臀肉事件(野口男三郎事件)

1905年(明治38年)5月24日に麹町で薬店経営・都築富五郎さん(23歳)を殺害し、金を奪ったとして野口男三郎(当時26歳)が逮捕された。3年後、男三郎の死刑が執行される。

男三郎にはその他にも少年や義兄を殺害したという疑いがあったが、それらは証拠不十分で無罪となっていた。

事件の経緯と動機

1905年(明治38年)5月24日、東京・麹町で薬店を営む都築富五郎さん(23歳)が殺害され、現金350円が奪われた。逮捕されたのは野口男三郎(当時26歳)という男で、一審、二審とも死刑を言い渡された。

事件から3年後の7月1日、男三郎は「明日死刑を執行する」旨を看守長から宣告される。
その翌日、死刑執行の立会に東京監獄にやって来た斎藤弁護士が、看守室で男三郎に尋ねた。

「もう死ぬのだから薬屋殺しについても本当のことを言ってもよかろう」

それに対して男三郎は、「あれだけの事実があったなら、私でも私が殺したと判断するでしょう。ですから強いて争いはしません。しかし長い眼でみていて下さい。必ず真犯人が出てきます」とだけ答えた。

出征兵の背中

男三郎と都築さんは4年ほど前から知り合いで、事件前の5月20日も「小西薬店」にやって来た男三郎はしばらく筆談(都築さんは耳が悪かった)をして帰った。帰っていく男三郎の姿は家族の人が目撃されている。

24日、都築さんは麹町銀行から350円の現金を引き出して家に戻っていた。午後には家に電話がかかってきたのを家族が取り次ぎ、それを受けた都築さんは午後4時過ぎに出かけて行ったが、翌朝になっても戻らなかった。

家族は警察に捜索願を出したが、午前8時ごろに豊多摩郡代々幡村代々木の山林内で都築さんの死体が発見されていた。倒れていた都築さんの死体の上には木の枝があり、首には荒縄がかかっていた。このため警察では都築さんが首つり自殺をした後、縄が切れて落下したものと見ていた。

だが不審な点もあった。都築さんが数日前から男三郎とさかんに金儲けの話をしていたらしいことが、家族から警察に伝えられたからだ。このため男三郎による他殺の疑いもあるとみて捜査は始められた。

男三郎は当時、麹町の魚屋に下宿しており、外語学校でロシア語を習った経歴のあるなかなかのインテリ青年だった。学校自体は中退していたが、偽造していた卒業証書により、誰もが中退したとは思わなかった。容姿については、数多くの女性を誘惑していたことから、当時はかなりの美男と噂されていたが、実際に裁判を傍聴した新聞記者のみるところ”並の上”程度であったらしい。

男三郎は麹町区紀尾井町の高名な漢詩人・野口寧斎氏の妹の婿で、子どもまでいたが、義兄にあたる寧斎氏と衝突して家を出た後は職にもつかずぶらぶらしていた。

事件の2ヶ月ほど前、男三郎は周囲の人間の対し、次のように持ちかけていた。

「友人の陸軍将校が戦地から大きな金塊を持ち帰った。彼に買い手の周旋をしてくれと頼まれている。安くするから買わないか。だめなら金塊を抵当にカネを貸してくれ」

無論この話は架空話であり、誰からも断られていた。そしてこの金の延べ棒に関するもうけ話が、都築さんとの筆談に使われた紙片にしっかりと書かれていた。

さらに都築さんが殺害された後からは急に金づかいが荒くなり、「陸軍の通訳官に任命されて戦地へ行く」と言い、軍服やサーベルを買い揃えていた。この話もデタラメであり、陸軍省も「野口男三郎という通訳官は採用していない」と回答している。

このとおり、捜査を進めるにつれ、男三郎という男はますます不審な人物ということがわかった。そして逮捕の時を迎える。

5月28日、麹町飯田町(現・飯田橋)の甲武線(中央線)停車場に数人の男たちが集まっていた。戦地に赴くという男三郎を見送る人たちである。

午後6時ごろ、停車場に汽車がやってくると、仲間たちが激励の言葉を投げかけるなか、サーベルをさげた男三郎は乗り込もうとした。そこを麹町署の刑事たちが取り押さえた。男三郎は軍服の懐にしのばせてあった劇薬「ストリキニーネ」を取り出したが、刑事にはたき落とされ、あっけなく逮捕となった。友人たちは連行されゆく男三郎の後ろ姿を見送るだけだった。

特効薬

1902年(明治35年)、やはり麹町で河合某君(11歳)という少年が夜道で何者かに殺害されるという事件が起こった。死体は頸部に刃物による切り傷がある他、左右の尻の肉が切り取られ、両眼がえぐり出されるというひどい状態だった。

河合少年はこの夜、母親、妹と一緒に銭湯に行ったが、その帰り道母親から玉砂糖を買ってくるように頼まれてから、夜がふけても自宅に戻らなかった。

河合少年はつつましく生きていた印刷工の息子で、物盗りの形跡もなく、また恨みをかうような子でもなかった。母親は継母だが、善良な女性であるし、またあの夜息子と別れてからの行動もはっきりとしている。

遺体の状況などから変態性欲者ではないかと推理する刑事もいた。ある情報では、窃盗などの前科がある鹿児島出身の男(当時23歳)が男色を好み、美少年に言い寄ったというものがあり、男は指名手配され、横浜で逮捕されたが、犯行当日に東京にいなかったことがわかった。

結局、この猟奇事件は真犯人が現れず迷宮入りとなる。しかし男三郎の逮捕後、この少年殺害事件も彼の犯行ではないかという疑いが出た。

この事件が起こった頃、男三郎はまだ23歳の学生だった。当時は弟子として野口寧斎氏の家に下宿していたが、内緒で4歳年上の妹と関係を持っていた。

寧斎氏はその5年前からライ病に冒されていた。この病気はその当時では不治の病とされており、偏見などから誤解が多かった。病気が発覚した際、兄弟たちは悪疫を後世に残すまいと固い約束をし、結婚を断念した。

不治の病と言われたライ病だが、巷間では「人肉が特効薬となる」といった噂があった。そうした情報から、男三郎が義兄の病気を治すために、河合少年を殺害したのではないかという見方が現れたのである。

男三郎はだいたいにおいて次のような自供をした。

「野口宅へ帰りかけていた夜9時ごろと思いますが、写真屋の前から十歩ほど先に、男の子の行くのを見ました。すぐに実行したいと考え、うしろからその子を抱いて、両腹と脇を押さえて付き上げました。・・・・子供が声を上げましたから、手ですぐ口をおさえました。そうして奥の方の井戸のそばで、どこの肉をけずろうかと考えましたが、臀の肉がいちばんよかろうと思ってナイフで臀肉を切り取りました」

「翌朝学校に行くふりをして書籍とともに少年の肉を風呂敷に包みました。同時に木炭をもち、京橋の陶器商の三銀に行きましてコンロとナベを買い、木挽町の釣り舟屋で舟を借りて、櫓艚(やぐらぶね)を漕ぎ、一人で海上へ出ました。御浜御殿から一丁ほど離れた海の沖でいかりをおろし、釣りをしているようによそおい、持っていった肉を塩水で清め、2時間ほど煮ました」

「コンロ、ナベ、肉などの残りものはすべて海中に投棄し、その汁だけを持って戻り、それから赤坂の交番のそばの店で鶏のスープ一合を購入し、自宅へ帰りました。それは午後の3時ごろだと思います。それから兄(寧斎)に、今日はよいスープを買ってきたと申して、人肉のスープを混ぜ、さらに五香という支那の香料を加え、飲みよいようにして兄にすすめました。兄はそれを飲みました。それから私の部屋にS子(寧斎の妹)を呼んで、よいスープを買ってきたからと申しました。私が飲まなければ、S子は飲まないと思いましたので、私から鶏だけのスープを飲んで見せました。するとS子は兄に飲ませたのと同じスープを安心して飲みました」

だがこれらの供述について、男三郎は後に「警察の圧迫による虚偽の申し立てだった」と否認している。

義兄

都築さん殺害事件の12日ほど前のこと、寧斎氏が寝床で死んでいるのを妹が発見した。当初は病死だとされて、墓地に埋葬されていたが、取調べにおいて男三郎が義兄に強い恨みをもっていたことがわかってきた。

そして男三郎は寧斎殺しすらも自供し始めた。寧斎宅に忍び込んで、馬乗りになって絞殺したのだという。だがこの事件についても男三郎は公判でひるがえし始めた。

男三郎はもともと大阪出身で、武林という名字だった。進学すると、紀尾井町の地理学者の家に、やはり大阪から出て来た友人と一緒に下宿していた。学費などはこの友人の家に出してもらっていたという。というのも、大阪にいた頃、男三郎はこの友人の家に出入りするうちに母親と関係を持った。そしてその家の娘の良縁が持ち上がったところで、手切れ金を受け取っていたのである。

その下宿先の隣家が寧斎宅であった。当時23歳の美しい妹のS子さんとは、何度か言葉を交わすだけの関係だったが、ある日S子さんの方から艶書(ラブレター)が届き、2人は男女の関係になった。その後、野口寧斎氏の母親が人あたりのいい男三郎のことをえらく気に入ったので同居することになった。

寧斎氏の発病により、その兄弟たちが結婚を断念したのは先に書いたが、その頃も男三郎とS子さんはあいびきを続けていた。男三郎は病気のことを知ってから、寧斎氏の看病をしながら図書館に通い、治療法を探す研究を始めた。

1903年、男三郎は野口家の人々に偽の卒業証書を見せ、まんまと信用させた。だが外語学校を中退した男三郎の語学力というのは、まだまだ未熟なものであった。なるべくなら語学力を生かした職を得ないと外語学校卒としては体裁が悪いものの、職は見つからなかった。

男三郎は嘘を重ねるため、その年の11月に「1年志願兵に行く」と言って野口家を出た。男三郎はその足で神奈川県三浦郡のとある名士宅に向かい、「私は参謀本部付の通訳官だ。大本営の密命を受けて派遣された。しばらく滞在させてほしい」と偽って転がりこんだ。男三郎はこの家からS子さんと文通して、示し合わせた旅館などで会っていた。

その翌年、S子さんが妊娠する。秘密の関係だったのでS子さんは「死ぬ」と言った。このため男三郎はS子さんを知人宅にかくまい、野口家に事情を話して2人の結婚を認めさせた。結婚は許されたものの、男三郎とS子さんは分家扱いにされ、野口家の家督を継ぐことはできなかった。

その後、S子さんは女児を出産したが、男三郎は野口家においてないがしろにされがちだった。

「結婚後は、義兄は全然以前とは違って冷ややかになりました。どんな相談があっても、S子と協議して取り決めるというふうで、私はあってなきようなものでした」
(男三郎の言葉)

詩人で学者でもある寧斎氏は、男三郎の言動、つまり言う外語学校卒業も、志願兵のこと、そして通訳として採用されるというものも、すべてが嘘らしいと感じていた。寧斎氏は実際に学校や軍関係に問い合わせ、男三郎の嘘を次々と暴いている。

男三郎は寧斎氏との衝突により、12月26日野口家を出る。だが年が変わると、再び縁りを戻そうとした。だが「通訳官になった」と言っても、「自殺する」と言っても、寧斎氏が取り合わなかった。そしてついに野口家に忍び込んで寧斎氏を絞殺した、というのが当初の自供だった。

少年殺しと義兄殺し。この2件については、名弁護士と言われた花井卓蔵氏の活躍もあり、男三郎は証拠不十分で無罪となっている。

男三郎は公判では自供を次々と覆し、都合の悪いことは何も話さなかった。裁判長が「被告のように多くの虚言を吐くと、後に真実のことを答えても虚偽の申し立ての如く聞こえるから、良く熟考して答えたがよい」と戒めるほどだったという。

男三郎は猟奇犯罪者ではなかったのか。彼は自分の性格について次のように語っている。

私の性質は、自己自身で考へても、すこぶる解釈に困難であります。
すなわち悪徳あり。善徳あり。
而してその悪徳と善徳とが性質上、正反対の性格をあらわしているのであります。
(弁護人・花井卓蔵の著書「訴庭論草」より)

男三郎事件は明治末期にバイオリンを演奏しながら歌う演歌師によって、全国的に知られた。

ああ世は夢かまぼろしか
獄舎にひとり思ひ寝の 
夢よりさめて見廻せば
四方静かに夜は更けて
(題名「夜半の追憶」として流行。「天然の美」のメロディー)

桐のひと葉に秋ぞきて
はやふた月もすぎ去りぬ
獄(ひとや)におわすきみが身は
(中略)
恋しききみはいまわしき
罪をおかしてとらわれの
うき身となりし悲しさよ・・・
(続編「袖しぐれ」。男三郎の妻への思いを歌う)

男三郎が市ヶ谷監獄で絞首刑執行されたのは、「袖しぐれ」が流行しだした頃だった。男三郎、29歳。記録には「その最期はいさぎよかった」と記されている。

その後、S子さんは長女を抱いて、各地を転々した。悪人の妻ということで人糞を投げつけられたこともあった。長女は成長して女学生となったが、意地の悪い友人から父親のことを知らされ、ショックに倒れ、その数日後に亡くなった。まだ16歳であった。