽に車を止めたが、いきなり襲われたという。山際はジャックナイフで同僚を切りつけ、脅しながら大手町労働省前まで運転させ、給料入りのボストンバッグを強奪、3人を車から降ろして、そのまま逃走した。

山際は車を乗り捨て、まず東京駅へ向かった。途中、タクシーの乗りこみ、品川駅に行き、国電に乗り換えて有楽町に向かい、映画を見たり、洋服をしたてたりして時間をつぶした。午後7時ごろ、駅前の喫茶店「アマンド」で恋人・藤本佐文(当時18歳)とおちあっている。2人はその後、目黒に向かい、旅館「紅葉」で一泊した。

翌朝、新聞を見てみると、昨日の現金強奪事件の記事があり、2人の顔写真が大きく出ていた。2人はいったん別れ、佐文は品川区大井の会社員宅の八畳間を「アメリカ人二世」というふれこみで間借りした。夜になって佐文が連れ帰って来た山際は会社員に「私はCIEに勤めている。今日は大阪から着いたばかりで非常に疲れているから…」などと英語を交えて話し、12時頃には就寝した。

翌日、2人は朝からビールを飲み、ふざけあっていた。部屋を貸した会社員の妻(当時28歳)は新聞などで日大給料運搬車の襲撃を知り、2人がその犯人だと思い通報した。24日午後5時ごろ、2人はここで大森署員に逮捕される。

「オー、ミステイク!ミステイク!」

山際はこの時、両手を広げ、左文に向ってこう言ったという。警察に連行されてからも山際は片言で二世を装い、佐文も「この人は二世よ。日本語なんてわからないわ」とうそぶいた。2人は2日間で190万円のうち30万円を使っていた。

山際啓之と藤本佐文

山際は戦時中、神田の機械工場経営の家の息子として生まれる。だが戦争で工場が焼かれ、一家の家計は非常に苦しかったという。しかも、山際は49年10月頃まで仕事もせず、家でぶらぶらしていたことから父親とのいさかいも絶えなかった。山際は次第にグレだし、遊び歩くようになり、同年12月にはキャバレー「カサブランカ」で土地の顔役に喧嘩を売られて殴り倒したり、腕に「ジョージ」という刺青を入れたりした。(逮捕直後の山際の写真を見ると、出来た金で仕立てたためか、非常にお洒落にしており、顔立ちも「不良」というよりは美少年風の繊細そうな男だった)

一方、藤本佐文は日大教授・藤本藤次郎の娘というインテリ家庭に育った。堅物の父親に対して、ドライでハキハキとした(当時の)現代っ子だったようだ。

藤次郎は50年5月に北海道軍政部教育顧問から日大教授となり上京したが、その間妻とは離れて暮らしていた。佐文も郷里の山口県下関から日大本館の3階の一室で、父親と2人だけの同居生活をおくった。しかし、やはり性格は合わなかったのか、「1日中父と顔を合わせていることがたまらなく嫌だった」と後で話している。

7月中旬頃、佐文は学校を出てすぐ、新聞で化粧品会社でマネキンガールの仕事を見つけて勤め始めた。父親の元から独立したいというのが最大の目的だったようだ。

マネキンガールとはファッションモデルと販売員を兼ねたデパート従業員。1928年(昭和3年)3月に上野で開催された御大礼記念博覧会で高島屋呉服店が初めて採用し、人気を呼んだ。店の看板となるマネキンガールは他のデパートでも次々と採用され、大卒サラリーマンの3倍近い給与が与えられたという。ちなみに「マネキン」の語源はフランス語の「Mannequin(マヌカン)=小人、人体解剖模型、人体模型」だが、マヌカンでは「客を招かん」となるのでそう呼ばれた。

この頃、毎朝1階の宿直室まで手紙を受け取りに行くうち、大学の運転手をしていた山際と親しくなっていった。ある朝、出勤しようと外へ出た佐文のあとを追ってきた山際に告白され、2人は付き合うようになった。それまでにも佐文には付き合っていた男性はいたが、山際の少し悪っぽいところが魅力的に映ったのかもしれない。一方の山際は佐文について「はじめは興味半分の交際だったが、佐文はいままでの女にない新鮮な純情さをもっていた」と語っている。

だが、藤本教授は2人の関係を強く反対し、厳しく叱責した。このことから、佐文は荷物をまとめて家出。山際とおちあい、有楽町駅前の喫茶店「アマンド」で、2人でどこかに高飛びすることを決めた。その資金をつくるために勝手の知った給料運搬車に狙いをつけたわけだった。

判決とその後

1951年2月23日、東京地裁で山際に4年以上7年以下の懲役、佐文に懲役2年執行猶予3年の判決が言い渡された。

事件後、藤本藤次郎は大学を辞めた。

51年4月、一家は母親の実家である奈良県天理市に移っている。藤次郎は天理大学で教育学の講座を受け持つようになり、心に傷を負った佐文も信仰に心ひかれるようになった。

52年10月、佐文は天理教の修養課に入り、朝は講和を聞き、午後は「ひのきしん」と呼ばれる労働奉仕に励むようになり、その翌年からは天理教教師となっている。

山際とは完全に切れ、お互い一切連絡をとらなくなっていた。まもなく佐文は信仰を同じくする男性と結婚している。