仁保事件

1954年10月26日朝、山口県吉敷郡大内村仁保(現・山口市仁保下郷)で、農業・山根保一家6人の惨殺死体が発見された。

捜査は難航していたが1年後、仁保出身で、当時大阪にいた岡部保(当時37歳)を別件で逮捕。厳しい取り調べによって犯行を自供。

62年に山口地裁で死刑判決。ところが弁護団は冤罪を主張。72年12月14日、再審により無罪が確定している。

事件の経緯と詳細

1954年10月26日朝、山口県吉敷郡大内村仁保(現・山口市仁保下郷)、13戸の農家が点在する牧川集落で、農業・山根保さん(49歳)方で、保さんと妻・美雪さん(42歳)、母親・トミさん(77歳)、三男・昭男君(15歳)、四男・一吉君(13歳)、五男・実君(11歳)の惨殺されているのを隣家の家の主婦が発見した。

布団の中で死んでおり、抵抗したあともなかったことから、寝こみを襲われたものと見られ、頭をクワで割り、頚動脈を切り、心臓を刺すという執拗な殺害方法だった。現場には凶器の唐クワと包丁、血痕のついた地下足袋の足跡(10文7分)、荒縄が残されていた。部屋ないの鏡台の引き出しが開いており、中をかきまわした痕跡があり、財布が投げ出されていた。

山根家は田畑八反と山林を持ち、主人の保は村でも裕福な顔役の1人で、女性関係には評判があった。捜査本部は怨恨による犯行との見方を強めたが、単独犯か複数犯かでも揺れていた。11月14日の毎日新聞で次のような鑑識の結果が発表されている。

1 単独犯である。
2 唐クワで頭部を強打したため、頚動脈を切っても血は飛散せず、べっとり流れ、犯人はあまり返り血を浴びていない。
3 犯行は26日午前0時前後。
4 トミさんの部屋にあった約1.5mの縄は同家のものではなく、外部のものだ。
5 足跡から見てかなりの大男である。
6 毒物は使っていない。
7 現場にあった土は、現場付近の田の中で犯人がつけてきたものである。
8 犯人は物を盗った形跡がない。

進展

事件から2ヶ月後、捜査本部は発見者である隣家の男性(当時37歳)の逮捕にふみきったが、釈放されている。捜査はまたふりだしに戻り、迷宮入りかとも報じられた。

隣家の主人逮捕もあせりの逮捕であったことは否めず、新聞は「警察は無能」と書いた。そのため警察の威信にかけても真犯人の逮捕にふみきらねばならなかった。

この後、捜査員たちは怨恨説から強盗説にシフトしていき、前科者や不良など200人をリストアップしたが、ここで1人、この村の出身者が浮かび上がる。

事件から1年後の1955年10月19日、仁保出身で、5年前に大阪に出ていき、当時釜ヶ崎でホームレス生活をしていた岡部保(当時37歳)が住居侵入と窃盗の別件で逮捕される。

岡部氏は留置場に4ヶ月あまり拘留され、自供を迫る過酷な取調べを受けた。

睡眠も食事も自供次第だった。心身ともにボロボロとなった岡部はついに自供。調書がとられ、これはこの後の一審、二審での重要な証拠となる。それは1951年に同県で起きた八海事件と同じ構図だった。

判決とその後

1962年6月15日、山口地裁は岡部氏に死刑を言い渡す。

一審後、岡部氏の救援運動の大黒柱になったのが、山口市の親愛教会の牧師・林健二さんだった。山口教誨師会を追放されて、新聞も購読できないほどの極貧に耐えながらも岡部氏救済に全精力を注いだ。

1968年2月14日の広島高裁でも控訴が棄却され死刑。

公判が最高裁に持ちこまれるようになって、弁護団は次の点を挙げ、複数人犯行説(岡部氏の冤罪)を主張した。

・事件現場の血染めの足跡は最小限3人分あった。
・創傷を分析すると、クワ・出刃包丁の他に凶器がある。

1970年7月31日、最高裁は重大な事実誤認を指摘し、原判決を破棄。差し戻しとした。

1972年12月14日、広島高裁での差し戻し審で無罪判決。岡部氏はようやく17年間の苦しい獄中生活から解放された。

トピックス:『放送中止になったドキュメンタリー番組』

1972年11月11日に放送される予定だった朝日放送のドキュメンタリー番組「自白」が、役員試写で内容が問題とされ、前日に放送中止が決定、かわりに「松竹新喜劇」が放送された。

「自白」は仁保事件をテーマにしたもので、芸術祭にも参加。

中止の理由は「現在の製作過程では問題が残っている」というもので、会社側によると「取材対象となっている検察側の証人取材のやり方に行き過ぎがあった。当人の了解をとっておらず、肖像権の侵害だ。中立の立場を失って相手の人権を傷つけている」とした。

さらに差し戻し審の下る12月14日に岡部氏を密着取材した「二四時間」が、17日に放送予定だったが、これも中止となった。同社の報道部長は「社としては、仁保事件から一切手をひく」とコメントした。