徳島ラジオ商殺し事件

冤罪をかけられたまま亡くなった!?〜13年にも及ぶ闘いと悲しい結末〜

1953年に徳島県徳島市で発生した強盗殺人事件である。

犯人とされた冨士茂子に対し、刑罰の確定および死後に再犯によって無罪が言い渡された冤罪事件である。

日本弁護士連合会が支援していた。日本初の死後再審が行われ、死後に無罪判例によって名誉回復がなされた。

事件の経緯と詳細

1953年11月5日の早朝、徳島県徳島市のラジオ商「三枝電気店」の店主男性(当時50歳)が自宅店内9箇所を刺され、殺されていた。同じ部屋にいた内縁の妻だった冨士茂子(当時43歳)も左胸に浅い傷を負った。屋根上の伝染、電話線が切断され、現場には中古の懐中電灯が残されていた。

また、隣で新店舗を建てる工事がおこなわれていたが、そこで匕首1本が見つかっている。布団の上には、靴の足跡が2つ残されていた。近くを通った人から、不審な男を見たという目撃情報も寄せられていた。

当初徳島市警察は外部から犯人が侵入したとして捜査していた。市内の暴力団関係者2人を強盗殺人容疑で逮捕し、その内1人は犯行を自供したが、証拠が無く不起訴処分とした。事件発生当時は、国家地方警察と市町村自治体警察の二本立てであった警察組織は、1954年の警察法の改正により、現在の都道府県警察に一本化された。それに伴う人事異動もあり、外部犯人説に基づく捜査は適切に引き継がれず、頓挫(とんざ)した。

一方、徳島地検の若手検事らが専従捜査班をつくり、内部犯行説に基づく独自の捜査を開始した。事件から8ヶ月後に、現場と同じ敷地にある小屋に寝泊まりしていた、当時17歳と16歳の住み込みの店員2人に対して集中的な取調べを行った。そして1954年7月から8月にかけ、1人は電話線などを切断した容疑で、もう1人を遺留品の匕首を所持した容疑で逮捕・勾留した。

2人は、その後家庭裁判所に送致され、鑑別所での観護措置に付された。それぞれ45日間、27日間身柄拘束された。その間に、同地検による、さらに集中的な取調べを受け、被害者と茂子の格闘を目撃したことや、茂子に頼まれて電話線などを切断したこと、包丁を川に投棄したこと等を認める2人の供述調書が大量に作成された。
 1954年8月13日に逮捕された茂子は、犯行を否認。いったんは自白調書の作成に応じたが、その後これを翻し、否認のまま殺人罪で起訴された。
 公判で、茂子は一貫して無実を主張したが、徳島地裁は夫の女性関係などに悩んだ末の計画的殺人として懲役13年を言い渡した。二審の高松高裁は、計画性はなく突発的な犯行であったとしたものの、控訴は棄却。現場にいた茂子の娘が「覆面のおじさんが部屋に入ってきた」と証言したが、裁判所は「年少者の見聞の確実ならざることは当然」として取り合わなかった。店員2人の捜査段階での供述調書と公判廷での証言が、有罪認定の決め手になった。茂子は上告したものの、その後これを取り下げ、判決は1958年5月に確定した。

再審請求

判決確定と相前後して、本件の真犯人と称する男が、静岡県警に出頭。報道でそれを知った茂子の親類が調査を始め、元住み込み店員の1人が供述や証言は虚偽であったと告白する手記を入手し、法務省人権擁護局に人権救済を申し立てた。同局と徳島地方法務局が協働で調査を開始し、店員は2人とも、証言は虚偽と認め、偽証罪で告訴されるとともに、警察に自ら出頭した。

徳島地検は2人をいずれも不起訴処分としたが、徳島検察審査会は「起訴相当」の議決を行った。当時は、検審議決による強制起訴の制度はなく、同地検は不起訴処分を維持した。

1959年3月、第一次再審請求が高松高裁に対してなされたが、茂子本人ではなく代理人の弁護士が請求したことなどから、不適法として棄却された。

茂子側は、店員の偽証告白を理由として、徳島地裁に第二次再審請求を行ったが、棄却された。高裁への即時抗告、最高裁への特別抗告も棄却された。

この再審請求審で2人の店員は、原審での証言は虚偽だと述べたため、茂子側はふたたび2人を告訴。この時も不起訴処分となり、同検審は再度「起訴相当」を議決したが、同地検はまたも不起訴処分を維持した。

1962年10月に行った第三次再審請求も棄却。即時抗告、特別抗告も同様の結果であった。茂子は1966年11月に仮出所。1968年に第四次再審請求を起こしたが、これも認められなかった。

1978年1月、茂子は第五次再審請求を行った。この請求審で、検察側は22冊の「不提出記録」を開示。裁判では伏せられていた捜査段階の証拠が明らかにされた。また、2人の元店員も証言し、原審での偽証を認めた。

ところが、この再審請求中に茂子は腎臓癌(じんぞうがん)で重篤となったため、弟姉妹4人が1979年11月8日に第六次再審請求を行った。茂子は同月15日に死亡。第五次請求は終了した。

徳島地裁は1980年12月13日、弟姉妹による再審請求が適法であると認め、第五次請求審での審理のすべてを第六次請求審が実質的に引き継ぐことができるとしたうえで、茂子を犯人とした事実認定は「もはや維持しがたい」と、第六次請求での再審開始を決定した。

検察側は即時抗告したが、1983年3月12日、高松高裁は抗告を棄却。検察側は特別抗告を断念し、再審開始が確定した。

再審で検察側は、31人の証人と4件の鑑定を申請し、懲役13年を求刑するなど、最後まで有罪立証を続けた。しかし徳島地裁は1985年7月9日、「検察官の主張は極めて是認し難い」と退け、無罪判決を言い渡した。判決は「外部犯人の存在に結びつく積極的証跡が認められる」として、内部犯行説にこだわった検察の見立てを否定した。

判決言い渡しの後、茂子の妹が「裁判長さま、お願いがあります。裁判所に来られなかった姉茂子にお言葉を」と声をかけたが、裁判長は無言で法廷を去った。

検察は控訴を断念し、無罪判決が確定した。

判決とその後

冨士茂子は無罪となったが、真犯人は見つかっていない。

1965年、山本薩夫監督により、「証人の椅子」として映画化された。

さらに、1980年には、「暁は寒かった−誰かが母を殺した日-」という題名でNHK土曜ドラマにてドラマ化された。