山口組三代目襲撃事件(大阪戦争・ベラミ事件)

組長2人と若頭がヒットマンに銃撃された衝撃

1978年7月11日午後9時半ごろ、京都市東山区のナイトクラブ「ベラミ」で、部下4人とショーを楽しんでいた山口組・田岡一雄組長(当時65歳)が突然狙撃された。

逃走した男は敵対する松田組系「大日本正義団」組員・鳴海清(26歳)。

この事件の報復から、8~10月にかけて山口組は松田組系の7人を射殺。鳴海の他殺体も9月に六甲山中で発見された。

匿っていた鳴海を殺害したという松田組系「忠誠会」の3人は、90年9月に殺人については無罪が言い渡されている。

事件の経緯

ドンを撃った男・鳴海清

1978年7月11日午後9時半ごろ、京都市東山区のナイトクラブ「ベラミ」で、部下4人とショーを楽しんでいた山口組・田岡一雄組長(当時65歳)が突然狙撃された。放たれた2発のうち1発は、田岡組長の首を貫通し、全治2ヶ月の重傷。他にも近くの席にいた医師2人も流れ弾にあたり重傷を負った。

撃ったのは対立する松田組系村田組内「大日本正義団」・鳴海清(26歳)。グラスに残された指紋から彼と判った。彼は組長を撃った後、店を出て阪急電車で逃走した。

豊中事件が勃発し、大阪戦争へと発展

山口組と松田組の対立は75年頃から続いていた。

1950年代後半以降、小松島抗争、明友会事件、夜桜銀次事件等の抗争を通して神戸から日本全国に侵攻した山口組を支えていた組織力と経済力は、警察の「第一次頂上作戦」によって大きな打撃を受けており、1975年7月26日深夜、豊中市の喫茶店「ジュテーム」において松田組系溝口組の集団が、先にいた溝口組幹部と面談中の山口組系佐々木組(組長・佐々木道雄)の組員3人を射殺、1人に重傷を負わせた。
(この事件が「豊中事件(ジュテーム事件)」と呼ばれている)

この背景には佐々木組内徳本組の構成員が大阪キタにある溝口組の賭場で起こしたトラブル(嫌がらせ)があったとされる。

この佐々木組と溝口組の衝突は、一旦は和解しかけるも決裂。同年8月23日に松田組幹部の自宅に銃弾が打ち込まれた直後、佐々木組の本家である神戸の山口組本部に銃撃が行われたことで大阪周辺の山口組勢力も参戦する結果となった。この後、翌9月3日には大阪市南区(後の中央区)の山口組系中西組(組長・中西一男)の組員が松田組系村田組の大日本正義団組員に射殺されている。 この混乱に山口組の組長・田岡一雄は傘下の組織に自重するよう厳命したとされる。

鳴海清と田岡一雄

これに対し、佐々木組は松田組の背後にいた大日本正義団・吉田芳弘会長を射殺。鳴海はこの吉田会長を尊敬していたという。彼は山口組に報復を決意、狙うのはトップ・田岡組長だった。

鳴海は1952年、大阪・西成区荻之茶屋で生まれた。両親ははじめ野菜を売っていたが、労務者相手の食堂をしていた。鳴海はどちらかと言えば、色白でおとなしそうな雰囲気を持つ。

中学卒業後、家の近くの工場で働いたが長続きせず、17歳の時に傷害致死事件で浪速中等少年院に送られた。退院後は土木作業員などをしていた。

その後、近所の女性と親しくなり結婚、実家の八百屋を改造して「なるみ食堂」を始めた。その後、博打などで地元の大日本正義団に出入りするうちに背中に天女の刺青を入れ、組員となった。

田岡組長は1913年に徳島県三好郡の農家に生まれた。46年に山口組三代目組長を襲名。「三代目」とつくが、実際には田岡氏が創設し、拡大させたとされている。

田岡氏は戦後まもなくから、構成員に対して「正業に就け」と言っていた。

ヤクザと言えども博打だけで食っていくのではなく、組織をいかして神戸港の船内荷役業に進出した。これは朝鮮戦争の特需で順調だった。その後は「神戸芸能」を設立して芸能興行界にも影響力を持った。

”一流経営者”田岡組長のもとで、創設時わずか33人の博徒衆に過ぎなかった山口組は、一代で460団体、1万5千人の巨大組織となったのである。

抗争への発展

姿をくらませていた鳴海は、大阪の夕刊紙に挑戦状を送りつけていた。

「田岡まだお前は己の非に気づかないのか・・・・・もうすこし頭のすづしい男だと思っていた。でも見そこなった様だ」
「日本一ならば真の親分ならば恥を知る者だ。それを知らぬかぎりしょせん、くすぼりの成り上りでしかない」
「このまま己の力を過信すれば、その過信がお前のすべてのものをほろぼす事になる。それは天罰だ。必ず思い知らされる時が来るぞ」

こうした挑発を受けて、当然のことながら山口組による報復が始まった。松田組系の7人が銭湯・路上・タクシー車内などで射殺されている。

◆8月17日 松田組系「村田組」・幹部 死亡
◆9月2日 松田組系「西口組」・組員2人 ともに死亡
◆9月18日 「大日本正義団」・幹部 負傷
◆9月24日 松田組系福田組内「杉田組」・組長 死亡
◆10月5日 松田組系「村田組」・幹部 負傷
◆10月8日 松田組系瀬田組内「石井組」・組員 死亡
◆10月24日 「大日本正義団」・幹部 死亡

ヒットマンの最期

一方、行方が探されていた鳴海は9月17日、六甲山中の瑞宝寺谷で、パジャマ姿の腐乱死体となって発見された。遺体の状態はひどく、10日経って背中の天女の刺青からやっと鳴海とわかるほどだった。

白骨化した遺体にはガムテープが巻かれており、脇腹などに数ヶ所の刺し傷、前歯が折られ、男根や爪もなかった。これは殺される前に激しいリンチを受けていたことを意味する。

鳴海は田岡組長を狙撃する前、妻と愛人を並べて、自身の計画を打ち明けていた。そして自分に万が一のことがあれば、助け合って生きていくようにと伝えた。家族の安全のために妻子を愛人の住んでいたアパートに移していた。

「ベラミ」から逃走した後は、大日本正義団二代目会長と愛人に連れられ、同じ松田組系の「忠誠会」(兵庫県三木市)に匿ってもらっていたという。

10月8日、「忠誠会」幹事長ら3人が鳴海殺しを自供。その動機は「山口組の激しい報復に、持て余す存在となった」というものだった。ところが3人の供述には微妙な食い違いがあった。

11月1日、山口組は記者会見をして「大阪戦争」の抗争終結宣言を発表。
松田組は資金難から5年後に解散した。

誰が鳴海を…

81年7月23日、田岡組長が急性心不全のため死去。享年68。組葬では美空ひばりが弔辞を読んだ。

田岡組長は鳴海に狙撃され尼崎市の病院に運ばれた時、こう言っていた。

「わしを狙うなんてえらい奴ちゃなあ。しかしなあ、自分が助かる気で撃つから失敗するんや。自分が死ぬ気でわしを撃ってくるんやったら、もっと近くへ寄って、もっと狙って撃つべきやった」
「(流れ弾に当たった人を心配して、)俺はええから、向うの人の手当てを早くせえ!」

と指示していたという。

判決とその後

90年1月28日、大阪高裁での差し戻し控訴審で、近藤暁裁判長は「客観的な証拠と矛盾し、不自然な変遷も認められる。捜査官の誘導や、作意が疑われ信用できない」と。神戸地裁の一審を破棄、3人の殺人罪については無罪とし、逮捕監禁罪、同幇助罪でのみ懲役8ヶ月~1年を言い渡した。

鳴海殺害の真犯人はわかっていない。