大阪・千日デパート火災事件

2020年07月

「死者118人」戦後最悪の火災事件

1972年(昭和47年)5月13日、千日デパートの閉店時刻21時から1時間半ほど経った22時27分頃、同デパート3階ニチイ千日前店の北東側の布団売場付近より出火[。

火は防火シャッターが閉まっていなかったエスカレーター開口部や階段出入口から上下階に燃え広がり、フラッシュオーバーを起こしながら2階から4階までの範囲に延焼した。

一方、火災で燃焼した建材や内装材、化繊商品から発生した一酸化炭素と有毒ガスを含んだ多量の煙がエレベーターシャフトや階段、空調ダクトを通じて上層階へ上昇し、7階で営業していたアルバイトサロン「チャイナサロン・プレイタウン(千土地観光経営)」に流れ込んだ。

同店内に滞在していた181人の客やホステス、従業員らは、火災の通報を受けられずに逃げ遅れ、煙に巻かれて7階に取り残された。その結果、一酸化炭素中毒や窓からの飛び降り、救助袋の誤った使用方法によって脱出途中に地上へ落下するなどして死者118人、負傷者81人(プレイタウン関係者47人、消防士27人、警察官6人、通行人1人)を出す惨事となった。

火災による被害状況

7階からの生還者は、消防隊のはしご車やサルベージシート(救助幕)で救助された者が53人(はしご車50人、サルベージシート3人)、階段またはエレベーターを使用するなどして自力で7階から脱出した者が8人(救助袋の上を馬乗りになって降下して助かった5人を含む)、7階窓からデパート東側の商店街アーケード屋根へ飛び降りて助かった者が2人の合計63人である。大阪市消防局は、管内の全消防車両の3分の1にあたる85台(救急車12台を含む)を消火作業に投入。はしご車は、管内保有8台のうち7台が出場した。消火作業にあたった消防士は596人にのぼった。火災は翌朝14日5時43分に鎮圧。そして火災発生から9時間14分後の同日7時41分に鎮火したと一旦は発表された。しかし、15日深夜に6階で再び小火が発生したことから消火および防御活動が再開されたため、最終的に鎮火が確認されたのは15日17時30分であった。延焼範囲は2階から4階までで、床面積合計8,763平方メートルが焼失した。

火災の原因

火災の原因は、3階で電気工事を行っていた工事関係者によるタバコの不始末であると推定されたが、決定的な証拠はなかった。

判決とその後

電気工事監督の男が現住建造物重過失失火などの容疑で大阪府警南署に逮捕された。しかしながら、失火の明確な証拠はなく、火災発生時の容疑者の行動が特定できないことや、警察での取り調べに対して供述を二転三転させるなど信用性が疑われたために、電気工事監督の男は不起訴処分となった。

のちの防火責任者などに対する刑事裁判の判決理由において、出火原因は不明とされた。

また日本ドリーム観光・千日デパート管理部の管理部次長と同管理課長[、プレイタウンの支配人、プレイタウンの経営会社代表取締役の計4名が防火管理責任と注意義務を怠ったとして業務上過失致死傷罪で起訴された。

公判中に死亡したデパート管理部次長(公訴棄却)を除く3名の被告が、それぞれ一審で無罪となった。その後、検察側が控訴し、控訴審で原判決破棄により有罪となり、判決を不服として被告側が上告した。上告審では上告棄却により被告3名の有罪が確定した。

本件火災の犠牲者遺族会および千日デパートに入店していたテナント業者団体によって、日本ドリーム観光やニチイなどに対して損害賠償訴訟が提起された。また日本ドリーム観光とニチイの双方間でも損害賠償訴訟が起こった(提訴と反訴。最終的に双方の間で和解が成立)。遺族会は、日本ドリーム観光などの被告4社が91遺族に対して総額18億5,000万円の賠償金を支払うことで合意したことを受け、和解に応じた。

7階プレイタウンには火災発生の通報と情報がまったく伝わっていなかった。火災通報の不手際は、プレイタウン滞在者らの避難行動に大幅な遅れを生じさせ、多数の死傷者を出す根本原因となった。

千日デパートと7階プレイタウンの間で非常時の避難計画を話し合う連絡協議会の設置を行ったことはなく、共同で避難訓練を実施したこともなかった。さらには非常時の連絡体制すら話し合っていなかった。

千日デパートの防火管理責任組織および自衛消防隊組織に7階プレイタウンを含めておらず、共同防火管理や共同避難の意識は完全に欠落していた。7階プレイタウンについては、火災時に防火管理責任者または従業員らによる避難誘導らしきものはほとんど行われなかった。平素からの避難計画や避難訓練はおざなりで、防火管理責任者(支配人)が下層階で火災が発生した場合を想定して避難経路をあらかじめ決めておくこともしていなかった。

さらに千日デパートビル自体は、1932年(昭和7年)に劇場として竣工して大阪歌舞伎座を1958年(昭和33年)に大改装し、商業施設に用途変更した古い建物であるが、1950年(昭和25年)制定した建築基準法の基準に従い、法律の遡及適用の対象になったことから改築の際に法令の基準を満たす改良が施された。

それにより1958年開業当初の千日デパートビルは、建築基準法令に適合していた建物であったが、法律の改正が第二次(1959年4月)から第四次(1963年7月)へと段階的に実施されていくたびに既存不適格な部分が増えていった。

さらに、1970年(昭和45年)6月の建築基準法改正(第五次改正)および同年12月の建築基準法施行令の一部改正によって、従来よりも既存不適格な状態が多く生じることになった。

また消防法および消防法施行令においても既存不適格な状態を多く抱えていた。それらの結果、売場内の防火区画シャッターは自動で作動するものではなく、火元の3階で保安係員が防火区画シャッターを手動で降下できなかったことやスプリンクラー設備が未設置であったことで、火災被害が拡大する要因となった。

この事件と翌年起きた大洋デパート火災の出火建物が建築基準法と消防関連法規に対し既存不適格であったことにより、建築基準法および消防法、消防法施行令、消防法施行規則の大幅な改正が行われる契機となった。