三無事件

1961年12月12日、元川南工業社長・川南豊作(当時59歳)を中心とした旧軍人、学生らのグループ13人が警視庁公安部に逮捕された。

彼らは無税・無戦戦争・無失業の「三無(さんゆう)」というスローガンを掲げ、国会を占拠し、国家革新を図っていた。

一般的には「さんむじけん」と呼ばれている。

事件の経緯と詳細

1961年6月5日、UPI通信が「およそ12人の陸上自衛隊少壮将校による政府転覆を狙った”東京クーデター”陰謀が、自衛隊当局により摘発された」と報じた。外務省と自衛隊当局はこの報道を否定するとともに、同通信に抗議。

それから半年後の12月12日午前6時半頃、警視庁公安部は東京、福岡など全国32か所を捜索。新宿区須賀町の元川南工業社長・川南豊作(当時59歳)を中心とした旧軍人、学生らのグループ13人が逮捕された。

逮捕されたのは川南の他に元海軍中尉で5・15事件の中心人物であった三上卓(当時56歳)、本陸軍少将・桜井徳太郎(当時64歳)、元陸軍士官学校生徒で「国史会」キャップの小池一臣(当時34歳)らで、最終的には32人が逮捕された。この日に行なわれた家宅捜索では、自衛隊の作業衣、戦闘帽99点、鉄カブト300個、米海軍用ガスマスク150個、投弾練習用の手榴弾1個、川南宅でライフル銃1丁が押収された。

彼らは60年安保闘争などの勢いからの共産革命への危機感と、施策に対する不満から、「国家革新」を企図し、武力で国会を占拠するという計画を立てていた。その際、池田勇人首相をはじめとする政府要人の暗殺も図った。

それは公安三課(嶋中事件をきっかけに同年3月に新設された右翼係)による内偵で未然に探知された。

クーデター計画の発覚は、戦後初めてだった。事件後、加藤防衛庁官房長は次のように言明した。

「自衛隊員のなかには三上卓、桜井徳太郎氏などと個人的に交際のあった人はいるが事件にはまったく無関係である。今後も自衛隊はこのような事件に関係するという心配はない」

12月19日、東京地検はそれまで逮捕した14名の容疑者のうち10人を「政治目的のため、殺人、騒乱罪などの予備をした」と認定し、破防法三九条、同四○条で東京地裁に起訴した。これは適用第1号だった。

三無とは

この事件は「三無(さんゆう、または、さんむ)事件」と呼ばれたが、三無とは「無税」「無失業」「無戦争」のことで、無税は『公社公団の民営化、無失業は大規模な公共事業による失業者の吸収』、無戦争に関しては『ミサイルや宇宙兵器の開発を進め、他国からの侵略を不可能にする』というものだった。ちなみに70年頃に流行語となった「三無主義」は、当時の若者の無気力・無関心・無責任を表すもので、本件とは関連がない。

<作戦>

1.第40回通常国会開会式当日(12月9日)あたりを狙い、全閣僚が揃った開会中の国会を占拠。決行には青年層(川南工業従業員や三無塾生)約二百数十名を動員。自動小銃、ピストル、手榴弾などで武装する。

2.閣僚ら政府要人と議員を全員を監禁し、抵抗したり逃走を図る者は射殺。

3.報道管制を敷く。

4.自衛隊には中立、傍観を働きかける。また鎮圧に出動するのを内部から押さえて協力してもらう。

5.戒厳令を敷き、臨時政府を樹立。「失業者、重税、汚職のない平和国家」のスローガンを用意する。

6.容共的な閣僚、政治家を粛清。

この他、総評、日教組などの労組指導者も暗殺対象となっており、警視庁などの治安当局に計画の参加を求め、応じない場合は暗殺なども考えていたという。

そのあとで自衛隊を中軸に据えて国家権力を握るというもので、事前に旧知の自衛隊幹部に働きかけをおこなった。そこから計画が事前に発覚したらしい。警視庁公安部は9月初め頃にこの情報を入手、極秘裏に監視を続けていた。

人物

川南豊作(当時59歳)

元川南工業社長で、戦後公職追放となり、事業も停滞した。今回の決起計画では、全般の企画と資金・武器の調達を担当した。

小池一臣(当時34歳)

陸軍士官学校卒業。戦後自衛隊に入隊が退職。印刷業 陸軍士官学校卒生を中心とした右翼思想研究組織「国史会」主宰。川南とこの計画を立案し、自身は参謀役を務めていた。

三上卓(当時56歳)

1905年(明治38年)佐賀県に生まれる。海軍兵学校卒。元海軍中将。犬養首相を射殺した「5・15事件」(1932年)の主犯でもあった。反乱罪により禁錮15年の刑を受けたが、1938年(昭和13年)に仮出所した。

1940年、「大日本青年党」「まことむすび」などを統合して、「皇道翼賛青年同盟」を結成、初代委員長に就任した。1953年4月、第三回通常占拠に参議院全国区で立候補したが、落選。

三無事件では証拠不充分で釈放となった。その後、「救国子組員総連合会」の常任委員、「黒龍倶楽部」世話人などに就任。1971年10月25日死去。

桜井徳太郎(当時64歳)

元陸軍少将。戦時中、ビルマ戦線で兵団長として活躍した。国史会には所属していなかったが、小池との縁でつながりを持つ。

篠田某(当時38歳)

通称・伊吹進。予科練出身。元川南工業社員。三無塾の実質的塾長。

川下某(当時25歳)

三無塾塾長。同塾は大学生14人のグループ。川南は調達したライフル銃と日本刀を塾に保管していた。後に市川市議をつとめる。

老野生某(当時25歳)

三無塾企画総務局長。

安木某(当時36歳)

会社員。

落合某

小池の印刷会社社員。

浦上某(当時34歳)

浦和市の中学教諭。

時津某(当時48歳)

長崎の会社員。川南に心服し、川南工業の労務課長となた。

古賀某(当時26歳)

運転手。

その他、ブローカーや中国人貿易商なども逮捕されていたが、三上や桜井とともに処分保留のまま釈放された。

篠田、川下、古賀、老野生といった若い世代は右翼学生運動を通じて川南と知り合うようになった。そのうち川下と老野生は「三無塾」を設け、小池、浦上、安木らは旧陸士五九、六○期出身で、小池の主催する「国史会」に加わって国家革新などを協議しているうちに、小池を通じて川南と付き合うようになった。

彼らは早ければ62年2月に計画の決行を考えていた。12月5、6日には塾生が伊豆・修善寺町付近で射撃訓練をしている。(と言っても、押収されたのはライフル2挺と6振りの日本刀だけであった) 

役割分担としては、篠田、時津小池、古賀が同志の糾合と現場の調査、安木、浦上らが主に自衛隊に対する協力要請工作を、川下と老野生は篠田の指導で国会突入の主力部隊をそれぞれ受け持つことになった。

こうしたクーデターについて、評論家は次のように指摘している。

小島玄之氏「政界の浄化がない限り、クーデターは必ず起きる。自衛隊の一個中隊が加担したと仮定したら、クーデターは成功するかもしれない。今度の計画でも首謀者格がそろって北九州出身なのは、炭坑の斜陽から北九州一帯は経済的に行き詰まり、それにからんだ政治への不信感が増大しているためだ」(読売新聞12月13日夕刊)

大宅壮一氏「5・15事件と非常によく似たケースだ。それというのも、戦後の日本は経済的にたくましい成長をとげている半面、歴代政府の政治が無力で弱体であったからにほかならない。池田内閣にしてもそうだ。たとえば中小企業が深刻な金詰りにあえいでいるのに、世間ではレジャーブームとやらで、なんとなく浮ついたムードがただよっている。こうしたムードが新しいものにあこがれる若い人や振るい時代を懐かしむ旧軍人に不満を助長させたのだ」(毎日新聞12月12日夕刊)

判決とその後

東京地裁での一審判決は次のようなものだった。

川南、懲役2年。
小池、懲役1年6ヶ月。
川下、懲役8ヶ月。
老野、懲役8ヶ月。

67年6月、東京高裁、「決行日をしばしば変えざるをえないほど計画が杜撰で空想的要素もなくはないが、あくまで決行を目指して下準備を続けているのだから、実行の段階に達する可能性は十分あり”陰謀”の事実は認定できる」と川南らの控訴を棄却。

なおグループと接触のあった自衛官は34人にのぼり、幹部を含めそのほとんどが左遷されている。