蜂の巣城紛争(下筌ダム事件)

下筌ダム建設計画に対し、反対派の人々が1959年頃から抵抗した事件。

1964年に最後まで砦にたてこもっていた反対派のリーダー・室原知幸さん(当時66歳)が警官隊に引きずり出され、この騒動は収束に向かった。

事件の経緯と動機

1953年6月、北九州地方に61年ぶりの豪雨があり、筑後川の氾濫により死者147人、田畑冠水約6万7千?f、流失家屋約4400戸という被害を出した。

筑後川は「筑後の暴れん坊」と呼ばれ、大分、福岡、佐賀の三県を貫流しているが、水量が増すと手がつけられない状態となった。この豪雨の被害を契機に筑後川治水基本計画が策定され、建設省は筑後川上流にダムを計画した。

ダムの建設予定地は熊本県阿蘇郡小国町志屋と大分県の県境を流れる筑後川の上流の津江川(下筌ダム)、その下流の大山川に建設予定の松原ダムと併せて二段式治水ダムとする計画であった。この2つのダムのおかげで筑後川の水害を約六割ほどまでおさえられ、そのうえ4万kwの電力を得られる、というのが当初の予定だった。

下筌ダムは1963年に着工予定で、筑後川上流の候補地についてはいくつかあったが、そのうちの久世畑地点は訳あって建設は断念された。

1956年1月、建設省九州地方建設局(以下九地建)は予備調査として山林に入り、所有者に無断で木を伐採、さらに8月から3ヶ月間下筌付近で地形測量を行った。これに関して、九地建が地元の志屋集落の人に説明会を開いたのは1957年8月のことだった。志屋小学校で行われたこの説明会では、日田工事事務所長らがダムの必要性とダム計画、建設省側の見解を説明した。この説明会以前に、志屋集落に泊まり込んでの調査があったが、それはダム建設のためとは集落の人は知らなかった。

水没地域の志屋集落の地元民はダム建設反対を決議。反対派の中心人物となったのが室原知幸さんである。室原氏は前年の九地建の調査によって伐採された山林の所有者であり、調査の後、向う岸の土地所有者とともに厳しい抗議を申し立てていた。

水没地域とされたのは熊本側の小国町、そして大分の大山村、中津江、栄村、上津江村(現日田市)。小国町では反対気運が巻き起こっていたが、大分側の村々でもそれに影響を受け積極的賛成というわけではなかった。

室原氏は室町時代の豪族の末裔とも言われる資産十数億円の山林地主。早稲田大学政経科卒業。町会議員、公安委員長などを務めた後は自宅にこもる日々が多かった。室原氏は元々ダム建設反対論者ではなかったし、小学校での説明会でもほとんど発言はなかった。ところが説明会から8日後には自宅の玄関先に「建設省およびその関係者面会お断り」という木札を張り出していた。この木札の意味するのはダム建設反対の意向である。この一週間ほどのあいだに決断があったのである。家族が気づいた時には室原氏は執念に燃えており、妻は「大変なことが起きた」と日記に書いた。

この地方には室原氏の他に北里家という名家があった。ルーツをたどれば北里柴三郎氏にもつながるという名門で、室原氏と同じく隣り合った大山林主であった。北里達之介氏は当時県会議員も務めており、説明会でも発言している。当初ははっきりとした反対派だった。

当時、反対の気運は村中に広がっており、「ダム反対」「守れ、墳墓の地」といった看板がたてられ始めた。

このあたりは富裕な土地で、日田杉の生長が良く、他にシイタケ、コウゾ、麻、茶などが収穫できた。地区には室原・北里両家のもとで山林労働を生業にしている人が多く、村がダムに沈むということは、父祖伝来の土地とそれまでの生活を失うということを意味していたからだ。村の人たちが室原氏を頼ったことの理由はそこにある。地主と労働者の関係上、室原氏は切実な訴えを聞き、立ち上がるべくして、立ち上がったのである。以後、室原氏は京都・滋賀境の宇治川・天ヶ瀬ダムなどへ視察旅行に出かけ、帰郷して反対の意向をかためた。おそらくは自分の目で水没集落の人々の実態を見たことで、思うところがあったのだろう。

志屋集落の反対運動が盛り上がりを見せる中、大分県側の水没4ヶ町村では土地の有力者が中心となって「条件付き賛成派」が出てき始めていた。九地建は攻めやすいこの地域から説得にまわっていた。この山間の土地では、反対派、条件付き賛成派、そして説得工作を進めたい九地建の三勢力が入り乱れたが、その距離は埋まらずにやがて膠着状態となった。

この状態を打破したいとまず動き始めたのが九地建だった。1959年1月8日、九地建は公共事業のために私有地を強制的に取得できることを保証した土地収用法の適用を決める。九地建と地元民の衝突は避けられないものとなった。

あの甚大な豪雨被害の記憶。この地方の人たちの生活のためという公共の利益、一方で沈む村の人たちの生活が失われるという犠牲。2つの基本的人権のぶつかり合いともいえるダム反対闘争が始まることになる。

攻防・蜂ノ巣城

1959年5月、「土地収用法」に基づき、2月に熊本県知事に現場の立ち入りを申請していた九地建は地質試験という名目で、蜂の巣岳1.5?fほど掘り崩した。

「私は非常に杉の木、木を大事にしているんだ。それに釘を打ったり、無断で大きい木を測量するのに伐採しておる。無断でわれわれの土地に入って無断で伐採しておる。釘一本打たれても向こう臑に釘を打たれたと同じものだ」(室原氏)

同じ頃、室原氏はダム予定地の切り開いた斜面に監視小屋をつくる。「蜂ノ巣砦」の誕生だった。

1960年2月、九地建は下筌地区について、測量のためのボーリングを行うのに必要な地位確保の認定を求める仮処分の申請を出した。測量開始については「2月20日」と報道された。

「わしらは決戦をのぞんちょる。ぶつかれば、建設省の横着無法しちょることがハッキリする。なまじ法廷闘争なんぞ、時間ばかりくって、いかんですたい。わしらは、ダムに反対すると同時に、権力によりかかって民衆をなめちょる建設省の小役人どもの根性をたたき直してやる」(室原氏)

こうして臨戦状況下となると、監視小屋は20棟以上となり、渡りローカが急造され、各棟には二重、三重に鉄条網が厳重に張り巡らされることとなった。この急峻な斜面には「ダム反対」のプラカードが並び、村民が一丸となって戦い抜く拠点、天然の要害たる「蜂ノ巣城」が完成した。

室原氏はこの頃の心境を狂歌にあらわすようになった。

好まざるものダムとダニ 
ダニは血を吸えど  ダムは我等の生命をも断つぞ

両陣営はついに激突する。時に1960年6月20日。

この日九地建は津江川河川敷にて仮架橋仮設工事を始めたが、反対派100人以上が川の水や人糞をかけるなどして、作業員の渡河を阻止した。当時21歳の室原氏の四女裕子さんも竹竿を持って乱闘に参加、「下筌のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれた。この水中大乱闘では大分・熊本の両県警から300人が待機しており、これを鎮めたが、建設省側に17人の負傷者を出した。

その翌日には地元民が建設省の作業現場に座り込み。この日は午後から豪雨となって、九地建が前日にかけはじめた仮橋梁が橋桁とともに流出した。

6月26日、反対派300名の見守るなか再び架橋工事が開始された。座り込みが続けられるも工事は行われ、29日には蜂ノ巣城内の柵などが取り払われ、測量の一部が終了した。

しかし津江川の水中乱闘事件について、室原氏ら3人に逮捕状が送付された。7月5日、室原氏は弁護人に付き添われて熊本県警本部へ出頭した。

7月29日には代執行が始まったが、反対派は第二線に座り込み、作業中止に追い込む。執行の許可期限も迫っている九地建側はなんとしても立ち入りを企てるが、必死の抵抗に遭ってこれを断念。橋本建設大臣から中止指令が出されたこともあって、停戦となる。

この戦いは反対派が勝ったというよりは、「負けなかった」という結果に終わったが、この1960年夏の陣が蜂ノ巣紛争のピークとなり、この後これ以上の抵抗ができなくなっていった。それはもちろん室原氏らが公務執行妨害などで逮捕されたことや、この抵抗運動のなかでも水中乱闘事件のイメージだけがニュースを通じて全国の人々に知られていったことがその理由になる。

しかしながら援軍もあった。この7月には「安保阻止熊本県民共闘会議」がダム建設反対闘争の支援にまわることを決議。さらに総評や九州各県評も支援を始めたのである。

孤立する大将

室原氏は城に入ってから公的な場にはめったに姿を見せず、土地収用とダムに関する書物を読みふけるようになった

室原氏は九地建に対し訴訟闘争を展開。法廷闘争は80数件にも及ぶ。同年5月28日に東京地裁におこしたダム建設に対する事業認定無効確認請求訴訟では、ダムの治水効果に問題があるため、これは土地収用法にある「公共の利益となる事業」には該当しないことを学者を鑑定人として立証して見せた。「法には法、暴力には暴力」で抗うのが室原氏のスタンスであった。

しかしこの訴訟は1963年9月17日に敗訴となった。石田哲一裁判長は後にこう述懐している。

「6月にいわゆる水中乱闘事件が起こり、これが本件訴訟の円満な解決の最大の難点となったことを合わせ考えると、裁判官として今でも何とも言い難い苦衷を覚える」

この結果に地元の人の動揺は大きく、この年から翌年にかけて多くの反対派は戦線を離れて条件付き賛成派にまわった。先の見えない長い闘いは士気を下げていくし、彼らの戦線離脱は抵抗することに疲れたともいえるだろう。かなり前に「話し合いに早く応じる方が補償が良くなる」とふれ回った九地建側の策も徐々に効いていた。それでも反対を続けていくとしたのは10ほどの世帯だけだけとなった。

かつて室原氏は志屋小学校での説明会の後、山林労働者たちに頼られて、次のように話していた。

「わしが反対に起ち上がるならば最後までたたかわなければならない。君たちが最後までついて来てくれるか。君たちが最後までついて来るというなら、わしも何も賛成とはいわない」

「私は当初からあれたちには、ちゃんと言っておいた。私は最後までいくんだ、ところが連中は要するにたたかいが苦しくなれば、自分の生活を立てることに追われて脱落していく。これはやむを得ない。だから私は最後まで反対するんだよということを最初から言っていたんだ。だからその時点から僕は1人になることを覚悟した」

1964年3月には2度目の分裂があり、孤塁を守るのは室原氏と2人の甥の3人だけとなった。撤退した住民に代わるかたちで城にはいったのが総評系労働者たちである。これは同志をなくしていった室原氏がすがる思いで左翼勢力を頼ったということではない。室原氏はある政治主張や特定の政党の枠にも縛られたくないと考えており、そうした共闘者についても砦内の規律に従うことを要求し、次のように話した。

「砦を死守してほしいとは思わぬ。自分が反対せざるをえない、その考え方を理解してほしい」

この間、国側から説得案、和解案が出されたが、室原氏はこれを拒否し続けていた。

室原氏の弟で、抵抗運動の参謀格でもあった知彦さんは次のように語っている。

「兄は国家の名の下に権力ざたで押しまくるのには絶対に抵抗しなければならないという気持ちでいる。私権がどこまで力があるか、ギリギリまで戦う覚悟なのだ」

1963年建設省が強制的に砦に入って収用すると、第二、第三の砦を建設した。

落城

1964年6月23日、九地建による土地収用代執行開始。津江川の水中乱闘戦以来、反対派と九地建の4年ぶりの対決である。蜂ノ巣城前には大分・熊本両県の警官隊約760人が待機、そして九地建560人が集結し、城方の700名と対峙した。

午前9時25分、九地建は「代執行を始めます」と城に向けて放送した。

マイク合戦は約1時間にわたり押し問答を続けたが、9時過ぎに物別れに終わった。その20分後には、2本の竹イカダの仮橋が対岸にかかった。

九地建は城の裏手から作業員200人を登らせた。この取り壊し作業に対する反対派の方の抵抗はトタン屋根を棒で叩いて威嚇したり、怒声を浴びせる程度で、激しいものではなかった。

午前11時、警官隊が城内になだれこみ、支援労組員700人を排除。

午後1時50分、城内の書庫に立てこもっていた室原氏は警官隊に引きずり出された。その際、室原氏は次のように語っている。

「白日のもとでこんな暴力があったことを知ってくれ。城を去っても負けたんやない。明日を見てくれ」

「ここで引き下がっては、いままで抵抗した意味がない。私が折れれば、建設省(現・国道交通省)はますます権力をカサに着てでたらめをするようになる。ダムは死んでもつくらせんよ」

蜂ノ巣城のその後

1966年、すべての収用が終わる。

1967年、下筌ダムの定礎式が行われ、工事は進められた。もはや集落では室原氏の家だけが反対を訴えていた。最初は人に請われて反対派のリーダーになっていたが、いつの日か大の権力嫌いになっていた。

1970年春、下筌ダムは完成。室原氏は自宅に闘争本部を移し、最後まで反対を叫び続けたが、この年の6月28日に来客を送り出した後「気分が悪い」と言って、翌日に死去した。享年70。葬儀にはすでに村を出て行った人、建設省関係の人も参列した。涙ながらに弔辞を読んだのは当時の九地建の所長だった。

室原氏はこのダム反対闘争に1億円を超える私財をつぎこみ、その死後に判明した借財は2000万円近くだった。

公共事業、それは理に叶い、法に叶い、情に叶うものでなければならない。
そうでなければ、どのような公共事業も挫折するか、
はたまた、下筌の二の舞をふむであろうし、
第二の、第三の蜂の巣城、室原が出てくるであろう。
(室原氏の随想「下筌ダムと私の反対闘争」より)

最後に残された問題は室原さん宅の移転問題だった。室原宅が収用できなければ、下筌ダムの完全湛水(水を貯めること)及び松原ダムの試験湛水ができなかったのである。この問題については9月に両者間で和解成立。室原さん一家は日田市内に移ることとなった。

和解では、九地建が「その幅広い意見と批判は、貴重な経験、教訓として今後の建設行政に生かしてゆく」と表明した。