力道山刺殺事件

2020年07月

国民的英雄プロレスラーの死が国民に大きな悲しみと驚きを与えた事件

力道山刺殺事件とは、プロレス界の父と呼ばれていた百田光浩さん(リングネーム:力道山)が、1963年12月15日の10時30分頃に、赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、住吉一家傘下の大日本興業構成員であった村田勝志と足を踏んだ、踏まないで口論になり、百田光浩さんが馬乗りになり村田勝志を殴ったところ、村田勝志に下から登山ナイフで腹部を刺され、村田勝志の知り合いが務める山王病院に入院したが、12月15日に化膿性腹膜炎で亡くなった事件の事である。

だが、百田光浩は自分から持ちかけた喧嘩だからと表沙汰にはしなかった。

力道山とは

本名は、日本名:百田光浩、朝鮮名:金 信洛で、大相撲の力士出身のプロレスラーのリングネーム。第二次世界大戦後に、日本のプロレス界の礎を築き、日本のプロレス界の父と呼ばれており、国民的英雄プロレスラーとされていた。

身長は、176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)で、116kgだったとされている。

公称生年月日は、1924年11月14日となっているが、朝鮮在住時代にすでに結婚して、子供も居たことから見て、公称生年月日よりも前に生まれていると思われる。

事件の経緯や動機

1963年12月8日の10時30分頃に、赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」のトイレで足を踏んだ、踏まないということから住吉連合系暴力団日本興行組員の村田勝志(24)と口論になり、百田光浩が馬乗りになり殴ったところ、村田勝志が激昂し、下から登山ナイフで百田光浩を刺した。

この口論の背景には、対立関係にあった住吉連合と百田光浩のバックに東声会にあったことが因縁が根底にあったとされている。

刺された百田光浩は、わき腹を押さえながらも席に戻ると、付き添いで来ていた人たちは心配していたが、平然とお酒を飲んでいたが、次第に出血が酷くなり、車で赤坂山王病院に運ばれた。

診断の結果、病院は緊急手術が必要だと判断し、聖加病院の外科部長に執刀を要請し、手術が行われた。無事に手術が成功し、命に別状は無いものと思われたが12月15日の回診で腸閉塞を起こしていることが判明し、直ちに手術を開始したが、午後9時頃から危篤状態に陥り、10時35分頃に死亡した。

百田光浩は、最後に「俺は死にたくない。」と言っていたそう。

死因は、ショック死とされているが、遺族の希望で慶應大学で、行われた死亡解剖の結果、傷口の洗浄不備と麻酔の過剰投与が原因と判明した。

事件の結末

犯人が住吉連合系であり、被害者のバックが東声会にあったことで大規模な報復合戦があるのではないかと、危惧されたが、双方のトップと仲を取り持っていた山口組の田岡組長との間で、和解が成立し、最悪の事態はさけられた。

犯人の村田勝志は、懲役7年の刑を言い渡され、出所後住吉連合系の組織で村田組組長となった。

強靭な肉体

怪我をしてもすぐ出血が止まる体質だったそうで、「額を割って血を流しても、ものの10分もすると赤チンをつけただけで、血も出ていない。」、「骨が見えるぐらいの傷なのに、すぐ血が止まる」と剱持松二が証言している。

自他共に、百田光浩の強靭な肉体を過信していたことは事実であり、お客さんの前で馬場にある度数の高い洋酒を一気飲みさせるパフォーマンスをしていたりもした。

また、相手を威嚇するためにガラスのコップをバリバリを嚙み砕いて飲み込む「人間ポンプ」というパフォーマンスを持っており、とても機嫌がいい時か、悪い時に披露したそう。

百田光浩の性格

百田光浩の性格は、粗荒で、感情の起伏が激しかった。機嫌がいい時には、ボーイに1万円(当時の一万円は相当な額)のチップを軽く渡すこともあったが、機嫌が悪い時は飲食店での暴力沙汰も日常茶飯事であった。暴力沙汰の事件を起こすたび、金で表沙汰になるのを防いだ。
 
1957年10月18日の「読売新聞」の朝刊や、同日の夕刊に「力道山また暴れる」と報道されたこともあった。

百田光浩に一番可愛がられたと言っていた弟子は、お酒を飲むと暴れて素手で木やガラスのテーブルを叩いて割る、薄いガラスのコップを美味しいと言って食べていた、などと話している。

粗暴な行為については、本人の性格から来ているのも要因だとされているが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前、興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出かけて行っていたため、トラブルを引き起こしていたという証言もある。