新宿西口バス放火事件

2019年10月

犯人に「生きる」ことを願った被害者の稀有な物語

1980年8月19日(火曜日)21時過ぎ、新宿駅西口バスターミナル20番乗り場で、発車待ちのため停車中だった京王帝都電鉄(現:京王電鉄。当該事業は分社化により京王バス東が継承)の運行する宿41系統・6号通り経由中野車庫行きバス(日野RE100・A2158号車 登録番号:練馬22か ・771)の車内に、男が後部ドアから火のついた新聞紙とガソリンが入ったバケツを車両後方へ投げ込んだ。
火は瞬時にして燃え広がり、6人が死亡、14人が重軽傷を負う惨事となった

加害者の男(当時38歳)は1942年(昭和17年)に現在の福岡県小倉市(現:福岡県北九州市小倉南区)にて生まれたが、2歳で母親を亡くし、父・兄に育てられたが小学校4年生以降は登校せず農業の手伝い・工員をしていた。そのため成人になっても小学生の日本語レベルの識字ができない文盲だった。犯人は父親の病死を機に建設作業員として全国を転々とする。1972年に結婚するも相手は悪妻であり、妻が長男を出産した翌年に離婚。妻が精神病に罹患したため、子供を児童施設に預け、毎月仕送りを欠かさずに、各地を転々としながら現場作業員として働いていた。

加害者は警視庁の警察官に殺人・放火の現行犯で逮捕されたが、当初は取り調べに対し「何もしていない」と容疑を否認し、事件について最初に訊かれる「弁解録取」に対しては「髪の毛が焦げているのは飯を炊くために火を燃やしたからだ。事件のことは知らない」と述べていた。しかし事件2日後(1980年8月21日)に「大変なことをした。申し訳ない」と容疑を認め、弁護士と接見した際にはかなり動揺した様子で「早く殺してほしい。死刑にしてくれ」と頼み込んだ。

男の自供によれば、犯行の動機は「日ごろのうっぷんを晴らすため」だった。事件当夜、新宿駅前広場に通じる階段に座って酒を飲んでいたところ、何者かに「ここから出て行け」と言われ、カッとなって犯行に及んだという。

犠牲者の中に、当日後楽園球場で行われた読売ジャイアンツ対ヤクルトスワローズの試合を観戦した帰りの父親(40歳)と息子(8歳)もいた。この事件を聞いた後楽園球場を管理する株式会社後楽園スタジアムと巨人軍が告別式に花を贈ったこと、王貞治が祭壇にサインボールを供えたことが報道された。

死亡した被害者に、子供の運動靴を買うため勤務先から帰宅途中、たまたま新宿に立ち寄り事件に遭遇した母子家庭の母親がいた。通常帰宅経路から離れた場所で事故等に遭遇した場合通勤災害は認定されないが、このケースでは当時の労働大臣・藤尾正行の発言もあって労災が認定された。

また京王帝都電鉄では、同社に落ち度のない事件ではあったが、全社員に献血を呼び掛けたり、医療費の一時立て替え等の措置を全社を挙げて行った。

刑事裁判を控えて東京地方検察庁の担当検察官・上林博は「加害者に精神障害があるとは思えないが、若干被害妄想的なことを述べている」として被疑者の男を鑑定留置し逸見武光(当時・東京大学教授)へ精神鑑定を依頼したが、その精神鑑定結果も「被害妄想・脅迫観念に似た抑うつ症状はあるが精神障害があるとまでは言えず、統合失調症ではない」と結論付けたものだった。

男を建造物等以外放火罪・殺人罪で東京地方裁判所へ起訴した。放火に関しては刑法108条の現住建造物等放火罪では「放火により、現に人が住居に使用しまたは人がいる建造物、列車、電車、船舶、鉱坑を焼損する罪」と規定しているが、この条文に「バス」は明記されていない。営業バスは多数の人が乗車することが想定されているため、バスを列車や電車に準ずるものとして刑法108条の現住建造物等放火罪を適用すべきとする意見もあったが、判例がなく学説も分かれているため刑法110条の建造物等以外放火罪で起訴された。

1981年(昭和56年)1月に東京地裁(神垣英郎裁判長)で初公判が開かれた際、罪状認否で被告人の男は「覚えていない」と述べた。その後、証人出廷した逸見が『精神鑑定の期間が短かったため再度の精神鑑定を行いたい」と要望したため、東京地裁が逸見と福島章・上智大学教授へ委嘱して職権で再度の精神鑑定を実施した。その結果、逸見は「複雑酩酊による心神耗弱状態」・福島は「単純酩酊・軽度知的障害と心因性妄想の3つの要因による心神耗弱状態」と結論を出した。

東京地検の検察官は1983年(昭和58年)12月に東京地裁(神田忠治裁判長)で開かれた論告求刑公判にて被告人の男に死刑を求刑した一方、それから2か月後(1984年2月)に開かれた最終弁論で弁護団は「加害者は犯行当時、長男を預けた福祉施設から「まじめに働け」と迫られ追われているという妄想を抱いており、犯行当時は心神喪失状態だった」と無罪を主張した。

1984年(昭和59年)4月24日に第一審判決公判が開かれ、東京地裁(神田忠治裁判長)は「本件は本来ならば死刑を適用すべき事件だが、事件当時の被告人は心神耗弱状態にあった」と事実認定し、検察の死刑求刑から量刑を減軽し無期懲役の判決を言い渡した。弁護人・東京地検の双方がこの無期懲役判決を不服として東京高等裁判所へ控訴したが、被告人の男は1985年(昭和60年)2月14日午前に東京高裁刑事第4部(山本茂裁判長)にて開かれた控訴審初公判にて開廷直後に突然裁判官席・傍聴席をそれぞれ向いて土下座し小声で「ごめんなさい」と述べたほか、閉廷後も傍聴席に「ごめんなさい」と言いつつ頭を下げた。

1986年(昭和61年)8月26日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁刑事第4部(山本茂裁判長)は第一審・無期懲役判決を支持して双方の控訴を棄却する判決を言い渡した。被告人は判決文の朗読が終わると山本裁判長に対し「懲役ですか?』と問いかけたが、裁判長が「無期懲役」と答えると「自分は罪にならないのですね」などと意味不明な言葉を発した一方で傍聴席を向き「ごめんなさい」と謝罪しつつ土下座した。この判決により無期懲役刑が確定し、男は判決確定後の1986年10月7日から千葉刑務所に収監されていたが、知的作業ができなかったことや被害者と交流があったことにより複数の受刑者からいじめられていたという。男は1997年(平成9年)10月7日午後に刑務所内の工場で首吊り自殺(55歳没)したが、その事実が報道されたのは自殺から半年後の1998年4月だった。遺書は残されておらず事前に自殺を示唆するような言動は見られなかったが、受刑者の弁護人を務めていた弁護士・安田好弘は「受刑者は『自分の子供と同い年の子供を殺してしまった。生きていてはいけない人間だ』と自責の念を持っており、思い詰めた末に計画的な死を選んだのだろう」と推測した。

事件現場となった新宿駅西口バスターミナル20番線は現在も、京王バス東の(宿41)中野車庫行き、(宿45)中野駅行きが使用している。

この事件の被害者の一人、杉原美津子は事件後『生きてみたい、もう一度』という手記を出版した。これはベストセラーとなり、1985年に『生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件』のタイトルで映画化された。杉原は事件時、異性関係の悩みから自殺願望を抱いており、放火された際に逃げるのを躊躇したため全身80%火傷の重傷を負ったがその後回復し、事件から約1年後に退院すると自らの希望で東京拘置所へ留置されている被告人に接見を試みた。この時は被告人が面会室に現れなかったため面会は叶わなかったが、1981年7月末に退院すると同年12月には獄中の加害者宛に「どうかもう一度生きてみてください。やり直しはできます」という手紙を送った。無期懲役確定後に杉原は受刑者の弁護人を務めていた弁護士・安田好弘と共に千葉刑務所を訪ね、1991年(平成3年)4月には受刑者と特別に面会を認められ、翌月(1991年5月)には「努力して早く出所できるように頑張ります」という手紙を受け取ったが、結果的にこれが加害者からの最後の手紙となった。

当時、被害者は被告人と接見することはできなかったが、この時は例外的に認められた。杉原は「もし受刑者が仮釈放されたら自分が身元引受人になろう」と考えていたが、これは実現しなかった。

また、杉原の兄・石井義治は報道写真のカメラマンであった。彼はバスが放火された時に、偶然そばを通りがかっており、本能的に燃え上がるバスを撮影し、その写真は翌日の読売新聞の一面にスクープとして大々的に掲載された(ちなみに映画本編では、義治が撮影した事件直後の写真が提供されている)。だが、実妹がその事件で重傷を負う中、妹に救護の手を差し伸べていなかったことを知った彼は、そのショックで報道カメラマンを引退。その後、ペンネームをイシイヨシハルと改め、風景写真の分野へと転向した。

どうしたら、だれも亡くならずに済んだと思いますか。