吹上佐太郎事件

1923年(大正12年)6月から、長野、群馬、埼玉などの関東近県で少女が暴行されたうえ殺害される事件が相次いだ。

6人の少女を殺害したとして逮捕されたのは吹上佐太郎(当時36歳)。

その他にも90人以上の少女を強姦していたとされる。

事件の経緯と詳細

1923年(大正12年)6月上旬、群馬県利根郡沢田村大字沢田(現・中之条町)の桑畑で、村内のの若木はつさん(12歳)が暴行され殺害されているのが見つかった。はつさんは自分のかぶっていた手拭で絞殺されていた。

8月中旬には長野県小県郡小県村字手山の桑畑でで村内の小林きちさん(14歳)が、同月下旬には群馬県吾妻郡小野上村大字小野小字竜王(現・渋川市)の竹やぶで、同郡白郷井村の後藤きよえさん(11歳)が同じように殺害された。

小林きちさんの場合、彼女は田中駅前で子守をしていたが、子供を家に置いた後どこか連れ去られていた。一緒に遊んでいた子供たちが男に連れられて行ったのを目撃しており、それらしき男が泊まった山宿も突き止められた。宿帳には「早川義郎」とあったため、すぐに早川は指名手配された。

そんな頃(9月1日)、関東大震災起こる。マグニチュード7.9というこの大天災。各地に混乱が広がり、捜査どころではなくなった。

翌年3月21日、埼玉県秩父郡中川村(現・秩父市)の県道で、同村の女中・水野けいさん(16歳)が暴行され殺害されているのが見つかる。さらに4月12日には群馬県佐波郡東村字東の山中で、加藤千代さん(16歳)が殺害された。

頻発した少女殺し。しかも関東近県のやけに広範囲で起こっており、関東一帯の人々を震え上がらせた。

5月下旬、群馬県前橋市で、警視庁をはじめとする関東各府県の捜査主任会議が開かれた。それぞれの報告によると、殺害手段や死体放置の仕方が酷似していることなどから、同一犯の仕業であることが確認された。

さらに千葉県警察の報告によれば、大震災まもない9月21日に千葉県君津郡金谷村大字柴崎(現・富津市)の山中で、村内の富永規子さん(13歳)が殺害されていたことがわかった。

その後、若木はつさん殺しの現場目撃者が見つかり、犯人の人相が割り出された。

長野県の上田署では前橋署作成の人相書きをもとに、小林さん殺害事件を追っていたが、前年の8月に軽井沢から少し入った箱根土地会社の飯場にいた土工が、有力容疑者として浮上した。

箱根土地会社の事務所には幸運にも容疑者の写真が一枚だけ残されていた。水商売の女と一緒に写ったものであるが、この写真を若木さん殺しの目撃者に見せたところ、「間違いない」と証言した。

警視庁はこの写真を焼き増しすると、各府県の全警察署に配布し、土工だった男の現れそうな飯場、ドヤ、遊興場所などを一斉に手入れした。

そして7月28日、東京外神田署の小野巡査が、豊島郡志村新阪町(現・板橋区志村)の土工部屋にいた犯人・吹上佐太郎(ふきあげさたろう、当時36歳)をあっさりと捕まえた。

実は小野巡査は前年4月にも佐太郎を捕まえたことがあった。当時、佐太郎は神田佐久間町河岸の米屋に住み込みで働いており、留守番中に同家の4歳の次女にいたずらしていた。逮捕された佐太郎はおびえきった表情と動作で、訓戒を与えられると「二度とこんなことはいたしません」と涙をこぼした。この時、正業に就いていた実弟が日暮里にいることがわかり、弟を保証人にして帰宅させた。

しばらくして佐太郎は実弟宅から姿を消したが、小野巡査は「自分がきつく叱りすぎたからではないだろうか」といたたまれなくなっていた。しかし小野巡査は連続少女殺しの人相書きを見て、自分があざむかれていたことを知り怒りに震えた。

小野巡査が実弟宅を訪ねると、佐太郎は志村の飯場で働いていることがわかり、神田署の一隊で佐太郎の部屋にふみこんだ。その時、小野巡査が見た佐太郎の顔は、純朴な田舎出の中年だった前年と比べ、鋭い眼光に薄笑いを浮かべた殺人者の顔に変わっていた。

「わいを捕まえるのに、これほど時間を喰うとは、なんという間ぬるい捜査や」

手錠をかけられながら、佐太郎はそううそぶいた。

畜生道に堕ちた人間

佐太郎には前科があった。18歳の時に京都で知り合いの少女を暴行の上殺害。終身刑を受けて、九州の三池集治監にて服役した。その後2度の恩赦により減刑され、一連の連続少女殺しの前年に出獄していた。

小野巡査に逮捕された佐太郎は一晩外神田署に留置されると、次の日には身柄を警視庁に移された。警視庁での取り調べが済むと、殺人件数の多い群馬県警察が引取ることになった。8月9日に前橋署に到着すると、ビールを一杯引っかけ、「18、9人位はやっつけた」と話した。

「自分の全生涯は暗い日のみが続いて心地のよい太陽を見た事がなかった。併し最早いさぎよく覚悟した今日、心が落付いてビールの味も亦格別だ。外神田署に捕われてからは、各県の判検事や警察官が続々と押寄せて取り調べた。所が来る者も来る者も調べる者と調べられる者の地位を転倒して、取調べる方から是非犯跡を教えて呉れなどと頭を下げられるのには全く閉口した。世には稀有の事と自分も思う程に随分と悪い事をして来たので、全く記憶が判然として居らんのだから。それにしても今後も多くの警察官や判検事の取調べを受けるのだが、世に警察官として警視庁の出口警部程えらく、そうして犯罪者の心理をよく掴む者はいない。出来る事なら出口警部の取調べを受けたい」(佐太郎の言葉)

出口警部とは警視庁で取調べをしていた人物である。佐太郎は誇大妄想的な嘘の自供をしており、そのたびに裏付け調査で刑事たちは無駄足を踏まされることになった。

ある日、刑事が「いい加減にしろ!」「体に聞いてやるぞ」と締め上げようとすると、佐太郎は次のように毒づいた。

「そら、おもしろいやないか。わいはな、地獄の閻魔さんも目をつぶりなさるという、三池集治監のクサイ飯を15年間も喰ってきた体や。わいの体にヤキ入れたら、なんていって泣くか。ひとつ聞かせてもらいましょか。それにな、わいがやったことは、たった一つでも、ブランコになるのは知れとる。わいは畜生道に堕ちた人間や。もう怖いものなど、何もあらへん。人間、一回殺されれば、二度とは死なんもんや」

それを聞いていた出口警部が口を開いた。

「佐太郎、お前だって、人の子だった時もあるだろう。お前に殺された娘さんの親御たちが、どんな思いをしているか、考えてみたことがあるのか。お前は頭もいいし、多少は学問もある男だ。なんにも考えないわけがない。お前のような男が、どうして畜生道に堕ちたのか。俺と今番、一対一のサシで、じっくり話してみてはくれないか」

この言葉に虚勢をはっていた佐太郎はうなだれた。

吹上佐太郎の生い立ち

佐太郎は1888年(明治21年)に京都市下京区に生まれた。父親は丹波出身で、16歳に京都に出て西陣の機械職工となった人物。母親は京都六角牢獄の斬首人の娘だった。佐太郎は父親が21歳の時に生まれ、その後弟妹が次々と生まれた。

佐太郎が物心ついた頃、一家は織り屋の裏納屋に住むようになった。父母が働いているあいだ、妹の子守りをしていたが、同じ年ごろの子供が小学校へ通うのが無性にうらやましかったという。

佐太郎は空腹により夜も眠れないことが多かった。狭い部屋での雑魚寝だから、父母の行為が嫌でも目に入った。そんな時、佐太郎は隣で寝ている妹の性器を触った。

「貧乏人は飢えを性的悦楽で忘れるものだ」

佐太郎は後にそう述懐している。

9歳になった佐太郎は、親の知り合いの織り屋に奉公に出された。当初はちゃんと三食与えられることを喜んだ佐太郎だったが、一日18時間労働による睡眠不足、そして居眠りをして殴られるという毎日だった。若い他の男女の職工が卑猥なことを言っているのを、脇で見ていることが唯一の楽しみだった。この奉公先は、ある日買い物途中に主人から預かった金を盗まれたことで暇を出されている。

次に別の織り屋に10年の年季奉公に出たが、佐太郎は父親のようにはなりたくないと思い、そこを飛び出した。それから紙屋の丁稚(職人、商家などに年季奉公をする少年。雑用や使い走り)となったが、家に知られ、連れ戻されると別の織り屋に売られた。

奉公先を飛び出しては、連れ戻されるということを繰り返していた佐太郎には放浪癖が身についていた。

11歳の頃、ある織り屋にいた17、8歳の女中と関係を持つ。この家ではもう一人の丁稚と一緒に女中部屋で寝かされていたからだ。だが関係が主人にばれると、佐太郎は追い出された。

その後は大工手伝いをしたり、父親がやっていた「チーハ」(当たりクジ)の売人を手伝ったりした。佐太郎は商売の金をくすねて、京極の芝居小屋に出向いた。芝居が終わって夜の街をぶらつくと、警察の浮浪者狩りで連行されたが、「チーハ」の札が見つかったことで父親が逮捕された。釈放された父親は佐太郎に折檻を加え、再び織り屋に年季奉公に出した。

だが、その数日後には主人の金を持ち出し、京極で初めて女を買った。佐太郎は12歳ながら懲役2ヶ月の刑を受け、京都監獄に入った。

初の監獄暮らしは佐太郎にとって楽しいものだった。同房の大人が幼い佐太郎を面白がって、悪事を手とり足とり教えてくれたのだが、それだけではなく教誨師が教えてくれる小学校1、2年程度の算数などにも夢中になった。佐太郎はここで初歩の算数を覚え、国語読本の一と二を全て暗記した。

監獄を出た後、大阪に出た佐太郎は無銭飲食でまた警察に捕まった。そして警察の手である更生施設に預けられた。だがこの施設はヤクザによる泥棒学校そのもので、万引き、空巣、スリなどを教えられた。

一通りの手口を仕込まれた佐太郎は1年ほど窃盗をやって女遊びをしていたが、再び逮捕された。今度は懲役1年。しばらくぶりに戻ってきた京都監獄はやはり勉強の場所で、「商売往来」や「心学講話」などもすらすら読めるようになっていた。

14歳で監獄を出ると、今度は博徒に入り、ここで私娼のヒモにもなった。

16歳の時に家族が気になって京都に戻ると、一家は離散していた。父母は妹2人を連れて四国のお遍路に出かけていた。佐太郎は高松に向かったが、ここで金がなくなり、侠客の金をくすねようとして失敗した。

泥棒稼業に戻っていた佐太郎が京都に戻ると、父母と妹は家もなく野宿していた。それを見た佐太郎は腕の上がった空巣で金を稼ぎ、貯めた金で父親に織り機を2台買ってやり、家族がまた生活できるようにしてやった。

ひょんなことから17歳の佐太郎はK子さんさん(当時54歳)という女性の“若いツバメ”(年下の愛人)となった。さすがの佐太郎も、K子さんの毎晩の求めには辟易しており、この反動もあり、11歳と13歳の娘に手をつけた。さらにこの娘のところに遊びに来る近所の少女にも手を出した。少女の味を覚えたのはこの頃だった。だがK子さんにこのことがバレ、追い出された。

1906年(明治39年)9月24日、金閣寺のそばを歩いていた佐太郎は11、2歳の可愛い少女にばったり出くわした。少女は以前近所に住んでおり、顔見知りだった。佐太郎は「イナゴを捕りに行こう」と誘い、人気のない竜安寺山道まで連れて歩くと、突然少女に襲いかかり、暴行を加えた。そして告げ口されるのを恐れて泣いている少女の首を絞めて殺害した。

佐太郎は自分が人を殺してしまったことが恐ろしくなり、織り屋が多いと伝え聞いていた群馬県高崎に高飛びしたいと考えたが、手持ちの金はなく、また恐怖により盗みなどをする気にもなれなかった。そこで頼ったのがK子さんだった。K子さんは佐太郎の願いを「ああいいよ」と聞いてくれ、翌日に銀行で金をおろしてくれることになった。その番はK子さんの知り合いの博徒の家に泊まることになったが、眠りから覚めた時仕込み杖を持った刑事3人が枕元を囲んでいた。

京都地裁は被告が未成年(当時18歳)ということもあって無期懲役という判決を下した。大阪控訴院での二審でも控訴棄却となり、佐太郎は三池集治監での服役が決まった。

監獄での佐太郎は看守に殴りかかるなどして40回以上も独房に入れられたが、しばらくすると生真面目に過ごすようになった。労働の他に、勉強や読書に明け暮れることになった。孔子、孟子、日蓮、ソクラテス、アリストテレスなど外国哲学、宗教、科学に特に興味を持ち読破した。

佐太郎が監獄を出たのは34歳の時である。老いた父母はこれを喜んでくれ、佐太郎もこれからは罪滅ぼしのために真面目に働こうとした。だが前科がわかると、クビを切られることとなった。

名古屋での就職に失敗した佐太郎は城の裏手を歩いていた。そこへ16、7歳の少女が通りかかったが、佐太郎を見ると足早に立ち去ろうとした。佐太郎は少女の顔を殴りつけ、暴行を加えた。目の前には死刑台が見えていた。これが佐太郎の言う”畜生道に堕ちた??瞬間だった。

この後、横浜、東京に出て旅館に雇われたが、女中と関係を持って辞め、今度は会津若松、秋田・能代、宇都宮などを渡り歩いた。この間、若松と能代で2件の強姦殺人を犯していた(パロル社「ドキュメント連続少女殺人」による。この2件は後の公判で取り上げられていない)。

そしていったん京都に戻り、再び上京。米屋で働いたが、主人の娘を暴行しようとして怪我を負わせ、小野巡査に逮捕されている。しばらくは弟の家に世話になったが、そこを飛び出し、関東近県を職を変えながら転々とした。6少女殺しが始まったのである。

冒頭で書いた通り、若木さん(群馬 6月)、小林さん(長野 8月)、後藤さん(群馬 8月)、富永さん(千葉 9月)、水野さん(埼玉 翌3月)、加藤さん(群馬 4月)の6人を殺害したのであるが、佐太郎は殺した少女を「死に別れ」と呼び、強姦したものの殺さなかった女性については「生き別れ」と呼んでいた。

死の渇望

一連の事件で検事局は、証拠物件がそろっている若木はつさん、後藤きよえさん、小林きちさん殺しの3件についてのみ起訴した。だが佐太郎は「もっとたくさん殺している」とこれに怒り、裁判中は否認を通した。

佐太郎の怒りは、官選弁護人である藁谷政雄の「自伝を書いたらどうか」という言葉でおさまる。佐太郎は一審裁判中にこれを書き始め、「神州麿(しんしゅうまろ)」を書きあげた。

1925年(大正14年)5月17日、前橋地裁で死刑判決。

翌1926年4月24日、東京控訴院は控訴棄却。裁判長に最後の発言を求められると、佐太郎はこう答えた。

「目下執筆中の自叙伝を書き上げ、是非とも出版したい。そのための時間が欲しいので、自分は大審院に上告する。自己の罪を逃れようとするのではない。自叙伝が完成すれば、すぐさま上告は取り下げます」

同年7月2日、大審院は上告棄却とし、吹上佐太郎の死刑が確定した。

その年の9月28日、市ヶ谷刑務所にて死刑執行。

藁谷弁護士は佐太郎が出版を頼んでいた自叙伝「娑婆」を携えて執行間際に駆けつけたが、面会はついに許されなかった。だが製本を手にした佐太郎は非常に喜び、最後に与えられたお茶と餅菓子を食べ、家族は来なかったものの、所長と教誨師に頭を下げて絞首台に上った。

「娑婆」は発刊されたが、「風俗を乱すもの」として発売禁止、廃棄処分となった。

少なくとも93人の少女を暴行し、そのうち7人を殺害した希代の殺人者・吹上佐太郎。

佐太郎は自伝の中で、この世のすべての親に向けて次のような訓戒を残している。

自分一人の経験からではあるが、社会を改善し、善良な国民を作らんとするには、どうしてもホームの改善――貧児の救済を先にせねば万事徒労に帰すと思う

(中略)

一、子供には如何なる事ありとも、ひもじい思いをさせぬ事
二、就学業務の年齢に達した者には必ず教育を施す事
三、遊ぶ可き時は専心に遊ばす可し
四、親は有り難いもの、家庭は楽しい所という感を与うる事に留意する事
五、子供の目に触れる所にては、父母ともに、猥褻な事を言い且つせぬ事

(中略)

良否定まらぬ人間を、不良にする境遇は、――家庭は大概極って居る。不良少青年を捕まえたり養ったりする金を、彼等を出す境遇――家庭改善救済に使って戴きたいのが、死んで行く身の願望なのです