山口・下関通り魔殺人事件

「誰でもいいから殺してやろうと思った」妻に離婚を切り出され自暴自棄に、無差別殺人で5名が死亡。

1999年9月29日午後4時25分頃、山口県下関市のJR下関駅構内に突然乗用車が突っ込んで、駅にいた通行人を跳ねながら暴走、その後車から降りてきた男が包丁を振りまわして逃げ惑う人々を次々と殺傷した。

この事件で5人が死亡、10人が重軽傷を負った。現行犯で逮捕されたのは運送業・上部康明(当時35歳)だった。

この事件では、車ではねられ死亡した被害者と、刃物で刺されて死亡した被害者に支払われるお金に大きな差がつくことになり、物議をかもした。(車にひかれ死亡した場合には、犯罪被害者等給付金の他に、自賠責保険による保障があるが、刺された人にはこれがないためである)

また、この事件をきっかけに「犯罪被害者給付金支給法」が改正され、支給金額が引き上げられることとなった。

犯行の経緯と動機

犯人・上部康明について

上部康明は下関市の北隣に位置する豊浦町に1964年に生まれた。(豊浦町は2005年に下関市などと合併している)

両親はともに教師で、妹が1人いた。上部は地元の高校を出て、一浪したのち九州大学工学部建築学科に進んだ。

ここまで熱心に努力を続けてきた上部は「大学では思いきって遊ぼう」と考えていたという。だが入学してみると、「みんなが自分のことを嫌っているのではないか」と思い始める。上部は対人恐怖症だった。

大学卒業後も上部は「人間関係が嫌だ」となかなか就職しなかった。このため1987年には心配になった両親が東京の病院に入院させ、「森田療法」の治療を受けさせるため、1988年5月には福岡市内の精神病院に入院している。

森田療法とは

森田療法とは、日本発祥の精神療法です。不安障害やパニック障害、対人恐怖症、強迫性障害などの治療を目的として、精神科医の森田正馬(もりた・まさたけ)が創始しました。臥褥(がじょく)作業を計画的に行い、事物を「あるがまま」に受け入れることを目指す。

1997年あたりからは上部の元来の人間関係に対する不安からか営業不振になり、妻の稼ぎや実家からの仕送りで生活していた。

1998年、事務所を閉鎖。新婚旅行で行ったニュージーランドへの移住を考え始める。

その資金づくりにと、1999年に入ると実家に戻り、フランチャイズの軽貨物輸送会社「軽急便」での仕事を始め、開業のために車も購入している。

「軽急便」に関する他の事件ついては、下記の記事を参照。

この仕事をしながら上部は、1998年6月に自宅を出てニュージーランドに渡ってしまった妻を待ち続けていた。

妻がニュージーランドに行ってしまったのは1998年2月に上部が福岡市に妻を残して、実家に帰ってしまったためである。

ここから、すべての歯車が狂い始めた。

1999年6月に妻がニュージーランドから帰国した。

そのとき妻は「あなたと再び、結婚生活を続けていける自信がない。お願いだから私と離婚してください」上部に離婚を迫った。

上部は驚き、「一緒にニュージーランドで暮らそう」と説得を試みるが物別れに終わった。それでも上部は「自分一人だけでもニュージーランドに行こう」と一生懸命仕事に励んでいたという。

さらに9月24日、襲来した台風18号で、仕事に使っていた軽トラックが冠水して故障してしまい、ローンだけが上部にのしかかってきた。

「何をやってもうまくいかない」と仕事に対する意欲をなくした上部は同居する父親にローンの肩代わりと移住資金30万円の借用を求めたが、父親はこれを拒否、「家の車を貸してやるからそれで仕事を続け、自分でローンを返せ」と諭した。

元々、真面目な努力家だった上部はそうした災難や、人々の仕打ちもあって、社会に対する憎悪の気持ちを高めていった。

努力していてもうまくいかないことを「周りに責任」があると考えた上部は「社会にダメージを与えてから死んでやろう」と通り魔犯行の大量殺人計画を立てた。

9月28日、上部は下関市のディスカウントショップで刃渡り18cmの文化包丁を購入。そのあと犯行場所の下見のため、JR下関駅に立ち寄り、車で突っ込む場所を決めた。

犯行予定日は10月3日と決め、自宅カレンダーの3日の欄に「スクランブル・アウト」書き残している。

犯行の経緯

予定していた日の4日前の9月29日、親から「冠水した車の廃車手続きは自分でするように」と言われて「この期に及んで面倒な廃車手続きをするなんてたまらない」と腹をたて、急遽計画を変更、自宅を軽自動車で出ると、下関市内で文化包丁を購入、午後1時過ぎに駅近くのレンタカー会社に車を預け、白の「マツダ・ファミリア」を借りた。そして、睡眠薬を飲んだ上部は車を発進させた。

午後4時20分頃、下関駅改札口付近は旅行代理店や売店、食堂が並び、下校途中の生徒やサラリーマンらで混雑していた。

そこへ猛スピードで乗用車が駅のガラスを破り突っ込んできたのである。

暴走した車は通行人7名を次々と跳ね飛ばした。上部は改札口あたりで車を停めると、文化包丁を振り回しホームに向かい、その途中で1人、ホームで7人を切りつけた。

午後4時30分頃、そこで上部は現行犯逮捕された。結局、この事件で5人が死亡、10人が重軽傷を負った。

逮捕、裁判とその後

逮捕後、上部は「社会に不満があり、だれでもいいから殺してやろうと思った」「池袋事件のようにナイフを使ったのでは大量に殺せないので車を使った」と供述。

また、上部は逮捕後、「神の指示」などと意味不明の発言を繰り返し、時に奇声を上げて廷内で暴れるなど奇行が目立ち始める。こうした行動が罪逃れのための演技であるか確かめるため、上部の精神鑑定が行なわれた。

検察側が死刑求刑の根拠とした鑑定は、犯行時の精神状態を「人格障害が背景となった反応性うつ状態を繰り返していたが、刑事責任能力への影響はない」と結論付けた。

しかし一方、弁護側が受け入れた鑑定では「統合失調症に近い妄想性障害で、心神喪失または心神耗弱」と判断している。

裁判と判決、死刑へ

2002年9月20日、山口地裁・並木正男裁判長は「史上まれにみる凶悪な犯罪。動機に斟酌すべき事情もない」と上部に死刑を言い渡した。

2005年6月28日、広島高裁・大渕敏和裁判長は一審を支持、控訴を棄却。

2008年7月11日、最高裁・今井功裁判長は被告側の上告を棄却し、これで死刑が確定した。

2012年3月29日、上部康明の死刑が執行された。(享年48歳)