神奈川ピアノ騒音殺人事件

2020年07月

騒音トラブルからノイローゼになった男が隣人家族を殺害

1974年8月28日、神奈川県平塚市の県営団地で、子供2人を含む一家3人が刺殺されるという事件が起きた。3日後、逮捕されたのは一家の上の階に住む無職・大浜松三(当時46歳)だった。階下から聞こえてくる子供のピアノの音に悩まされての犯行だった。

ふすまには「迷惑をかけているんだから、すみませんの一言くらい言え」と殴り書きされていた。

事件の経緯

音の恐怖

大浜松三は東京・亀戸で生まれた。家業は書店だった。小学生時代は成績優秀だったが、旧制中学に入ると怠惰になり、卒業後は親類の工場に勤めていた。

1941年、国鉄国立駅の職員となるが、51年、小額の公金を横領して逃亡。金がなくなると、ひったくりをやって逮捕され、執行猶予つきの判決を受けた。その後、転々と職を変え、一時はホームレスに転落したという。

1959年、農家の婿養子となった。しかし妻が別れた前夫と会っていたのが我慢ならず、まもなく離婚した。

1963年ごろ、八王子市内のアパートに住んでいた時、自宅のステレオの音に苦情を言ってきた隣人と大喧嘩した。それ以降、騒音に異常反応を示すようになった。自ら入浴の時にすら音をたてず、妻の入浴時の音も気になるようになった。彼にとって唯一の趣味であったステレオさえ、ヘッドホンなしでは聴かなくなり、次第に音楽の熱も冷めていった。

彼は騒音に心をとらわれすぎてしまっていた。その後、よく吠える近所の犬を何匹か殺して、警察に通報されたりした。

階下のピアノ

1970年4月、大浜松三夫妻が神奈川県平塚市の県営団地の4階(406号)に引っ越してきた。この団地は鉄筋4階建て50棟に1323世帯が住んでいた。

大浜は当時、市内の工場の工員で、過去に二度、窃盗容疑で逮捕されたことがあったが、目立たないおとなしい男だった。ただ、神経質な性格で、特に騒音には敏感であった。自身もテレビを観る時にはイヤホンを使用していた。

大浜夫妻にやや遅れて、親子4人家族が階下3階(306号)に引っ越してきた。この家族は賑やかで、父親は日曜大工が趣味だったので、よく工作の音を立てた。大浜の妻によると、階下でのアルミサッシの開け閉めも5分間に20回も繰り返されることもあったという。こうして静かな夫婦と騒々しい親子が厚さ12cmの床の上と下で暮らし始めた。大浜は時々、階下の会社員夫婦に苦情を言いに行ったが、相手は聞き流していた。

1973年秋、階下の3畳間に26万円のピアノが運び込まれた。小学2年の長女がピアノを習い始めたからである。本来、ピアノは30畳以上の空間を前提に作られたものだ。その後、毎日学校が終わる午後3時頃から大浜家にピアノの練習曲が響き始めるようになった。大浜は階下の会社員宅を訪れて、「親が日曜大工でガタガタさせるから、子供も遠慮しないんだ。親の教育が悪い」と苦情を言ったが、変人扱いされ、話がこじれただけだった。
またある日には大浜が回覧板を持って行った時、長女が

「おじちゃん、人間生きているんだから、音は出るのよ」

と言ったことがあった。無論、これは長女の考えた言葉ではなく、彼女の両親が繰り返し言っていたことだった。

1974年4月、当時47歳の大浜は失業しており、夫婦の仲も冷えて、離婚話も出ていた。不整脈も起こり、先行きの不安に怯えている大浜の心に、ピアノの音が突き刺さってくる。この頃、大浜は6月分と7月分の家賃を滞納していた。8月分も払えなければ、団地を出なければならない。大浜には幻聴もあらわれ始め、「自衛のため」とテレビアンテナの棒に包丁をくくりつけた手製のヤリを作っている。偏頭痛と耳鳴りが激化し、神経科にも行った。そして妻は愛想をつかし、東京・青梅市の実家に帰ってしまう。

大浜は階下から日曜大工やピアノの音が響くたび、相模川へ釣りに行くか市立図書館での読書に逃避するようになった。だが夏休みが始まり、いずれの場所も子供達が占領するようになって、大浜の逃げ場はなくなっていった。傍には妻もいない。

この頃、大浜は2人の主婦に復讐を企てている。一人は階下に住む主婦であり、もう一人は10年以上も前に八王子のアパートの隣人で「ステレオの音がうるさい」と9畳を言いに来た主婦だった。前述した通り、この八王子の一件以来、大浜は音に神経質になりすぎている。

「自分がこれほど苦心努力して周囲に音を漏らさないように神経を使ってきたのに、階下の一家は平気で、しかもおそらく挑発的に音をたてている(ようにしか彼には思えなかった)」

事件の数日前、306号室のドアに「子供が寝ていますので静かにしてください」という張り紙が貼ってあるのを大浜は見かけた。

「なんと自分勝手な!」

大浜は改めて殺害を決意している。その3日後、復讐のための刺身包丁(刃渡り20.5cm)を購入した。

鳴りやんだピアノ

1974年8月28日、その日は朝から蒸し暑かった。まだ学校は夏休みである。朝から例によって階下からピアノの音が鳴り始め、大浜は目を覚ました。いつもは9時頃から鳴り始めるのに、この日はそれより2時間も早く少女は練習をしていた。大浜の怒りは頂点に達していた。

午前9時20分頃、大浜は階下の主人(当時36歳)が出勤したのと、母親と次女がゴミを出しに降りたのを確認。刺身包丁を手に取ると、会社員宅に乗りこんでいった。ピアノを弾いていた長女(8歳)の胸を一刺しし、続いて先にゴミ集積所から帰ってきた次女(4歳)も刺した。幼い次女はピアノとは無関係なはずだった。

迷惑をかけているんだから
スミマセンの一言
位言え。気分の
問題だ。来た時(入居時)
アイサツにこない
し、しかも馬鹿づらして
ガンをとばすとは何事だ。
人間、殺人鬼にはなれないものだ

マジックを手にとり、襖にそこまで殴り書きにした時、ゴミ出しから母親が戻ってきた。大浜は母親の胸を刺して殺害した。襖に書いた言葉は、後で帰ってくるこの家の主人に犯行の理由をわからせるためであったという。

犯行後、バイクとバスを駆使して「死にたい」と思いさまよったが、ついに死にきれず、事件から3日後の31日、平塚署に自首した。

しかし大浜は反省の態度を見せず「今後も音に悩まされるくらいなら死んだ方がマシ」と言って死刑を望んだ。

判決とその後

10月28日、横浜地裁小田原支部で初公判。

第7回公判。大浜の妻が弁護側証人として証言台に立った。大浜について「怠け者なので離婚しようと、ずっと思っていた」と手厳しい証言をした後、階下のピアノについての証言を始めた。それによると、ピアノの音は自分(妻)にも度を過ぎて聞こえてきたこと、苦情を言いに行った翌日から朝7時から夜9時の間不規則にピアノ練習が開始されたこと、大浜が帰宅してくると階下で急にピアノが弾かれ始めることがしばしばあったということだった。ちなみになぜ大浜が帰宅したことが階下にわかるのかということだが、階下の家では1年中玄関のドアを開け放しにしていたからだったという。

第8回公判。大浜は被害者に対して申し訳ないという気持ちは「ないです」と答え、「死刑になりたくてやった」と主張した。

1975年8月11日、第9回公判。検察側は死刑を求刑。大浜も最終陳述で「私としては、死刑台の椅子に座りたい、それだけです」と述べた。

同年10月20日、横浜地裁小田原支部・海老原震一裁判長は求刑通り死刑判決を下した。

この間、騒音に悩む人々の助命嘆願活動も行われたが、大浜は「音の苦痛や無期懲役より、ひと思いに死んだ方がいい」とこれを拒否、控訴する意思も見せなかった。これに対し、弁護人は被告の意思を無視して控訴の手続きをとった。

1976年5月11日、控訴審が開始されるが、今回もまた大浜は騒音被害者の会の弁護人推薦を断り、国選弁護人がついた。初公判では弁護人が、精神鑑定を依頼し、中田修氏による鑑定結果が11月25日に高裁へ提出された。

「被告人は本件犯行当時、偏執病に罹患しており、妄想に基づいて殺人行為を実行したものである」
「事理弁識能力を欠いており、妄想に動機づけられた本件犯行の殺人に関して責任無能力が認められるべき」

この鑑定により無罪や減刑になる公算も出てきた。

ところが10月5日、大浜は弁護人の知らぬ間に控訴取下げの手続きを済ませた。なんでも隣の房の水洗便所の音に妄想を抱き始めたのだという。またしても音が大浜を苦しめ、再び死刑になることを望んだのだという。

弁護士は「この控訴取下げは妄想に基づくものであり、無効である」との申し立てをしたが、77年4月11日、高裁はこの異議申し立て棄却を決定した。そして最高裁への特別抗告の期限が切れ、大浜の死刑が確定した。

「早く死刑になりたい」という大浜の願いは、今のところかなえられていない。

ちなみに、大浜は2020年7月時点で、犯行事実に関して冤罪疑惑がない死刑囚としては最古参の確定死刑囚である。