浦和・高校教師夫妻息子刺殺事件

2020年08月

「女性との交際不調は親のせい」乱暴する息子に思い余り犯行

1992年6月4日、浦和の埼玉県立蕨高校教諭・斎藤恂(54歳)とその妻・対弓(つゆみ、49歳)が、普段から家庭内暴力を振るっていた長男で無職の洵さん(23歳)を刺殺した。

長男の家庭内暴力に追い詰められての犯行だった。

事件の経緯と動機

1938年3月30日、斎藤恂は東京・中野で生まれた。3人兄弟の長男で上に2人の姉がいた。

斎藤の両親は四谷にある米屋の小僧と、店の箱入り娘という間柄だった。

3人の子をかかえた父親は行商・運転手・銀行の集金人など仕事を転々とし、母親は野菜の行商、内職の縄張りなどをして家計を支えていた。父親は生活が貧しくても、女学校出の妻にコンプレックスがあったのか、読書・歌舞伎・文学の世界に没頭していた。

斎藤は毎朝納豆売りのアルバイト、日曜には父の行商の手伝いなどをしながら勉強に励み、県立浦和高校に進学した。ここは佐藤の長男・洵が2年で中退した高校と同じである。高校2年から奨学金をもらうようになったが、家の貧しさは相変わらずだった。

同じ頃、家庭では名門の女学校を出た母親と、高等小学校を出た父親の貧しさゆえの喧嘩が絶えなかった。また、上の姉と父親の確執がすさまじく、庭先で取っ組み合ったりして、斎藤はなだめ役にまわっていたが、こうした家庭内不和にも疲労困憊していく。

斎藤はこうした貧しさが嫌で、「東京大学に行けばちゃんとした仕事に就けて、貧しさから脱却して、こうした夫婦喧嘩も納まる」と思うようになった。勉強に励んだ斎藤は一浪して東大文Ⅰに合格する。

しかし東大進学後、思わぬ落とし穴が斎藤を待っていた。東大入学がとりあえずの仮目的だった斎藤は次第に空虚感と劣等感にさいなまされていく。厭世的な考えにも陥っていた。書物に救いを求め、手当たり次第に本を読むようになった。しかし、家庭内の不和もあり、斎藤の神経は磨り減っていく。

ある日、斎藤は自殺未遂を起こした。睡眠薬とウイスキーを一緒に大量に飲んで、東京駅発の特急電車に乗り、列車が名古屋あたりで急停車した時に、床に投げ出され、大怪我をして入院したという。斎藤20歳の時の話である。

その後、斎藤は文学部に転部したのち、27歳で東大を卒業。教職の道を選んだ。高校教諭として浦和東高、浦和西高、蕨高に赴任する。教師としては、管理職試験を受けるくらいなら、生徒と接していたほうがいいと”生涯平教員”を通していた。

一方、後に佐藤の妻となる対弓は女子高としては名門の浦和一女を卒業後、保険会社に就職。夜はデザインスクールに通っていたこともあった。

斎藤が教職についてから2年目の夏、斎藤の姉が通っていた洋裁教室に対弓が来ていた。「良い子ね」という洋裁の先生と姉のすすめで斎藤と対弓は見合いをし、翌年3月、結婚した。

結婚した年の12月、長男誕生。佐藤は長男に自分の名の「恂」と同じ、「洵」と名づけた。これは子供が大きくなってから、「父親と同じ名前で嫌だなあ」と思われない為にも、立派な父親になろうという決意のあらわれでつけた名前だと言う。洵のあとにも男の子を2人もうけている。

子供の教育に関しては洵に3度ほど体罰を加えたことがある。いずれも洵の口の聞き方によるものだった。それなりの理由がある体罰で、日常的に加えていたわけではない。

対弓は二男が中学生の時、PTAの副会長を務めていた。

長男・洵について

小中学校時代はクラスでトップクラスの成績だった。中学の卒業時の成績は全校で1、2番だった。中学では軟式テニス部に入り、キャプテンを務めたこともある。

進学校として知られる県立浦和高校に進学。

「クラスにだれもしゃべる相手がいない。皆俺を避けるような感じだ。学校では浮いている」

入学してまもなく洵は対弓にこんなことを打ち明けている。

高校の成績は中か、それ以下だった。洵は成績のことを気にしていた。対弓が「高校は中学とちがって試験前の勉強だけじゃ、こぼれるよ」と言うと、洵は「俺がこぼれるわけないだろう」と話した。

2年生になると、音楽に興味を示し始め、先輩と一緒に作詞・作曲して、文化祭で演奏したりした。20数万もする音楽機材を購入してもらい、家で作曲したり、歌ったりしていた。

3学期くらいからは学校にも行かず、ほとんど勉強せず、音楽を楽しんでいる建に、両親が注意すると、「もう行く気がしない」と洵は言った。

そして、やがて家にとじこもるようになった。

この時、対弓は「高校くらいは卒業しておかないと」と繰り返すばかりで、洵の理由や気持ちをくむことはしなかったようである。

洵は「自分は将来音楽で食べていくつもりだから、別に学歴はいらないんだ」と言い、期末試験も受けず、3月31日、退学届を出した。

後に大学の友人に高校中退したことについて、「みんな大学のことばかりに熱心で、人間としての幅がなく、一緒にいてつまらないから辞めた」と話していた。

退学してしばらく、家にこもって作曲などをしていたが、両親に「家でぶらぶらしているのなら、アルバイトでもしなさい」と言われ、スーパーの時計屋でアルバイトを始めた。

3ヶ月ほどして、突然「大学に行きたい」と話した。7月20日にアルバイトを辞め、8月4、5、6日の三日間の大検(十数科目)にむけて、徹夜で勉強を始めた。わずか2週間の勉強で、洵は無事大検に合格。10月末に合格発表があり、洵は他の高校3年生より早くに、大学受験資格をとることができた。

その後、大学受験までの100日間、1日15時間以上の勉強を始める。翌春、英語では最難関とされるA大文学部英米文学科に合格した。中退生が浪人もせずに一流の大学に合格したのだから、両親は再び洵に期待を抱き始めたのも無理はない。

大学に入ると、スキーサークルに入った。洵はめきめき上達し、1年で全日本スキー連盟の一級資格を取得した。おまけにスキーサークルの歌を英語で作詞、作曲し、自ら歌ったのだから、彼の大学生活は華々しいものだった。しかし、洵の活躍は両親の期待とは別の方向に進んでいく。

洵は「スキー合宿に行く」などと、何かにつけて小遣いを要求し始めた。その額は毎月平均10万ほどになっていた。学費を含め、年間200万ほどかかる洵は、高校教師の父が6人を支える一家の家計にひどくのしかかった。

建もアルバイトしてサークル費を稼ごうとするが、続かない。ピザ屋の宅配バイトをしたときには、交通違反代の支払いまで、親にさせた。その後、対弓が時給約700円のファミリーレストランのアルバイトをはじめて、家計を助けた。

そんな親の苦労も知らずに、洵はサークル活動やマージャン、女の子とのデートに明け暮れ、冬にはスキーインストラクターとして家を離れ、家にいる時は音楽を聴いたり、ピアノを弾いたりして勉強する姿勢は見せなかった。

斎藤が「このままじゃ単位がとれないじゃないか」と注意すると、「俺はやろうと思えばいつでもできるから任せておけ」と答えていた。高校を中退して、現役年で大学に入学した自信が彼にはあった。

「留年してでもやる気はあるのか」と斎藤が聞くと、「卒業する気はない。俺は大学生活を楽しもうと思った」と洵は言った。結局、洵は2年生いっぱいで大学を中退してしまった。この時の斎藤の怒りや悲しみは相当のものだったと思われる。同時に洵にとっても高校中退時以上の挫折体験となったのかもしれない。

中退をした洵はミュージシャンとして生きていくことを両親に話した。

両親は特別に反対はしなかったが、それだけで生活していくのは大変だからと、司法試験の勉強を薦めた。洵も友人に「弁護士資格を持っているミュージシャンはいないから、合格すれば目立つことができる」と話していた。

しかし、5月頃から司法試験の勉強を始めるが、数ヶ月ほどしか続かなかった。この受験勉強の途中、酒を飲んでは泣いていたことがあったという。また「部屋に霊がいる」などと言って震えていたこともあった。その頃から、洵は日本酒や焼酎を手当たり次第に飲んでは、昼夜の生活を逆転させ、何かにつけて母親に「親のせいだ」と悪態をつくようになった。

部屋に閉じこもって酒を飲み、たまにスキーサークルの仲間と遊びに出かける。母親の心中は穏やかではなかった。洵が精神的におかしくなったのでないかと思い、本人には何も言わず、一人で北浦和駅近くにある精神科医を訪ねた。しかし、この時「当事者が来なければわからない」と帰された。

その後、母親は実姉に相談したところ、「精神分析を受けたらいいんじゃないか」と新宿のBクリニックを勧められた。洵はそのクリニックに「一緒に行くよ」と言っていたが、当日になってグズグズして、結局また母親一人で行くことになった。

クリニックでは助手に30分ほど話を聞かれ、大学の講師もしているB医師が10分ほど対応してくれた。B医師の対応は母親にとってショックなものだった。

「(建は)自我の確立ができないまま大人になってしまった。治療が難しく、このままいけば、お気の毒ですが、悲惨な生涯になります。たぶん『退却神経症』という本を書いた方がつけた名称なんですが、それじゃないでしょうか?」

またB医師は事件後の刑事と検察官の事情聴取で次のように話している。

「症状を聞いて、いま患者が多い”境界例性格”ではないかと思いました。大人になりきれないでいる。そしてその責任は自分にはなく、他の者、親の責任となり、親に暴力を振るう、こういう症状の青年が多くなっています。このような患者さんは、母親の内的イメージから抜け出せない一方、母親とのずれを感じているために、自分が傷つくことを怖がり、成長した後も、自分が傷つくような場面に直面した際、周囲のせいにしたりして、自分を正当化する人格障害を形成するのです。ですから患者さんは、将来的に暴力を振るうようになったり親の責任であると主張したりするようになります。また性的に母親の偶像から抜けきれないために性的不能がみられることがあります。同じような症状では退却神経症という症状がありますが、この症状は、たとえば、家族の中に優秀な人がいた場合、その人を追い越せないことから、自ら同じ土俵で勝負することなく、自分から退却し、本業以外の別の部門でバランスをとろうとしたり、家に閉じこもって社会生活を拒否したりするような動きなどの形で現れてきます」

境界例はボーダーラインとも言い、神経症とか精神障害など従来の分類には該当しない人格障害と一般人格の境界にある病理的行為を指す場合に用いる。

Bクリニック受診後、医師に勧められた「退却神経症」(笠原嘉・著、講談社現代新書)を母親は書店で購入し、洵に読むように言ったが、結局読まなかった。

それから3週間後、奇妙な1件が起きた。

洵が真っ青な顔をして部屋から飛び出し、鳥肌をたてブルブル震えていたのである。

両親は洵をC病院に連れていった。この病院で診察をしたD医師は保険の病名はノイローゼだが、「人格障害の要素が強い」とした。診察の中で洵はブルブル震えながら、「何かの霊が乗り移っているということはないですよね。それとも霊媒師とかにもらったほうがいいですか」という質問をぶつけていた。親子3人と対面して診察したC病院のD医師はカルテの中の父子の名前に注目し、次のように話した。

「患者さんとお父さんの名前が同じ呼び名である。これも息子さんに対する思いが強く、子供にとっては、大きな重荷、つまり不安となる要因になるのです」

その後も洵の生活は変わることはなかった。

苦悶の日々

ある日、洵が「自分を見つめなおしたいので、一人で旅行に行ってくる」と、父親の車を借りて、長崎に旅行に行った。

洵は長崎からの帰途の最中、母親に電話をかけている。「セックスがうまくできないんだ」という内容だった。

対弓は以前、B医師に言われたことを思い出した。対弓は、斎藤に相談するように言い、帰宅した洵と斎藤が話し合った。この時、斎藤は「気持ちの問題だ。心因性のインポだよ。1回成功すれば治るよ」とアドバイスをしている。

洵は「1年前に司法試験の相談をやめたのも、最初に知り合った女性とセックスしようとしたができなかったためだ」と話した。酒を飲んで泣いたりしたのも、そのためだったという。そういうことがあったために、全然勉強できなくなった、とのことであった。

この長崎旅行の前に、洵は2人目に付き合った彼女と佐渡に旅行に行っていた。

彼女は3年時に大学を中退してから参加したスキーサークルで知り合った後輩で、この時もセックスがうまく行かず、彼女に泣いて謝ったと言う。自分が”不能”ということで、洵はそれまで自信家だったのに、ずいぶん自信を無くしたようだという。それでも、この彼女とは両親に殺害される直前まで付き合っていた。セックスは無しの関係だったが、彼女に「一緒に病院に行ってあげるから」と励まされたこともあったという。

1度、洵が斎藤に殴りかかろうとしたことがあった。

当時、87歳の祖父が寝たきりで、ボケ症状が出てきたため、斎藤と対弓が交代で祖父の隣りで寝ていた時だ。

夜中の2時頃、洵がビデオの音量を大きくして、声を出して歌っていたので、斎藤が「何時だと思っているんだ」と注意したところ、木製の椅子を振り回して暴れた。斎藤は「おまえ、また例のことで悩んでいるんじゃないのか」と話し合いになった。しかし、洵が途中で「うるせえ」と言ったので、斎藤も「ああ、お父さんはもう話はしない」と祖父の部屋に引き上げようとしたところ、追いかけてきて胸ぐらをつかんで殴りかかってきた。

1992年4月22日、祖父が亡くなった。5月31日、大宮霊園で納骨が行われ、その後自宅でお清めをした。洵は親戚達の前では普通に振舞っていた。

しかし、翌日午前2時頃、恋人との電話を終えると洵が荒れた。

少し前から建と恋人のあいだで、別れ話が持ち上がっていたが、両親は全く知らなかった。セックスの不安や、定職についてないことから、将来への不安があったようだ。

この日の洵は1階の居間のイスやテーブルをひっくり返すなど、荒れに荒れていたが斎藤は「洵はもはや聞く耳は持たない」と1階に降りず、そのまま横になっていた。しかし、「祖父の納骨をきっかけに立ち直ってくれれば」というわずかの期待が裏切られることとなり、この日の夜、両親のあいだで「もう殺してやるしかないな」という話があがった。この時、「出刃包丁を使って、ひと思いに殺ってあげたほうがいいな」という話までした。

洵は両親から「働け」と言われると、焼酎を床に撒いたり、イスを投げたりして暴れたが、それでも祖父の死に思うところもあったのか、5月から西麻布にある高級焼き肉店でアルバイトをはじめた。

午後10時から午前4時までの、深夜のウエイターの仕事だった。この職場での洵の評判も良いものだった。普段からニコニコしていて明るかった。同じ大学中退で音楽の道に進もうとした同店のマネージャーと親密になり、洵は家庭や自分のことなどを詳しく話している。今後のことについても次のように話していた。

「おやじとは名前も一緒で、期待された自分が高校・大学と中退して勉強しないことから親の期待を裏切った。二男も大学には行かず、親父は中学1年の三男にすべての期待をかけている。三男の弟の教育上良くないので、自分アパートを借りて家を出なければならない」

6月3日、電話で朝まで6時間の話し合いの末、洵は恋人と別れることとなった。12日に最後のお別れ会というデートを約束して電話を切った。

6時、両親が起床して1階に降りてくると、電話器が床に転がっており、壁には穴が開いていた。対弓が焼酎の瓶を片付けようとすると洵は「メシ!」「ビール買って来い」と怒鳴った。

斎藤が出勤した後、今度は対弓に「ラーメンを作れ」と言い出し、作って渡すと、箸を少しつけただけで「まずい」と言い、ドンブリごと台所のドアに投げつけた。二男と三男が出かけた後、洵はビールを飲みながら「彼女と別れた」「こんな体に産んだのは親の責任だ」と言って、再び対弓に当たってきた。

「てめえら、四国に逃げようたって、そうはさせないぞ。あいつの退職金だって、みんな使わせてやるからな。一生死ぬまで苦しませてやるから、そのつもりでいろ。お前らは塩飯でも食え。その浮いた金を俺によこせ。あいつによく言っておけ」

洵を殺すことを斎藤と話し合った対弓だが、最後の可能性として霊障鑑定にかけてみようとした。

対弓は洵の写真を持って大宮市役所近くの宗教団体を訪れた。

ここの女性の霊能者は「このままにしておいたら、大変なことになる。主人が殺されてしまう。あなたには水子の霊がとりついている。ちゃんと供養しなければだめだ。治すには100万円かかる。ご主人に内緒にしとかなければダメだ」と話した。

対弓がそんな大金はない、と話すと、その霊能者は「なら50万円は出せるか」と言った。結局、先祖の供養15万円、水子の供養50万円の計65万円で祈願してもらう話をつけ、対弓は実母に30万円借りて帰宅した。

この夜、対弓は昼間あったことを斎藤に話した。洵が恋人と別れたこと、宗教団体で65万円の水子供養をお願いしてきたことなど。

斎藤は水子供養について、そういうものを信用しなかったが、「それで気がすむなら」と反対しなかった。その話の途中で洵があらわれ、斎藤と言い合いになった。洵が斎藤に対して初めて「てめえ」という言葉を使うと、斎藤も怒り心頭した。この「てめえ」という言葉が斎藤の殺意を決定的にしたという。

午後8時半、洵がアルバイトに出かけていった後、佐藤は日付なしの退職届を書いた。

犯行当日

6月4日、最後に洵と会話を交わしたのはアルバイト先の焼き肉店のマネージャーだった。朝食を仕事場でとっているとき、洵はビールを飲みながら「家がまずい。出ないとまずい」と笑いながら話していた。

同日の午前7時45分ごろ、斎藤の出勤と入れ違いに洵がアルバイト先から帰宅した。

家に帰ると洵はいつものように「ビール買ってこい」「こんな体にしたのは親のせいだ」と対弓にわめき、冷蔵庫を倒し、電灯のかさを叩き割った。

対弓は黙って、「これが最後」という気持ちで建に水子供養の話をした。洵は「そんなもんで俺はよくならない」といい、「水子供養の料金を俺に渡せ」と言ってきた。

それを聞いて対弓は「もうだめだな」と思ったという。特に中学1年の三男に対する影響を心配して、「今日じゅうに殺ろう」と胸の中で決めた。

午前10時半ごろ、対弓は実家に行き、高校に電話を入れた。斎藤はその時授業中で、休み時間の時、降り返し電話を入れてきた。対弓は傍にいた実母にわからないように適当にごまかして話すと、斎藤もその意味を理解し、退職届けを自分の机の上に置き、自転車で対弓の母の家に行き、対弓と落ち合い、11時半過ぎに母の家を出た。

斎藤夫妻は出刃包丁を新聞紙にくるんで、自宅に帰ってきた。斎藤が一人で殺ろうとしたが、返り討ちにされるのを不安に思い、対弓は「私も手伝います」と話した。対弓は金属バットを探したが見つからず、プラスティック製のモデルガンを手にした。

何も気づいていない洵は自室のベッド上で左手を胸に置いて熟睡していた。斎藤は、手にした包丁で心臓を一刺ししたが、中心を外れていた。「ギャー」と悲鳴をあげた洵がベッドから転げ落ち、斎藤と取っ組み合いになった。

対弓はモデルガンを洵の頭に振り落としたが、こなごなに砕けてしまった。やがて包丁の先が欠けた。「包丁の先が折れたから別なのを持ってきてくれ」と斎藤が言い、対弓が急いで台所に行って、新たな包丁を持ち出し、斎藤に手渡した。

「許してくれ。俺が悪かった。お願いだから殺さないでくれ」

洵は弱りきった声で哀願した。これが最後の言葉だった。

「今じゃ、もう遅いんだよ。親を親とも思わない人間は親の手で死なせてやる」

斎藤が心臓辺りをめがけて包丁を刺し、洵はこの世を去った。11時50分、斎藤は自分で110番通報をした。

逮捕後、斎藤は次のように供述した。

「このまま続けていくのも地獄、そして殺人者の子供に、というのも地獄で、どっちを選んでも…まったく…展望が開けなかったのです」

判決

1922年、浦和地裁での初公判、両被告が起訴事実を認めた。

1993年3月、浦和地裁、夫婦ともに懲役3年、執行猶予5年を言い渡した。

その後、地裁判決後に検察が控訴。

1994年2月2日、東京高裁、父親に懲役4年を、母親には控訴を棄却し一審と同じ判決を言い渡した。