上野小2女児殺害事件

「悪口を言われた」小2女児を目隠し、手を縛って13階から突き落とし殺害

1979年10月11日、東京上野で小学2年生の女児・B子さん(当時7歳)が、同じ小学校に通う4年生の女児・A子(当時10歳)に、13階建てのマンションの屋上から突き落とされて死亡するという事件が起こった。

遺体発見後、警察の事情聴取に対し、A子は当初「白い車がB子ちゃんを連れて行った」「マンションの前で白い車の男に話しかけられた」など嘘の供述をし、供述を二転三転させたが、最終的には犯行を認めた。

動機について、A子は「自分のクラスの運動会の成績が悪いと言われ、こらしめてやろうと突き落とした」と供述しているが、これに対して疑問を唱える報道も多くなされた。

事件の経緯と動機

1979年10月11日午後4時20分頃、台東区の日本電信電話公社(電電公社、NTTの前身)社員であった父(当時41歳)の長女で小学2年生のB子さん(当時7歳)は友達と二人で書道塾に出かけた。

前日の体育の日、恒例の運動会が行われ、この日は振り替え休日となっていた。平日のため、中学校の教師をしていた母親も出ており、B子さんは夕刻まで一人で過ごしていた。

書道塾は自宅から歩いて5分ほどのアパートの一室にあり、B子さんは毎週木曜日の午後3時から1時間半の稽古に参加していた。B子さんはいつもと同じように熱心にとりくみ、4時20分に、友達3人と一緒に塾を出た。

しかしB子さんは夜になっても家に戻らず、両親は思い当たる場所を探しまわり、8時頃に捜索願を出した。この日のうちに、近所の自治体メンバーや、B子さんの通う小学校の校長や先生たちも捜索に参加したが、なかなかB子さんを見つけることができなかった。

そして3時間ほどたった午後11時10分頃、自宅近くにある台東区池之端2丁目「永谷マンション」のブロック塀とプレハブ倉庫の隙間で、女児がうつ伏せに倒れて亡くなっているのを、捜索にあたっていた近所の人が発見。発見後すぐ、遺体がB子さんのものであると判明した。

B子さんの遺体のすぐ脇には手ぬぐいが落ちており、それで両手を縛られていたのか、Y子ちゃんは両手を前に組んだ状態であった。また、口にも手ぬぐいで塞がれた形跡があり、血まみれの姿だったという。

警察はただちに殺人事件として捜査を開始するが、直後に浮上したのが、B子さんと一緒に書道塾から帰り、遺体が発見されたマンションに住む小学4年生の女児・A子(当時10歳)だった。

A子はB子さんが発見される1時間ほど前、母親とともにB子さんの自宅を訪ね、道端に落ちていたという「すずり箱」を届けていた。そしてその際、「葉子ちゃんは白い車に乗せられて誘拐された」との目撃情報を口にしていた。

翌12日、警察はA子を補導。この時点でA子については、「B子さんと一緒に書道塾を出たこと」および「殺害現場となったマンションにB子さんと一緒に入っていったこと」が、目撃証言から明らかになっていた。

警察はA子への聴取を行ったが、それに対しA子は「B子さんとマンション前で別れた」と言ったり、「マンションの前で白い車の男に声をかけられた」「男に連れ去られたのをマンション8階の部屋から見た」などと話し、容疑を否認した。

しかし「部屋からはマンション前の通りは見えない」ことを指摘されると、供述が一転し、部屋で一緒に遊んだことを認め、犯行を自供した。

供述から明らかとなった動機と犯行状況

A子の供述によると、動機は「B子ちゃんが運動会のことで私の悪口を言ったの。『お姉ちゃん(A子)のクラスは、運動会で負けてばかりいたじゃない』と言われ、懲らしめてやろうと屋上に連れて行って突き落とした。」とのことだった。

また、犯行時の状況については、次のように供述している。

書道塾を終えたA子は帰りにB子さんを自宅に招いて遊んでいた。B子さんがA子の家に遊びに来るのはこれまで2、3回あったという。その後、動機となった前述したB子さんの発言に至る。

B子さんの発言に強い怒りを覚えたA子は、B子さんに「上で遊ぼう」と言い、13階建てのマンションの屋上(地上約35m)に連れていった。

そこでA子はB子ちゃんを持ち上げ、高さ1.4mの柵を乗り越えさせ、幅1mほどのひさしの上で、自宅から持ち出した手ぬぐいを使って「二人三脚をしよう」といって両手(足ではない)をタオルで縛り、目隠しをした。その後、タオルを首に巻きつけ、そして「ちょっと肩を押した」ところ、屋上から転落したのだという。

A子の話によると、両手を縛って屋上から突き落とすというのは「ドリフターズの番組を見て真似した」というもので、いかりや長介が縛られて突き落とされるコントがあったという。しかし、この報道を受けてドリフターズ側は「そんなシーンはなかった」と関連を否定した。

A子の生い立ちとその後

父親とは生まれる前に離別しており、母(当時34歳)の戸籍に入れられていたが、仕事があることや経済的に困窮していたことなどから、まだ生後2ヶ月の頃、知り合いであった近所の農家の老夫婦家に預けられた。

老夫婦宅はA子をかわいがっていたが、老夫婦らも経済的に困窮しており、老夫婦宅では豆腐とご飯だけという食生活で、実母とは月に数度ほどしか会えなかった。

その後、経済的困窮から、老夫婦は5歳になったA子を手放すことを決めた。

このとき、母親は千葉市内のモーテル(ラブホテル)に住み込みで勤務しており、その後A子は、実母の働いている系列の別のモーテルで清掃員として働いていた女性の家に預けられた。

月3万円ほどの養育費を支払ったという母親だが、ここでもA子は可愛がられた。この一家は夫婦と息子と娘もいたが、年も離れていたためA子は「小さな妹」として受け入れられ、当初は食事にも手を出さなかったが、すぐに養母父を「お母さん、お父さん」と呼び、慕うようになったという。

A子は成長するに従い、本当に養母を実の母だと思っていたようで、小学校に上がった際に「なぜ自分と苗字が違うのか」という疑問を何度も口にしたという。

そのため養父母は「A子を養子にしたい」と母親に申し出たが、それを母親は拒否した。

母親もまた定期的にA子に会いに行くなど、自分で引き取ることを切望していた。

このとき、母親はA子に「実の母親は自分だ」と打ち明けたが、この際A子は「母親が2人もいる」と喜んでいたという。

しかし一方で、この頃には既に"親と仲良く手をつないで歩いている"よその子どもにツバを吐きかけるなど、荒れた一面を見せ始めていたという。

そして、事件の約1年8カ月前となる昭和53年、養父が肝臓がんのため亡くなったことから、実母に引き取られ、事件のあったマンションで2人で暮らし始めた。

この頃には母親は、経済的に自立し、近くでマッサージの治療院を開業していたが、夕方から夜にかけて出勤するため、A子は学校から帰ると一人で過ごしていた。

A子が一人でマンションの屋上で絵を書いていたり、景色を眺めているのを同マンションに住む人がたびたび目撃しており、また、朝食は母親と共にしていたものの、食事は母親に与えられた夕食代の1000円で、一人で済ましていたという。

そんな負い目もあったのか、母親は教育熱心で、休日にはA子を連れて食事に行き、欲しい物は何でも買い与えていた。

近所の人の話によると、A子は同じ年頃の子供に溶け込んでいくことはほとんどなく、また、感情の起伏が激しく、気分屋で落ち着きもなかったことから、その改善のためにと母親はA子を書道塾に通わせるようになった。

A子とB子さんは、その書道塾を通じて知り合っていた。塾でA子は最年長で、下級生に筆の洗い方を教えるなど優しい一面をのぞかせていたが、一方で、下級生をかわいがる時と、冷たく突き放す時の差が大きかったという。

事件後、児童相談所でA子の観察が行われたが、「母親との同居は好ましくなく、また児童養護施設では矯正が不能」という判断のもと、A子は教護院に収容された。

その後、A子は児童相談所や教護院でも一貫して罪の意識を見せることはせず、B子さんやその遺族に対する謝罪の弁も述べることもなかったという。