巣鴨子ども置き去り事件(「誰も知らない」事件)

出生届すらない子どもたちだけでの生活という現実

1988年7月18日、東京・豊島区西巣鴨のマンションで、母親が出ていき、子ども3人だけで生活していたことが、マンション大家の通報によって発覚した。

その後、愛人宅にいた母親A子(当時40歳)が警察に出頭し逮捕されるも、子ども達はそれぞれ父親が違い、また次男はすでに死亡していたが、届け出ず隠していたことが判明。

さらに、母親不在時の4月に、長男(当時14歳)とその友人ら2人(ともに当時12歳)が三女(2歳)に暴行を加えて殺害していたことが発覚した事件。

事件の経緯と背景

1988年7月18日、東京・豊島区西巣鴨にあるマンションの大家から巣鴨署に、「居住者の母親が子供3人を置きっぱなしにして帰宅しておらず、不良のたまり場となっている」という通報があった。

巣鴨署員と福祉事務所の相談員が部屋を訪れると、小さな子ども3人がおり、大家の言うように母親の姿はなかった。

部屋の中は衣類などが散乱しており、カーテンも閉めきられた状態で、残飯が腐るなど異臭がたちこめていたという。

子どもたちは14歳の長男を筆頭に、長女(当時5歳)、次女(当時3歳)の3人で、特に妹たちは栄養状態が悪く、特に次女はやせ細っており、即時入院することになった。

近隣住民も気付かなかった子どもたちの異常な生活

長男によると、3人はそれぞれ父親が違い、このマンションで子どもだけで生活していて、学校にも行ったことがないとのことであった。

母親は前年である1987年10月に家を出ていったあと、たまに様子を見に帰って来たりしていたが、翌年1月以降は姿を見せないようになり、気の付いたときに2~3万の生活費を送るだけとなった。

こうして長男が家事の一切を行う「誰も知らない」子どもたちだけの生活が始まり、妹たちは外へ出たり大きな声を出したりすることも禁じられていたため、長男が階下(マンションは鉄筋4階建てで、1階はコンビニだった)のコンビニやスーパー等でパンやおにぎりを買い、妹たちに与え、また、幼い妹のオムツの交換なども行っていたという。

ガスや電話はすでに止められており、家賃も2月からは不払いが続いているような状況であったが、周囲の住人たちはこの異常な生活の実態について一切気付いていなかったという。

ちなみに、長男の証言によると、長男は昼間ぶらぶらしていることが多く、不審に思った大人たちから「どこの小学校に行っているの?」と聞かれると、常に「立教小学校」と答えており、母親からそのように答えるよう指導されていたとの事であった。なお、立教小学校は東京都豊島区西池袋に実在する私立の男子小学校である(2020年4月現在も設置)ため、公立小学校とは違った休校日の設定があるのかもしれない、という憶測から疑問をもたれにくかったと考えられている。

そして、数日後の1988年7月22日、子どもの話から「3人の他にもう1人子どもがいる」ことがわかったため家宅捜索をしたところ、押入れの中から乳児の白骨死体が見つかった。

子を捨てた母親のそれまで

乳児白骨遺体発見の翌日である7月23日、報道を知って、千葉県内の愛人宅で暮らしていた母親A子(当時40歳)が警察に出頭し、保護者遺棄の容疑で逮捕された。

本事件では、子どもたちが未成年だったため実名報道がされなかったが、母親は「自分の事かも知れない」「長男1人に妹達の面倒を見させて悪かった」と、出頭したとのことであった。

A子は前年の1987年9月までは千葉県印西市大塚のマンションにいたが、翌10月に東京都豊島区の巣鴨に引越してきた。

その際、大家には「夫は数年前に亡くたったので現在長男と2人暮らしです。自分は、デパートに務めています。長男は私立中学校の立教中学校に通っていますが、今は事情があり休んでいます。」と話していたという。

そして、A子は巣鴨のマンションに引っ越した直後、恋人ができたことで育児が面倒になり、A子は長男に兄妹(きょうだい)の世話を任せ、家を出た。

A子の手帳に記された日記から、A子は本事件発覚までに5人の子どもを産んでいたことが判明した。また同時に、長男以外は自宅出産し、5人とも出生届を出していなかったことも明らかとなった。

(ちなみにA子は、1968年に勤め先の男性と第一子を授かっているが、この子どもは養子に出されているため、事実上の第2子が、本事件の長男となっている。)

母親の手帳から明らかになったとされる5人の子どもたちの生年月日は次の通りであるが、確証は得られていない。

長男:1973年10月
長女:1982年11月(81年生まれとする説もある)
次男:1983年11月(84年生まれとする説もある)
次女:1984年9月(85年生まれとする説もある)
三女:1985年9月(86年生まれとする説もある)

そして、1979年頃に、長男の父親が蒸発。

その後、母親は長男が小学校に入学するのを楽しみにしていたが、長男が就学年齢に達しても就学通知が来ず、母親が役所を訪ねると長男の父親が婚姻届と出生届を出していなかったことが判明した。

しかし、それでも母親は関連の行政機関に相談するようなことはしなかった。

また、長女の出産は自宅出産しており、その存在は公にされることはなく、以降全て自宅出産しており、後のA子の証言によると、3人の男性との間にできた子どもとのことであった。

当初は教材を買い与えて勉強をさせるというようなこともしていたようだが、事件発覚当時14歳の長男は、名字(みょうじ)は漢字で書けても、下の名前はひらがなでしか書けない状態であった。

また、1985年2月には、母親が「次男がほ乳瓶をくわえたまま死亡」しているのを発見した。

A子は処置に困り、届け出ないでそのままポリ袋に隠しておき、引越しの時もスーツケースで持ち運んでいた。このときA子は、押入れを仏壇がわりにして供え物などもしていたという。

警察が発見した白骨死体は、この次男のものだった。しかし、2歳の三女の姿はどこにもなかった。

そもそも、警察も大家も、三女が存在することすら認知していなかったため、逮捕後の母親の供述から、三女が行方不明となっていることが発覚した。

子どもたちだけの異常な生活の果てに

その後の捜査によって、親が不在の子ども3人だけが暮らす一室で、長男とその友人の中学1年の男子生徒2人(ともに当時12歳)が三女をせっかんして殺害していたことが判明した。

長男は引越してきた直後にマンションの近くで、その少年たちと出会い、一緒に遊ぶようになったという。

事件発覚の約3か月前、1988年4月21日昼過ぎ、家に遊びに来ていた友人のカップ麺が見当たらなくなった。

そして、妹の口元に海苔がついていたことから、長男を含む少年らは妹らに対し「食べたな」と木の棒で殴って3人の妹たちを責めた。このときは、妹らが素直に謝ったため、一旦はおさまり、少年たちは別の部屋で遊び始めた。

しかしその後、しばらくして三女がおもらしをしたため、少年らは三女を押し入れに積まれた布団に乗せ、ぐらぐらして下の畳に落ちるのを見て楽しみ始めた。

これに対して長男が「もうやめろよ」と言うと、友人は「おもしろいから、お前もやれ」と言ったという。

その後、暴力はさらにエスカレートし、押し入れの上から何度も三女の上に飛び降りるなどの暴行が加えられた。

なお、これら一連の暴行は、計4~5時間にわたって繰り返されたとみられている。

暴行を繰り返しているうちに、三女がぐったりしたため、少年たちは湯たんぽで体を温めるなどした。

少年のうち1人はその日の夜に帰宅し、残った2人でマッサージをしていたが、三女は翌日22日の昼過ぎには亡くなってしまった。

そしてその後、三女の遺体が腐敗してきたため、1週間ほどして、長男と少年らは遺体をボストンバッグで運び、埼玉県秩父市大宮の羊山公園脇の雑木林に捨てに行った。

事件発覚後の1988年7月25日、長男の証言に基づく警察の捜索によって、三女の遺体が発見された。

判決とその後

東京地方裁判所前

事件発覚翌日の1988年7月18日、長女と次女は衰弱していたため福祉事務所に一時的に保護されたが、その後の報道で、母親に引き取られたことがわかっている。

長男からの事情聴取は、栄養失調による影響もあって難航したため、捜査は長男及び長女の証言を合わせる形で進められた。

また、乳児のまま白骨となって発見された次男と、暴行の末に亡くなり遺棄された三女はともに、戸籍がないため火葬の許可が下りなかった。

そのため、1988年8月9日、A子は5人分の出生届と、2人の死亡届を豊島区役所に提出した。

1988年8月10日、東京地検は長男を傷害致死、死体遺棄で東京家裁に送致。「母親がいれば起こりえなかった事件であり、長男は教育的措置が必要」と、長男は少年院ではなく教護院送致へと異例の処遇意見を付けた。

同年10月26日、東京地裁は、A子に「わが子を養育する煩わしさから逃れようとした無責任、身勝手極まりない犯行、三女の死の遠因となったと言っても過言ではない」として、懲役3年、執行猶予4年を言い渡した。

その後、2004年には、本事件をモチーフとした映画「誰も知らない」(監督:是枝裕和)が制作・公開され、同年のカンヌ国際映画祭では、主演の柳楽優弥が主演男優賞を受賞している。

なお、朝日新聞土曜版「映画の旅人」によると、長男は学生生活を送り直し生徒会長になったというが、その後、母親と会う事は一度もなかったとのことである。