杉並・少年切りつけ魔事件(杉並少年連続通り魔事件)

幼い男児を次々にナイフで傷害することが快楽。陰部を切り取るなどした16歳少年の猟奇的犯行。

1963年3月から64年10月にかけて、杉並区周辺で小さな男の子が殴られたり、ナイフで切りつけられたりされる通り魔事件が相次いで起こった。

中には陰部を切られる被害児もおり、世の親たちを震えあがらせた。逮捕されたのは16歳の高校生だった。

事件の経緯と動機

1963年3月から1964年10月の1年7ヶ月にわたって、杉並区周辺で小さな男の子が殴られたり、ナイフで切り取られたりされる通り魔事件が相次いで起こった。死亡事件はなかったが、狙われたのがすべて男の子であり、襲ったのも男であった。また陰部を切断されたり、切られたりするケースもあり、早くから猟奇的な異常な犯行として知られた。

11件にも及ぶ事件の数々

  • 一件目の犯行
    1963年3月14日午後3時20分頃、杉並区沓掛町の路上で、自転車に乗っていた男児(当時10歳)が、男に背後から押され転倒したところを、ナイフで顔面を切りつけられる。10日の怪我。
  • 2件目の犯行
    7月14日午前7時半頃、同区大宮前の通称「済美山」内で、昆虫採集をしていた男児(当時11歳)ともう1人の少年(当時14歳)が、男に紐で縛られたうえ、胸や頭などを殴られ、1人が5日の怪我。
  • 3件目の犯行
    7月15日午後4時10分頃、同区堀の内の雑木林で、昆虫採集中の男児(当時11歳)が男に縛られ、猿ぐつわをされたうえで押し倒され、下腹部などをナイフで切りつけられる。2週間の怪我。
  • 4件目の犯行
    9月21日午後5時50分頃、練馬区石神井の雑木林で、栗拾いに来ていた男児2人(当時12歳、11歳)が、両手を縛られたうえで男に暴行を受け、1人は顔面や胸、腹をナイフで切りつけられ10日の怪我。
  • 5件目の犯行
    12月23日午後3時半頃、杉並区西田町の善福寺川付近草原で遊んでいた男児2人(ともに当時12歳)が縛られたうえで暴行を受ける。
  • 6件目の犯行
    12月26日午後0時10分、同区西田町の草原において、通行中の少年(当時13歳)が両手を縛られ猿ぐつわをされたうえで押し倒され、陰部をナイフで切り取られる。性器切断で全治2ヶ月の重傷。
  • 7件目の犯行
    年が変わって1964年5月3日午前8時半頃、練馬区南田中町の通称「牛山雑木林」内で遊んでいた男児(当時6つ)が、男に左頸部を切りつけられ、出血性ショックなどで2週間の大怪我。
  • 8件目の犯行
    8月28日午後7時10分頃、杉並区沓掛町の路上で、自転車に乗っていた男児(当時10歳)が、男に押されて転倒させられ、ナイフで顔面を切りつけられる。3週間の大怪我。
    30日、この男児方に「私はお前の息子を傷つけた犯人だ、彼を失いたくなければ百万円持って来い。もし警察か新聞に知らせればお前の息子を殺す」という脅迫状が届く。
    9月9日には「お前は警察に話したろう。おまえの息子には気の毒なことになるぜ」というハガキも届いた。
  • 9件目の犯行
    8月30日午前8時半頃、埼玉県北足立郡大和町白子の熊野神社裏山遊んでいた少年(当時14歳)が、両手を縛られたうえで押し倒され、陰部をナイフで切りつけられる。3週間の怪我。
  • 10件目の犯行
    9月3日午後6時35分頃、中野区大和町の証券会社寮脇の空地で、通行中の少年(当時12歳)、ナイフで頸部、左耳を切りつけられ3週間の怪我。
  • 11件目の犯行
    10月10日午後3時半頃、武蔵野市吉祥寺北町の市営グランド東側路上で、通行中の男児(9つ)が両手をシャツで縛られたうえで押し倒されたうえ、下腹部をナイフで切りつけられる。1か月の重傷

送られた「挑戦状」。逮捕までの経緯。

当初これらの事件は、軽傷で被害届が出ていなかったり、広範囲で起こっていたこともあって、各警察署では連続通り魔事件とは考えなかった。

捜査本部が置かれたのは、6件目の陰部切断事件が起こった直後である。

6件目の犯行からちょうど1年後の、1964年12月26日、一連の通り魔事件の犯人として、杉並区内の高校2年生A(当時16歳)が逮捕された。

犯人は挑戦状を送ってきており、筆跡などから中高生程度の少年とされ、Aが浮かんだのだった。

また、余罪として1964年8月上旬、杉並区本天沼の区立第九小学校で、校長他2名の認印2個などを摂取した事件があったことも判明した。

Aは犯行の動機を「雑誌を読んでいるうち男が女に切りつける話があり、小学生の男の子を狙ってやってみたら、その瞬間スーッとした快感を覚えた」と供述した。

少年Aの生い立ち

Aは1947年8月12日杉並区生まれ。自宅は国電阿佐ヶ谷駅から歩いて6、7分の閑静な住宅街である。父は役付の公務員で中流の家庭。Aは弟が1人いる。

幼少時に他の子をいじめたりすることはなく、また成長するうえで、異常が見とめられた点は少なかったという。

1954年4月、区立第九小学校に入学、成績は上位だったが、高学年になると中ほどとなった。友人関係では特に嫌われているということはないが、目立たない児童だった。

1960年4月、区立東原中学校入学。出席は良好だが、積極的に級友たちとふれあうようなことはなく、やはり目立たない存在だった。それでも優等生の部類であったという。

高校受験を控えると、夏から夜遅くまで勉強を続け、また塾にも通った。中央大付属小金井高校、城北高校、海城高校、中央大付属杉並高校、都立井草高校を受験し、第1志望であった中央大杉並高、井草高には合格したが、他の3校は不合格だった。結局、Aは2つの高校を較べてみて井草高校に選んでいる。

そしてその直後から、高校に在学しているあいだ、近辺で一連の通り魔事件を繰り返した。高校は逮捕されて中途退学となっている。

子の頃にはすでに、高校での成績は中のとなり、勉強に対する熱意はなくなっていた。

また女子生徒への関心はほとんど見られなかった。それどころか友人付き合いもほとんどない。行動記録には「協調性に欠け、孤独である。判断の傾向として自己中心的であり、情緒の傾向としては内向的で無口」だったとされている。

Aは理科系の大学に進学したいと漠然と考えていたが、高校在学中「学校をやめて自分で働きたい」「ブラジルに行きたい」「自動車に修理工になりたい」と母に洩らすようになった。これは高校で思うように成績が伸びなかったことの挫折感のあらわれと考えられている。

ちなみに、A宅は極端な欧米志向をもっており、家族が日本食を食べているときでも、Aはそれを食べようとせず、食事は箸ではなくナイフとフォークで食べるようになった。

床に座って食べる飯台がいやで、母親にテーブルを買ってもらって1人で食べた。また畳の上でもスリッパを履き、文章も横書きにした。

それ以外にも、Aは自分の身長(161cm)が低いことにコンプレックスを持っていたようだった。2つ下の弟が、中学3年の時にAを追い抜かしたことも関係している。雑誌広告で見つけた「身長を伸ばす」売薬を購入していたことも判明している。

Aは自分の犯行を、警察などの各種方面に挑戦状、脅迫状などを送ってアピールしている。これは古くは小松川高校殺人事件(58年)、近年では神戸・児童連続殺傷事件(97年)に通じるものがある。

以下に、Aが実際に1964年3月に警視庁広報課に郵送した「挑戦状」を付しておく。

私は小学生の下腹部を切った犯人だ。私は変質者ではない、
デハ ナゼ私ガ傷ヲ負ワセタカトイウト ソレハ 杉並警察署員及ビ警視庁ノ刑事タチヲ、アヤツリ人形ノヨウニ私ガ動カスタメダ。ナゼソノヨウナコトヲスルノカトイウト”日本”ノ警察ハ良クナイコトヲスル、タトエバ1964・2・12、ニ池袋ノマンモス交番ノ「丸山今利」「西沢亭」ガ行ッタ行動、ソノ他、多クノ朝鮮人ヘノ差別ガアル。タトエバ1964・2・12ノ朝「茨城朝鮮中高級学校」ノ寄宿舎デ日本ノ警察官(低能)が行ッタコト(ヨク調ベレバ分ル)、1962・9・20、アル交番デ公園デ話シテイタ朝鮮人ヲ警察官ガ(悪人)ソノ交番ヘ連レテ行キ、カンキンシテ暴行シタ事件、ソノ他、滋賀県。伊香郡木ノ本警察デ二人ノ児童ニ放火ノヌレギヌヲ負ワセタ事件ナドイロイロアル、以上ノヨウニ警察ハ悪イ。

ソコデ、私ハコレカラモドンドン私ノ計画ヲ実行スルツモリデアル、アナタ方ハ私ニアヤツラレテ。クタビレロ!私は絶対ニツカマラナイ、

私が犯人ダトイウ証拠ハ事件ノ詳細ヲ知ッテイルタトエバ1963・7済美小ノ児童ニ傷ヲ負ワセタ個所ハ睾丸デアル、コノ時ハソコヲ半分切リツケタ、ソシテ1963・12西田町デ負ワセタ時モ、同じ個所デ、ソノ時ハ全部切リ取ッテヤッタ、私ノ言ウコトガ分ッタカ?!

※(宛先)警視庁広報課消印 (消印)64年3月8日pm0-6 新宿局から

こうした挑戦状・脅迫状は計13通あった。評論家・大家壮一、大浜英子に宛てたものもあり、なかには英文で書かれたものもあった。

ある時には国電荻窪駅の北口交番前に、自分の出身校から盗んだ大学ノートを落とし、切断裸体の原画を貼り付けて、自分の犯行であることを示唆したこともある。

判決とその後

1966年8月3日、Aは懲役3年以上4年以下の不定期刑が言い渡された。

川越少年刑務所で服役し、1969年8月18日に仮釈放された。

しかし、翌年の1970年8月2日、武蔵野市の米軍宿舎内の車3台を全焼させ、他の4台のフロントガラスに「ヤンキーゴーホーム」と書き、また通行中の中学3年生の頭部を金づちで殴り3週間の怪我を負わせたとして再び逮捕された。

この事件では1972年3月31日に懲役12年が言い渡された。